腎移植体験談(更新版)99/10/27 能代白神看護学校に於いて

はっきり言って長文です・・・1時間15分版ですから・・・


私の移植体験談〜心のケアを考える

                                村越 正道

 ここに立つことをお受けしたときに、担当の方に「演題をどうしましょうか?」と言わ

れとっさに副題にある「心のケアについて考える」にしましょうと決めました。看護婦さ

ん、それを目指す人たちの前でお話しすると言うことをすっかり忘れていまして…。

 こういうことをお話しますと決めておきながら、慌てて自分を見つめ直してみましたが、

気がつきました。私はどう逆さまになって考えても、この場でお話をする程立派な人間で

はないので、お忙しい中お集まり頂き誠に恐縮ですがこれにて終わらせて頂きます。ご参

集の皆様大変お疲れさまでした。

 

 冗談はさておき、私は腎臓が3つあります。

 腎不全になって、弟から腎臓をもらい受けましたが、不幸にして駄目になった腎臓はそ

のまま背中に鎮座しています。だから3つです。

 人間の体って不思議ですよね。使わなくなるとどんどん退化していき、繊維状になって

やがては体内に吸収されるんですってね。っと言うことは使わない頭はどんどん減ってい

く…怖い。皆さん毎日ちゃんと使いましょうね。

 演題に在る通り今日は私の生体腎移植体験談をお話させて頂きます。話の中で解ると思

いますが、病にかかっていざ移植が決まるあたりで大分心が揺れます。自分自身が喪失し

てしまって、頭の中が無茶苦茶になっていくんです。

 これからお話する事を聞いて、移植というものを疑似体験していただいて、心について

考えてもらえればと思います。

 

 腎炎にいたるまで

 

 小学、中学と通して体操をやっていましてこれといって大した病気もせずに高校まで来

ました。それまでは殆ど病気とは縁がなくて、記憶にある病気といったら風邪くらいでし

た。高校に上がってから私は今まで続けてきた体操競技をやめました。別に大した理由が

あった訳でもなくただ単に体操部が無かっただけの事です。そこで私は唄が好きだったの

でフォークソング同好会という怪しげなクラブをつくり、ホラばっかり吹きながらMC中

心のコンサートばっかりやっていました。高校2年の夏休み前に学校の尿検査で蛋白が出

ているという事で再検査をうけました。その時は2+で、夏休みを利用して秋田の中通病

院で検査を受けるようにと言われ入院しました。そこでお決まりの腎生検やら総合的な検

査を受けましたが結果は急性糸球体腎炎。それから1カ月間ステロイド投与を受けて安静

が続きました。

 とはいうものの自分としてはそんなに重大な事とは思っても見ませんでしたから、初め

ての入院で興味津々、楽しくて仕方ありませんでした。病院に入ってまず驚いた事はとに

かく老人が多い。若い人は誰もいない、いちばん近い人で確か39才の方だったと思いま

す。それもそのはず私が入ったのは循環器病棟でしたのでほとんどが心臓の病気の方で高

齢の方が多かった。それでも看護学校の生徒さんが私に勉強の為にでついてましたから、

暇になると病棟の学生さんがみんな集まってきて楽しく過ごしました。私の入っている病

室にいた方々も付き添いさんはじめ異様に乗りが良かったせいも勿論ありますけど。楽し

く過ごしました。退院予定日が近づいてきまして主治医と面談しまし、今までの経過を聞

きました。なぜそうなったかは良く解りませんでしたが、最終的に告げられたのが

球体腎炎でした。その時主治医がいうには、「あなたに腎臓は今正常を10とすると8前後

しか働いていません。この数字自体は別に今すぐにどうこうという物では無いけれども、

将来悪化した場合透析が必要になります。わかりやすくいうと、今一般の年齢で40歳

程度の働きをしていると思って下さい。ですからその年齢に達するまで大事にしていれば

後は自然に機能低下する物ですから普通の人と変わらないのです。腎機能が低下しないよ

うに1カ月に2度通院して、薬を飲んでいればいいとの事でした。この病気は別に痛くも

痒くもない。なにせ本人は病気だという自覚がない。薬は3分の1も飲まないしこれで良

いわけもなく、夜は遅くまでレストランの厨房でアルバイト、朝は6時に起きて学校とい

う生活、健康な人間でもまいってしまうようなスケジュールでした。節制も心がけるどこ

ろか体力に自身もあり精力的に何でもこなしていました。

 

 腎不全に至るまで

 

