坂田運一郎先生の思い出

2011.10.7. 坂田運一郎先生死去(94歳)  寿域長根14-3
   10.10. 近親者のみにて葬儀終了。香料等は固辞。坂田信一 という死亡告示広告が出た。

坂田先生の思い出をここに記録しておく。
 坂田先生は私が理科に興味を持たせてくれるきっかけになったからである。
 私が渟城第一小学校(当時の校長野中毅) 5,6年生(昭和23,4年)のとき、理科を教えてくれた。当時は戦後の物資のない時代で、教科書は墨で消した教科書から粗末な紙質の白黒の教科書だった。そんなとき理科の時間に理科室に入ったら 3人に1冊でしたがカラー刷りの上質紙教科書で初めて勉強した。今でもその時の印象が鮮明に残っている。勿論授業終了後、教科書は回収し、次の時間に、別のクラスの生徒が使用した。又理科生徒実験を生まれて初めてやった。実験は月、 1回位だった。どんな実験をやったかは今は思い出せないが、電池と豆電球や電池の直列、並列、磁石のN,S、石鹸づくりなどの実験であったように思う。実験室には試験管、ビーカー、三角フラスコ、三脚、石綿つき金網、洗浄ブラシ、アルコールランプ、などの器具を初めて見て、使用した。小学校では高学年になると、理科の専門の先生がいるのだと知った。その後中学校に入ったが新制一中で、まだ予算不足で生徒実験はなく、教室での演示実験が多かった。私は昭和35年に教師になったが予算不足で生徒実験は難しかった。
 坂田先生は授業時間に宇宙旅行の話を熱心にしてくれた。宇宙は空気がないこと、ロケットの構造、重力圏の脱出などである。私は未知の世界に感動した。その後に「アトムの漫画」を見たように思う。その後道川海岸で、糸川博士のロケット実験が始まり、私が大学 3年の時に、そのロケットの警備のアルバイトをやった。そして
アームストロングの月面着陸のテレビを徹夜で見たのだった。教師は「未来を語るもの」という言葉がありますが坂田先生はそのひとりだと思う。
 生徒実験の大切さは自然現象は誰がやっても同じ結果が出るという自然法則を体得させることにあり、自分の手を通してやった実験は長く忘れないことです。その記憶は教師実験の比ではない。しかし費用と教師の負担を伴うものである。
 私は小学校のときは目立つ生徒でなかったので、小学校時も卒業後も坂田先生と会話することもなく、お礼を言うこともなく、永の別れとなった。今推測してみると、敗戦三年後、昭和23年、坂田先生は31歳、物資難の中、どんな理想をもって、どんな犠牲を払って、生徒実験をやったのだろうか。子供たちに夢を抱かせたこと、来るべき、経済高度成長に貢献したことは確実である。
 私が理科に興味を持ったのは坂田先生の小学校の授業にあったと、今は考えている。
 坂田先生に感謝して、ご冥福を心からお祈り致します。

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