秋田からのお便り

はじめに

 「花と緑の街づくり」・「環境緑化都市宣言」といったスローガンを大きく掲げた立看板を全国の市町村で多く見かける昨今、このスローガンとは裏腹に砂を噛むような無味乾燥で殺風景な景観が、日本列島を蝕むように拡がってきている。
 その中でも特に街路樹が酷い。
その醜態に我慢ならず、新聞紙上へ投稿されたのが、作家の中沢けいさんだ。
中沢さんから憤りにあふれた新聞紙上への投稿文の転載を許していただき、さらに「なぜこうなったのか、どこに原因があるのか」を赤裸々に語っていただき掲載したのが本誌第一六二号だった。
この第一六二号が発行して間もなく、緑化業界の専門紙にも大きな見出しで《 “害路樹”の惨状 消える公共財産》と一面を飾った。また、編者の元にも読者からのお便りが届いた。
これからご紹介するのがそのお便りで、差出人は秋田県能代市で作庭に情熱を傾ける福岡 徹さん(四十一歳)だ。郷土の現状をつぶさに把握し、本誌にお便りを書かれた、それは郷土の恥部を自らの手で探り、えぐり取って晒すことに等しい。この行為には大きな勇気とエネルギーが必要。しかしこの行為こそが、我が「郷土」を愛して止まない心の持主であることを証明している。
「自分の言動に責任を持ちたい、だから敢えて匿名は避けたい」とする福岡さんの揺るぎない強い意志に敬意と感謝の意を表したい。

編者=豊藏

母から能代市への質問状

拝啓 能代市長様へ

 先日、久しぶりに能代の実家に帰った時に感じたことなどを申し上げたいと思います。富町から日吉町に抜ける道を通って実家まで帰ったのですが、両側に並んだイチョウやプラタナスの街路樹が、電柱と見間違えるかのように腕をもがれ痛々しげに並んでいた姿に驚きました。

 冬、葉を落とした街路樹はただでさえ寒々しく感じますが、私の目には寒気を覚えるほどの異様な光景に映りました。 落ち葉や病害虫、電線や建物への支障など、こちらにお住まいの方々の受けるご迷惑を考えると、仕方のないことなのかなとも思いますが、街路樹が街並みの美観の為にあること、市の財産、市民の財産であることを思うと、少しばかり疑問を感じました。

 木の生理や剪定の仕方などに無知な素人がこんなことを申し上げるのは、市や業者の皆さんに対して大変失礼なことと思いますが、木として生きることを許されないこの街路樹たちの不幸と悲しい宿命を思い、なんとも気の毒な思いをしております。先日の北羽新聞のコラムに『休眠打破』という記事があり、興味深く読みました。休眠は、人も木も、次のステップに向けた準備期間だと思います。それを思うと、この街路樹たちは、もうすぐ眠りから覚める芽をすべて切り取られた状態で春を迎えようとしているのですから本当に気の毒です。
息子が植木の仕事に携わるようになったこともあり、私も、日々緑には関心を持って見るようになりました。

車を運転する息子に、「こんなに切っても枯れないのか?」と尋ねると「街路樹は強剪定に耐える樹種を選んでいる。」とのこと。 続けて「夏になったら美しい姿に戻るのか?」と聞くと、「春に出すべき芽を全部切られた木は、幹や枝の見えないところに隠れた不定芽を一斉に吹き出させる。枝を更新させる意味でやったと思うが、これから出てくる枝は上や下に狂ったように伸びて、その木本来の枝の伸び方は出来なくなる。木は、人に酸素を提供する為に葉を茂らせるのではなく自らの命を守る為に葉を出すんだ。」ということでした。
 「では、なぜこのようなことをするのか?」と尋ねると、「植木屋も役所も、木は切ればいくらでも伸びてくると思っているようで美醜はあまり関係ないようだ。予算が無いのは解かるが、発注者も受注者も自分の住む街の仕事をしているという思いが足りないと勘違いされてもしかたのない気がする。」という答えが返ってきました。

 能代市は「黒松のまちづくり」を進め、街路に黒松を植えています。市民の愛好家の皆さんの手できれいに剪定された黒松ロードなどは、「風の松原」の街にふさわしい能代の顔になりつつあると、嫁いだ今も「ふるさとの誇り」と思っています。