 高校も3年になりクラブ活動も最後になり、フォークソング同好会としても文化祭に向

けて力が入っていました。入りすぎるくらいのめり込んでいましたから、文化祭前日など

はリハーサルや機材のセッティングで学校に泊まり込み夜中の2時くらいまで動いてまし

た。それがいけなかったのでしょう。2時間のコンサートが終わってすぐ喉の痛みを感じ、

しばらくすると自分一人では歩けない状態になって病院に運ばれすぐに入院する羽目にな

りました。

 その時いわれたのは通常の半分以下という事でした。また腎生検とステロイド投与を受

け絶対安静と言う事で1カ月ばかり寝ていました。いままで感じなかった疲労も慢性的に

感じるようになり、今思うと殆ど自殺に近いものがあります。知識がないという事は本当

に恐ろしい事だと思いました。

これからはもう2週間に1回通院して薬をもらって飲むという生活を続けました。体は

疲れるし何といっても気力自体がなくなっていく。気持ちの張りがなくなるんです。学校

へも行くのが面倒になり、雨が降っては休み、嫌いな授業があると「通院」といってはさ

ぼって家でごろごろしている日が続きました。11月になって担任に呼ばれまして、「出席

日数が足りない」と言われこのままでは留年しなければならない事を告げられました。私

もかなりいい加減な人間でしたが、高校位出ていないと後々困るという事位解ります。と

言ってもこれからもう1年留年までして卒業したいとも思いませんでしたから、担任と相

談して補習授業で不足日数分を補う事に決めました。これからが大変です。もう11月を

過ぎてますから雨でも降ろうものならいつ雪に変わるか解らない。それまでしばらくチャ

ランポランな生活をしていましたから学校へ毎日行く事自体も辛い。そのうえ通常の授業

を受けた後に2時間の補習授業がある。冬休みいっぱい学校へ通い、さらに春休みも3月

31日まで通いようやく4月1日に卒業証書を頂きました。本当にこの期間様々な方に多

大な迷惑をかけました。学校の先生方には休み返上でお付き合いさせ、それでも最後まで

あきらめずに面倒を見て頂き大変感謝しています。一人だけの卒業式にも、秋田に残った

クラスメートがみんなで学校に来てくれてお祝いしてくれました。この時自分一人で生き

ているのでは無いんだなと実感させられました。

 卒業後はある人にライブハウスを任され、夜はそこで唄い、昼間は塾の講師をしており

ました。

 22才になり(昭和59年)両親に頼まれ実家の家業である時計店に入り能代支店に来

ました。能代市の支店に配属になって一人暮らしを始めるようになってから、少しずつ生

活のリズムが違ってきたように思います。勿論気をつけてはいましたし、減塩食も基準よ

りは随分甘かったにしてもある程度守っていました。ただ仕事の性格上たまには酒も飲み

ましたし、また嫌いでもなかったので、ついつい飲み過ぎる事もありました。そうこうし

ている内にクレアチニンは変わらないのですが、尿酸値と血圧が上昇しました。尿酸値は

8.5から9.5位で、血圧は140/100と言う状態が慢性的に続きました。ザイロリックや利尿剤の投

与を受けましたがいっこうに好転の兆しもなく1年に何回か痛風にも悩まされました。肉

類をあまり食べないようにとよくいわれ気をつけてはいましたがなにせ一人暮らしの身の

上ですので外食が多い。なかなか肉以外のものを食べさせてくれるところなど無いんです。

それでも小さな食堂のお世話になって気を使った特別メニューでつないでいました。

 4年が経過し昭和62年の8月頃いつものように病院に定期検診にいくと主治医に「疲

れませんか?」と聞かれました。そう言われてみると朝は全然起きられないし何となく慢

性的な疲れがたまっている。視力も随分落ちてきて1.2だったのが0.6になっていました。

忙しさに紛れて自分の体の状態に慣れてしまっていたのです。この頃にはクレアチニンは

すでに5から5.5に上がっていました。この時も大事を取って入院しましたが、どうなるも

のでもなくとにかく体を動かすと筋肉からでてくるクレアチニン濃度は上がるのだから、

「とにかく安静にしている事」という指示をされそのとおりにしていました。この頃から

BUNも40位に上がり、タンパク質の制限もかなりきびしくなりました。ただあまり取ら

ないと体の脂肪が分解され尿素窒素が上がるという事で食事のメニューも決められるよう

になりかなり苦痛が増してきました。もうこれで一生うまいものは食べられないのかと真

剣に考えたものです。あの味気ないおかず、塩分制限の為醤油は殆ど駄目。エネルギー補

給はもっぱらよく水に浸してカリウムを抜いた野菜炒め。味噌汁は殆どぬるま湯状態、今

から思えば良くもこんな物ばかり食べていたと思います。思いは一つです。一日でもいい

から透析開始を伸ばしたい、それだけでした。この時食事に気をつけてさえいれば1年位

は大丈夫といわれ、透析用のシャントも造らずに生活していました。その間人にすすめら

れて腸内細菌なる食品を愛用していました。内容は簡単にいうと体にたまった老廃物を

各々の臓器に頼らなくても腸の中の細菌が分解して排出してくれるといったものでした。

確かにしばらくはクレアチニンも上がらずそのほかの数値も安定していました。しかし高

い。月に10万円前後かかるのです。それでも藁にもすがる思いで1年3カ月飲み続けま

した。そんな努力もむなしく翌63年11月にはクレアチニンもすでに7.5を超えもはやこ

れまでかと再度入院しました。

 

透析まで

 

 この時に入院したときに主治医はとても親身になって下さいました。色々な本を持ってき

て下さって、透析について様々な角度からお話下さいました。また自分でも様々な本を読

みあさり勉強しました。そこで日本の移植医療の実態や、脳死の問題などを初めて自分な

りに考えるようになりました。腎不全からの治療にしても、血液透析、腹膜還流透析、そ

して腎臓移植の3つの選択肢がある事。透析はあくまでも対症療法であって、根治治療に

はなり得ません。機械は人間の臓器の10分の1を補うのがやっとですから、必ず他の障

害が出てきます。

 そのころの私は自分で何でも決めていましたから別に両親にも兄弟にもこれといって相

談する事はまずありませんでした。勿論そのころ家族は皆事情は知っていたし、私がいな

いところでは随分話し合いや心配はしていたでしょう。そんなある時下の弟二人が自分の

腎臓を提供したいと私に申し出ました。困惑しました。気持ちは嬉しい。しかしたとえ兄

弟といえども今は自立して生活している一個人です。仕事も生活もそれぞれが体一つで実

家から離れて神奈川で頑張っているのです。そんな彼らをどうして傷つける事ができましょ

うか。医師からいわせればドナーは絶対安全であり手術後も10日もすれば退院して通常

の生活ができるという。どこに絶対などという確証があるのか。どんな些細な手術だって

院内感染を起こして命を落とす事があるというのに。

 わたしたち兄弟は自分でいうのも何ですが、非常に仲がいいのです。苦しんでいる自分

のために申し出てくれた気持ちは解る。自分が逆の立場でもきっと同じ事をしていたと思

いますが、だからこそ簡単に受け入れられないのです。それだけ自分の事以上に弟たちが

かわいいのです。

 しかし私ははじめから、透析していても生活は不自由になるけれど、すぐに生命がどう

ということもないので、透析を続ける事に決めていました。愛する家族、健康な人間の体

を切ってまで自由を欲しいとは思わなかったからです。そんな時2人の弟から腎臓提

供の申し入れがったけれど、二人とも神奈川に住んでいて、もう親元から独立して頑張っ

ている。何が起こっても自分の事は自分でしなければいけないのです。もし、万が一なに

かあったら責任などとれる訳もない。気持ちは嬉しいけれど断るしか出来なかった。しか

し自分のどこかでもしかしたら自由になれる!という悪魔のささやきのようなものが頭の

中で増殖していく。そんな自分が嫌でたまらなくなったりもしていました。なんだか嫌な

ものですね。今の生活で満足出来るのにその上が見えた瞬間に欲が出てくる。一度高級車

に乗った人が軽乗用車に乗り変わるのに抵抗を感じるように。

 それから半年が過ぎ5月になりました。いよいよクレアチニンも8.0を超えて完全無欠の1

級身体障害者となり、主治医とこれからの事を相談しました。透析はいますぐ必要です。

移植をするのか透析療法を取るのか自分で決めて下さい、とのこと。透析療法であればこ

こ秋田でもできますが、腎移植となればやはりしっかりした医療体勢のもとでなければい

けません。もし希望の病院があれば紹介いたしますとのこと。主治医のすすめと弟たちか

らの説得で、選択肢はあった方がいいと言うことで埼玉の防衛医科大学校病院の中村教授

の元へ行きました。母方の従兄弟がここの移植医であったことが理由です。勿論この時も

まだ軽い気持ちでして、どうせ検査を受けるだけなのだから別に移植すると決まった訳で

もなかったので、弟2人と冗談で「頂戴ね」「大事に使ってね」などと言い合っていたもの

でした。しかしながら、やはり健康な体を傷つけることには抵抗があり、移植するという

ことは念頭にはありませんでした。

 入院するとよくもまあここまで我慢してましたね、と言われそのまま入院させられまし

た。この時のクレアチニン濃度は11.5でしたからかなり進んでいました。その日の内にす

ぐ左足の付け根からカテーテルを入れて透析を開始しました。それから月、水、金、の一

週間に3回の透析療法が始まりました。まだ私は腕にシャントを造っていませんでしたの

で次の日シャントの手術をしました。

 