 素人なりに、木の種類や性質で剪定の仕方も違ってくるんだろうなと思いますが、一般の愛好家の方が手を入れた松とプロの植木屋さんが手をれた街路樹を比べてみると、本当に緑が好きで、自分の住む街を美しくしたいという純粋な心で手を入れた黒松のほうに「美しさ」を感じてしまうのは、私だけではないように思います。

 息子は、「同じ並びにある今年は手を入れられなかったイチョウを見て、幹元に残すべき小枝がちゃんとあるし、作業する人が登れるようにしたいなら太さのある枝を小枝のあるところで切ればいい。
それに、まだ小さい木まで画一的にブツブツ切る必要はない。木は一本一本が皆違う。枝先を詰めれば落葉樹らしさは無くなる。ビスタ効果を狙って枝配りや剪定に統一性を持たせようとしているとしても、一本一本が美しくなければ無意味だ。ケヤキやナナカマドにそんなやり方をしていないのが救いだ。」といっていました。そしてこう続けました。

「中央のマニュアルを鵜呑みにする必要はない。地方に合った、場所に合った、その木に合わせたやり方をするべきだ。仮に業者のレベルが低いなら、今の入札システムを一度リセットして、額を競わせるより、技術力や街を思う心を競わせればいい。たとえば十社から指名願いが出たら、試しに十社を同じような大きさの街路樹に向かわせ、十社がそれぞれ思う一番良い方法で剪定させてみたらいい。そんな剪定をした理由を聞き、木に合った、街に合った美しい姿はどれなのか、一番良い剪定方法を街路樹の剪定の基準にすればいい。仕上げるまでの時間と出た枝の量を計れば基準にすべき見積り額も解かる。
環境や予算を考えるなら、出た枝の処理などもチップにする機械を市が購入してリサイクルすればいい。植木屋は手間賃だけやればいい。その年に使える予算で.その年に剪定する本数を決めていけばいい。十本の剪定を発注するなら十社に一本ずつ同額で受注させて、自社の剪定した木に社名の付いた札をつけさせればいい。恥ずかしい仕事は出来ないから業者も必死になる。業者の技術のレベルも市の意識のレベルも上がる。ブツブツ切るだけの街路樹の剪定に植木屋の良心が痛み、市の仕事に参加できないでいる業者がいるとしたら悲しいことだ」。

  息子の話は理想論かもしれませんが、親子の感情を抜きにしても、一考の価値はあるのではないかと思いました。 調べてみましたら、今は街路樹剪定士という資格もあるそうです。国ではなく業界の団体の認定制度のようですが、そのやり方を参考にするにしても鵜呑みにせず、能代に合わせたやり方が必要だと思います。街路樹のこんな痛々しい姿は、何も能代に限ったことではなく、全国各地で見られるそうです。
先日、市立図書館で閲覧した『庭』という雑誌の三月号に、作家の中沢けいさんが寄稿した《街路樹は泣いている》という記事を見つけました。私の住む二ツ井町は「環境のまちづくり」を進めていますが、我が町も残念ながら例外ではありません。新しいものをどんどん造るのも良いのですが、今あるものをちゃんと管理できなくては、これから植えられる木々たちにとっても悲劇です。
人に優しくするように木にも優しく接してあげたい、人の手で植えられた木に優しくしてあげられなければ、本当の意味での「環境のまちづくり」にはならないのではないかと、この雑誌を読んでそんなふうに思いました。
 能代に生まれ育ち、隣町に嫁いでもう四十年にもなります。今、「生まれた街(市)」と「暮らす町」が一つになろうとしています。成就すれば、これからは今暮らしている町がそのまま生まれ育った「ふるさと」になるわけですから、私にとっては本当に喜びです。これから暮らす街(市)が本当に住みよい美しい街になることを願うとともに、こんなことも新しい市のまちづくりを考える上で大切なことなのではないかと思い、筆を執りました。
  合併協議でお忙しい中大変恐縮ですが、市がどのような考えのもとにあのような剪定を行われたのか、今後もやはりあのようなやり方を行われていくつもりなのか、改善の余地はあるのか、住民投票を前にした今、後学のためにも是非お知らせいただければ幸いと存じます。敬具



植木屋の良心と誇り     福岡 徹

写真の街路樹は、この三月に撮影した秋田県能代市の街路樹です。
以前から街路樹の剪定を含む公共造園のあり方には疑問を持っておりましたが、ちょうど『庭』誌三月号《街路樹は泣いている》の記事を拝読した時に母と見た光景でしたので、強く印象に残りました。
 他市のことを悪くいうのは気が引けますが、この市は私の母親が生まれ育ったふるさとであり、先ごろ私の住む町と一市一町での合併が決まりました。
来年三月には私自身のふるさとになりますので、一市民予定者の立場で、自分の問題として考え始めているところです。