 ここではカテーテルを一回づつ抜くのではなく、24時間入れっぱなしですので6時間

に一度カテーテルの洗浄とヘパリンの注入を行います。当然体を起こす事は禁止され、シ

ャントが出来上がるまで3週間の間24時間ベット上安静を余儀なくされました。個室に

入れられましたから3から6時間に一度看護婦さんが来るだけで後は本を読んだりテレビ

を見たりしてました。とにかく地元でないものですから誰もこない。勿論近隣に親戚はい

ましたけれど心配賭けるのも気が引けましたので誰にも知らせませんでしたから当然と言

えば当然です。日曜日に神奈川で生活している弟達二人が来るのが唯一の楽しみでした。

カテーテルを入れられていちばん堪えたのがとにかく動けない。ご飯を食べるときも頭を

ようやく上に上げられるくらいしか起こせないのでおかずが何であるか手に取るまで解ら

ない。介護がつくわけでもなく何からなにまで一人でする事になる。トイレも困った。

防衛医大の看護婦さんはとにかく若すぎる。とても献身的なのは涙がでるほど嬉しいのだ

けれども、20代前半のかたが大半を占めている。小のほうなら一人でできるけれど、大

となると看護婦さんは他の病室のお年寄り患者さんと同じように何からなにまで世話をし

ようとする。これがとにかく恥ずかしいし、窓を自分では開けられないのでどうしても

個室の中に香ばしい香りが漂う。なかなかナースコールが押せなくて悩んだものです。

 

 この間に弟達二人が私の主治医に申し出てドナー検査を受ける手続きを取っていました。

二人とも気楽に私の所にきて私の病室で3人一緒に検査を受けました。私自身も別に量は

半端じゃないにしても血液を取るだけだし、検査を受けたからと言って必ず移植をしなく

てはならないと言うわけでもなかったのでそんなに考え込む事もなかったし、弟達も同じ

でした。検査結果が出るまでの間は別に移植について苦はなかったのですが、とにかく動

けないのと暇で気が滅入りそうでした。ただその間、能代市内の友人からの激励の手紙な

どで随分励まされました。人とこれだけコミニュケーションが取れないのがこんなに辛い

ものだとは思っても見ませんでした。あとこの病院で気がついたことは、人工透析器が異

常なほど大切に使われていると言う事。早い話とにかく古くて、良く動いているなと感心

させられるほど使い込んでいました。ですからしょっちゅうビービー鳴っては止まります。

どこでもこんなものなのか透析医に聞いてみると「予算がないから買えないの」と一蹴さ

れたのには驚きました。「こんな事言っては誤解を招くかもしれませんが戦車の一台も買

うのをやめれば透析室ごと替えられてさらにお釣りがくるでしょうに」と言ったら「その

通り、」だって。この国どうかしてるんじゃないかと思いましたよ。

ちょうど湾岸戦争の頃でここは国のそれも防衛庁の管轄ですから赤札が来た、と言

っては何人かの人が戦地へ行きました。なんだか通常の生活では見られない事を随分見せ

ていただけた事は感謝しています。一人の人間としてそれぞれの本音が緊張状態のなかで

見えかくれしてました。この透析室のなかでいちばん元気でやかましかったのは私だった

のは言うまでもありません。なにせ個室で抑圧された感情のはけぐちが、この透析室でし

たから。ここには必ず人がいましたからね。

 そして2週間が過ぎ、ついに検査結果がでて主治医が説明に来ました。次男が70%3男が

100%一致したとの事。血液型は次男はO型3男は私と同じB型との事で、3男に決定

したいとの事を言われました。しかし、肝機能に少々不安があるので委員会にかけないと

最終的な決定はできないとの事でした。この時私はもうやめてもいいと主治医に申し出ま

した。弟も気丈で、検査が怖かった。きっと前の日に酒を飲んだからに違いないという事

で再検査してくれ!とのこと。そこで再検査する事になりました。この結果が出るまでに

4日間位の時間がありまして自分の中で様々な葛藤がありました。基本的にはやめてしま

って透析を続けていこうという考えだったのですが、気を抜くと透析を一生続けていくと

なると生活にも仕事にもかなりの支障をきたすに違いない。私が特別に弱いのか人間が弱

いのか、時折「もしかすれば自由になれる。透析だけしている分にはその中で生きていけ

るのに、さらに上のものが見えたときそれを求めてしまう」こんな自分が本当に情けなか

った。倫理的にみて自分のエゴで人を傷つける事は認められるものではない。しかし、今

ここにレシピエントになろうとしている自分もいる。気が狂いそうになりました。そして

検査の結果がでて、移植が決まりました。まだ自分の中では大方は移植をするんだという

気持ちでしたが、どうしても受け入れられないもう一人の自分をかかえたまま腕のシャン

トができ、弟にも説得され、一応は申し込んで秋田で透析をして移植をする10月6日ま

で待つ事になりました。

 

 結論を出せないまま私はまた能代に戻り仕事をしながら透析をしていました。気持ちが

まだ決まってないものですから透析をしている間にも医師を捕まえて意見を聞いたりして

いました。その医師は「くれると言うのだったら気が変わらない内にもらってしまった方

が良いぞ。欲しくたって家族からもらえない人もたくさんいたからな。」と言ってました。

町内の人や会合にでたりしたときも様々な人に意見を伺いました。大方は移植を受けるべ

きだという意見だった。

 

 そんなとき高校時代の恩師にお会いして、思いをぶつけたところ、こう言われました。

「おまえの気持ちはよく解るが、腎臓の移植を受けたくても受けられない人はたくさんい

るんだよ。みんな苦労している。今おまえは図らずも受けられる状況にある。それはきっ

と神様がおまえに課した運命だと思って受け入れなさい。体が自由になる。そうすれば動

けるだろう。そうなったときにきっとおまえは何かしなければならないことがあるに違い

ない。この世の中に不必要な人間なんて存在しない。それぞれが天命をもって生きている

のだから、体調を戻して自分すべきことを見つけて精一杯生きてみたらどうか?何をすべ

きか見つけてみなさい。」と言われました。

 「生かされている」という言葉が今も耳に残って離れません。

 

 また、夏休みで帰省していたドナーとなる一番下の弟とゆっくり話す機会を持った。弟

は「確かに手術なんかした事もないしものすごく恐い。でも兄貴が移植する事でまた昔み

たいに元気に動けるようになるのならぜひ使って欲しい。何の気兼ねもいらないから」と

言う。そのほか小さい頃の話など色々している内に自分の中で良い悪いは別にして受け入

れる事に決めました。

 様々な方々がすでに生体腎移植の準備で動いて下さっている以上今更掌を返したように

やめる事はできない。それは私も弟も十分に承知している。後で聞いたのですが、この頃

弟も、また父も同じような夢にうなされていたといいます。何かに追いかけられる、ある

いは移植後に事故に遭い残された腎臓がつぶれてしまったというような夢を見たそうです。

家族みんなに随分心配をかけました。吹っ切れたはずなのに罪の意識が時折頭をもたげて

くる。この頃しきりに考えていたのが今生きている自分よりも、つまり自分が生まれてき

てそして今に至るまでに犯してきた罪について。何代も前からの生まれ変わり死に変わり

犯し続けて来た事み対する罪。仏教でいう「宿業」ではないのだろうかと。そうだとすれ

ば何と罪深い事か。自分だけならいざ知らず、兄弟までも巻き込んで今私が行おうとして

いる事はまさに宿業を越えて更なる罪をを犯しているのではないだろうか。

 私は学者でもなければ宗教家でもありません。ごく普通の人間です。答は今のままでは

でる訳もありません。今はただ弟の体の事だけを心配して手術当日を迎えるだけなのです。

そうしていよいよ手術の1週間前になり防衛医大に向かいました。自分自身の死の恐怖や

手術への不安は全くありません。私の場合は失敗しても元の透析の生活に戻るだけですか

ら。私は毎日先生の顔を見ると弟の体の事をよろしく頼みます、といい続けるものですか

ら、先生方も随分気を使って下さいました。

 

移植前夜

 

  消灯時間が過ぎて真っ暗になった病棟面会室で弟と二人で、禁止されていた煙草を吸

いながらとりとめもない話をしていました。弟はもう決まった事だからと涼しい顔をして

いましたが、随分恐かったろうと思います。年が離れているせいもあって喧嘩なんかする

事もなくよく面倒を見てましたから、昔の話をしながら記憶が走馬燈のように流れていく。

1時間ほどして、寝る事にしてその時一言弟が「兄貴、一生に1度だけの大サービスだか

らな。頑張れよ」と言って席をたちました。私は「有り難う」と言うのが精一杯でした。

それぞれ部屋に帰って明日に備えて寝ました。

移植当日

 