今、すぐ行動を起こすべき

私は、この市の隣町で個人庭園を主体とした造園業に従事しております。
植木屋の剪定観というのは人それぞれであり、決して特定の業者の技術を非難するものではありませんが、それが発注者の市が指定した仕様だとしても、植木屋の良心や誇り、美意識を感じさせてくれないこのような剪定には、悲しさとともに憤りを覚えます。
 秋田県は庭の歴史が浅く、日々の仕事からも樹木の剪定に関する意識はあまり高くないように感じています。
 他地域のように専門外の業者が受注したりするケースは無いように思いますが、透かしの必要性や自然樹形の剪定法にも理解が浅く、いまだに刈り込み主体の剪定が行われているような土地柄ですから、樹木の管理に対する知識や美意識の低さが、この街路樹の剪定にも表れているように思います。

 母に届いた市からの回答です。
「今回の剪定は住民からの要望(苦情)や災害時の安全確保の為に従来に比べ大幅な剪定をしたが、樹勢は十分考慮している。
樹木は自然樹形のまま維持するのが望ましく、のびのびと育生できる環境が理想的だが、街路樹は道路空間の制約や景観の問題もあり、一概に自然樹形や庭木のような剪定がベターとは言えないものと考えている」というものでした。
この返事が届いた日と前後して、街路と比べあまり制約を受けない公園でも、写真の街路樹と同じような剪定が行われているのを偶然目にし、管理する課が違うとしても、市は街路樹も公園も同様な管理を行っており、私の声など全く届いていないのだなと失望した次第です。
 実は、今回の投稿に際しては、「我が街」となる市や数少ない同業者を非難するようでとても心苦しいものがあり躊躇しましたが《街路樹は泣いている》の記事を読み、
今まで感じていた思いが湧き上がり、未熟なりにも自分で出来ることをしたいという思いが強まってきました。
現状を否定するにはそれに代わる代案が必要と考えます。現時点での私自身の具体的な解決策はまだ形になっておらず『庭』誌への投稿を控えておりましたが、今回、街の街路樹の現状を見るにつけ、一人で考えて出ない結論を待つより、皆で考えなければならない問題なら皆と考えるきっかけを作る方が先ではないかと、今すぐ行動を起こすべきではないかと思い直した次第です。
 ただ醜い写真を公表し非難するだけでは何も変わらないし、何も生まれないと思っています。
今回の母への回答はあまり専門的な見解ではないと思われましたので、今度は私の方から、街路樹の剪定だけでなく支柱の醜さなども含めた公共造園の完成度の低さ、自然や環境に対する美意識や樹木に対する心遣いの欠如した工事の現状と、それが及ぼす害などを言及し、改善の必要性をお話しました。
能代市は日本五大松原の一つ「風の松原」を有し、北に世界遺産白神山地を望む自然豊かな素晴らしい街です。街路には「風の松原」にちなんで黒松の植えられた「黒松街道」もあり、「風の松原」とともに市民愛好家の皆さんの手で管理が行われるなど、官民一体となった取り組みもあります。

万民の為の公共工事を

この街には、街並みと自然が共存出来るような可能性はあると思っています。もし全国のどこかの自冶体で、街並みに調和した管理の行われている街路樹などがありましたら、行政、業者、住民の取り組みなども含めてご紹介いただけないかと思っています。 
我が街の恥を晒すのは本当に忍びない、辛い思いですが、近隣の市町でも「右に習え」というばかりに、同じような剪定が行われています。
 この投稿の反響を聞くことで、市や業者にもっと問題意識を持ってもらい、木が木として生きられ、街並みに活かされるようになることを願っています。 それが、公共工事でも植木屋が植木屋の良心と誇りを持って仕事が出来ることに繋がり、本当の意味での万民の為の公共工事になると思っています。「百花春至誰為開」、私の好きな言葉です。
 花や芽は、人の意思などに関係なくただひたすら咲いて芽吹くだけですが、この街路樹たちにも、人として、庭に携わる者として、「咲いてくれている」という感謝の気持ちを持って接してあげたいものだと思っています。

皆の心や街路樹にも笑顔の花が咲くことを祈って・・・。

平成十七年四月七日 秋田県 福岡 徹



町の緑を考える

TOPへ戻る