 移植手術当日、朝から何かと準備でせわしない。5時に起こされて忌まわしい500C

Cの浣腸。その後茶色いイソジンのお風呂に入って消毒。スケジュールがびっしりと詰ま

っていてもうあれこれ考えている余裕はない。もはやまな板の上の鯉状態です。この日は

初めて両親も秋田からやってきていたが私は心配いらないからと言って弟の方についてい

てもらった。私は程なくして無菌室に移されたので外の様子は解りません。8時20分時

間がきました。弟が私の部屋の前で止まって、先に手術室に向かう弟に向かって「ありが

とう、頑張れよ」と声をかけると「兄貴も頑張れよ」と言ってVサインを出していきまし

た。自分の弟ながら大した精神力だと感心しました。20分位して私も向かう時間となり

ました。手術室に入ると弟は右手に寝せられていて何やら点滴を幾つも打たれていました。

手術台の上からこちらを見ている。この時私はいままで経験した事のない胸の痛みを覚え

ました。体のそこの方から湧き出てくるような痛みでした。私たちは目で言葉を交わし、

私も左側の手術台の上に乗せられました。弟と目を合わせていたのはほんの10秒位だっ

たのでしょうけれどもものすごく長く感じました。もう注射のせいで意識は薄らいできて

いる。最後に執刀医に弟をよろしくお願いします。と言うのが精一杯でした。後は、「麻酔

をします」と言われて5秒位すると意識はありませんでしたので何も解りません。

 気がついたのはと言うよりも起こされたのはエレベーターの中でした。でもまだ麻酔が

抜けきってなくてよく解らない。景色が断片的に目に入ってくるがなんだかさっぱり解ら

ない。病室に着いて再び起こされたときには、主治医、執刀医の皆さんと、3人位の看護

婦さんがいました。開口一番私は「篤はどうですか」と聞きました。皆さん随分びっくり

していましたが「成功して今隣の部屋で寝てます」との事、ただ随分痛がっていますから

麻酔を打ったそうです。それを聞いてもう居ても立ってもいられません。近くにいた主治

医を捕まえて「とにかく痛みを沈めてやって下さいお願いします。」と、何度も何度も言っ

たと思います。結局自分の事は聞かずに寝てしまいました。1時間位して次に目覚めたと

き、主治医から成功してお二人とも順調です安心して下さい、と言われました。意識がは

っきりするにつれて私も下腹部が多少ではあるけれど痛い。しかしそれよりも隣の部屋か

ら聞こえてくる弟の悲痛な叫び声。聞こえて来るんです。痛がっている様子が手に取るよ

うに解るんです。「自分の為に取り返しのつかない事をしてしまった」ものすごい罪の意識

が私を再び襲いました。悲しくて涙が止まりませんでした。手術成功の喜びなど全くあり

ませんでした。

 後から聞いて知ったのですが、移植を受ける方は痛みを殆ど感じませんが、切る範囲の

広い提供者はとにかく痛い。それもそのはず、体の約半分を輪切り状態にされて腎臓を摘

出するわけですから当たり前です。それを事前に言うと断られるケースがあるというので

言わなかったらしい。事前に知らされなかった事に怒りを感じるとともに、自分に対する

嫌悪感でいっぱいになりました。

 

 手術を終えて

 

 24時間体勢で看護婦さんが私についています。気持ちは別として手術が終わってから

はとにかく頭がはっきりしている。よく回るんです。まるで別人のようでした。尿はいま

までまったく出なかったのがものすごい勢いで出続けている。移植患者はみんなそうなん

ですが、出た分は必ず飲んで補給して腎臓に負担をかけないようにしなければならない。

ただはじめの24時間は飲んではいけないものですから点滴で補っていました。とにかく

終わってしまったものはしょうがないのでとにかく今は弟の気持ちを無にしないためにも

頑張るしかない。24時間が経過してからは自分でどんどん水を飲みましたからすぐに点

滴もはずしてもらえました。ただ出る量が半端ではないので、1時間に200から500

CCの水を飲まなければならない。これは流石に堪えました。夜も昼もありませんから寝

ないで飲み続ける根性がいります。隣で弟も痛みと戦っているのですから自分もやるしか

ないと言う義務感と、感謝の気持ちだけが支えでした。寝ないものですから看護婦さんと

一晩中話をしている。隣で声が聞こえるとちょっと見てきてくれるように頼んだり、移

植医療についてこれからの病院のあり方や、インフォームド・コンセントについて様々な

意見交換をしました。とにかくここでは説明が一方的で患者の心の問題まで踏み込んだ医

療は行っていない。確かに全国から患者は集まってくるしとてもそこまで手が回らないの

かもしれないが、そう言った面でのコーディネーターは必要である事。私は終わってみて

心の問題をどのように解決していくのかが最大の課題だと思いました。

 手術後2週間の間無菌室でテレビもラジオも消毒できないと言う事で持ち込みできず、

本も駄目。頭も体も腎不全の時と比べると全く違ってすっきりしている。目も視力が一気

に快復して両目とも、1.5でした。慢性の疲れ目だったようです。そんな中で気力は充

実していたのでこれからの事をじっくり考える事ができました。とにかく頂いた腎臓を一

日でも長くもたせる事。これから自分はどのようにして恩返しをすべきか。幸いにも弟は

1週間で歩けるようになり、10日目で退院しました。弟に対してはとにかく長く生きる

事が最大の恩返しになる。腎臓を移植したからといって一生安泰というわけではありませ

ん。同じ病院で移植を受けた人でも3年目、4年目でまた透析に戻った人は何人もいまし

た。強い免疫抑制剤の為腎臓以外の肝臓や他の臓器に支障をきたして、大変なことになっ

ている人もたくさんおります。だから私は今この一瞬に力のすべてを使い悔いが残らない

時間を過ごそうと心がけています。その一環として披露宴や人の集まる場所に行っては女

装をして歌ったり、踊ったり、とにかく人の笑顔が見たくて色々なことをしています。

 

 病院の中で様々な患者さんとの出逢いもありました。

 

 体のあちこちにガンが発生して、膀胱、直腸、胃、睾丸、前立腺、肺の一部、を毎年

切除している27歳の男性。彼は手術を前にした人を見かけると、とにかく元気づけてく

れます。「手術なんかなんともない。切っちゃえばすぐになおっちゃうんだから」と自分の

手術の話をする。膀胱も無く、直腸も無いと言う事は、人工肛門に人工膀胱をぶら下げて

歩かなければならない。聞いていると、自分はなんだか大した病気じゃないなと思えてし

まうのです。と言うよりもこんな腎臓が駄目になっても、透析すれば命に別状はない。そ

れに比べ彼は厳しい抗癌剤の投与を受けながら毎日ガンと戦っている。何時致命的な部分

に再発するとも知れない中、命をかけて毎日を生きている。何よりも凄いのは、いつでも

彼は明るく笑顔を絶やさない。常に明日の事を考え、退院したらあれをする、これをする

と夢を語るのです。そうしているうちにそれが実現したのです。通常の抗癌剤の倍の投与

を受け、髪の毛もすべて抜け落ちてしまった彼は、私が移植手術を受けた後2カ月程して

長野県の自宅に帰っていきました。あれから3年が過ぎて彼は今元気に自動車ディーラー

に勤めトラックの運転手をして生活しています。今の所再発もせずに元気でいます。彼は

今でもときどき私との電話の中で「俺は絶対にガンでなんか死なない。出来たら取って、

出来たら取って、何回でも手術をするつもりでいる。こんなものに負けてたまるか。」と言

います。凄い男です。今までこんなに生きる事に輝いている人を見た事がありません。そ

れは生きる事にどん欲ばかりではなく、死への恐怖さえも超越した強さがありました。そ

して精一杯生きる。人間など宇宙全体からみれば本当に小さなものです。その中の病と言

ったらどうなのでしょう。そんなものに縛られて、悔やんで見たところで明るい未来など

来るわけがない。明るい未来は待っていてやってくるものでなく、自分で取りにいくもの

だとその時教えられました。私は彼に逢えた事を幸運に思います。

 

 まとめ

 

 移植の体験を通して、このときはまだインフォームドコンセントについてそんなに進ん

でいませんでしたけれど、今では院内にケアマネージャーをおいたりして相談できる体制

が整ってきています。病気にかかると、とにかく心に大きなダメージを受けます。患者は

とにかくわがままになる方が多く、看護婦さんは本当に大変だと思います。無茶言う人も

多いと思います。心がまいってくると生きる気力もなくなります。そうなると治るものも

治らない。しかしながらその相手をしてあげようにも激務で看護婦さん達にも余裕がない。

きっとその狭間で悩んでいる人もいることと思います。3交代ってきついですよね。僕の

いた病院でも準夜の人が朝日勤ででている。いつ寝てるんだろう?と思うことが良くあり

ました。

 

 市内の知り合いのお父さんがガンにかかり、本人がきっと参ってしまうのでと家族は本

人に伏せて、胃の検診だとか腸の検査だとかごまかして治療をしていました。本人にして

みれば、何でこんなに長く入院させられるのか納得がいかない。言い合いになりました。

そこの若い女医が患者と喧嘩をした拍子に告知してしまって大騒ぎになった事がありまし

た。

 医師と家族、病棟の婦長を始め、全員で告知をしないと決め、動いていたのに。このと

き本人は驚いたのと、隠された事に腹を立て、家族が分裂の危機にさらされました。家族

は怒り心頭で病院に怒鳴り込んで抗議。

 そのときの婦長さんは我が事のように土下座をして涙を流し、取り返しのつかないこと

をしてしまいました、申し訳ないと謝っておられました。医師は若いため心の問題を考え

ずに勢いで言ってしまったとのこと。この患者は幸い今は手術も終え元気に働いています

からいいですが、人によっては自殺する人だっています。事実、昔は腎不全と言われたら

死ぬしかなかった。結構自殺者がいたんです。この医師の場合は特殊じゃないと思います。

経験を積み、人の痛みが解る人ならまだしも、インターンを終わったばかりで患者との経

験が少ない人だとあり得る話です。それをカバーして行かなければいけないのが回りにい

るスタッフでしょう。ほんの一言が大事に至る職業なので自分の精神も磨かなければいけ

ないと思います。大変ですが頑張って下さいね。蛇足ですが、防医大では婦長さんの方が

地位が上で、若い医師はよく言うことを聞いていました。教育も婦長がしていて、問題の

ありそうな医師は婦長さんの一言でいなくなってしまう位力を持っていたようでした。

 病気についての説明云々は別にしても防衛医大の看護婦さん達は本当に優しかった。寂

しかったのもあるかもしれませんけど。完全看護の病院なので付き添いもなく個室で一人

でいましたので、家族のように接してくれる暖かさには本当に感謝していますし、何でも

言える環境にあったのでその部分は本当に良かったと思っています。

 ここでは秋田の病院から移って本当にギャップに驚かされました。

 ことば使いから全くこちらとは違います。標準語ということもあるけれど、部屋に入る

ときには一礼して「おはようございます」「こんにちは」「お加減はいかがですか?」から

始まり、終始笑顔です。退室するときは「失礼いたしました。お大事に!」と本当に丁寧

でした。どんなに疲れていても無愛想な顔をした人は見たことがありませんでした。聞く

と、部屋を回る前に鏡で笑顔をチェックしてから回っているそうです。いきなり来て「は

い熱はかって!」「血圧!」なんてことはなかったです。こちらには入院したことがないの

で解りませんが、患者はほんの些細なことが喜びに変わるものです。他にすることがない

ですから。

 

 病の重さと気持ちの問題は決して比例すると思っていません。軽い方でも気持ちが滅入

る人もいますし、その逆もしかりです。意地悪な患者さんもいますが、その心の底には必

ずしも憎しみや、怒りばかりがあるのではなく、心も一緒に病んでいるのだと思います。

そこを見て欲しいと思います。

 

 私はインターネットでHPを開いて、自分の移植体験談を掲載しています。ページの中

に移植を受けたい人、受けた人、その他病気の事を何でも書いて!というコーナーがあり

ます。全国の方が書き込みをしてくださいます。見ていただければ判りますが、腎臓に関

して様々な書き込みがあります。例えば最近あった、ABO血液型不適合の患者さんの相談

がありました。父親が提供下さると申し出てくれているのですが、自分は10年透析して

いるけど、踏ん切りがつかない。手術自体も血小交換や脾臓摘出がありかなりの負担にな

るようなので怖いと。

 それに対してネットの中で知り合った方で、まだO−157と認定される前に、自分の

5歳の子供さんがO−157に感染して腎不全になり、透析を余儀なくされ結局両親から

移植することとなったけど、旦那さんは腎臓の大きさが合わなくて駄目。自分は血液型が

A型、子供さんはO型なので難しいとのこと。しかし5年の時を過ごしお母さん自身から

の腎臓を今年移植手術をするために、お子さんの血小交換を試みましたが、結局子供さん

の具合が悪くなり中止。お母さんにしてみれば、他の子供よりどうしても成長が遅れるの

と、腹膜透析の為に腹膜自体がうまく機能しなくなってきたため、なんとかしたい一心だ

ったのです。結局血液透析では毎日学校に通うことが出来ないのと、血管が細くて血液透

析がなじまないため、子供さんの場合腹膜透析の方が有効なんです。そこで今度はお母さ

んの父、おじいちゃんが血液型が同じで、HLAもまずまずということで、高齢を押して提

供することになり今春行い成功して元気になっています。その方から、血液型不適合の場

合の手術や、問題点を聞き、先の方にお答えしたりして、ネットのみんなでそれぞれをケ

アする活動をしています。中には移植を受けた高校生が書き込むと、そのお母さんがあげ

た人の立場からお話を書いてくれる。ぞれを見た人から書き込みがあったり、私宛にメー

ルがきたりと忙しくまわっています。内容はけっこう重いのもありますが、書くことで言

えない部分を吐き出して、それを受け止めてあげることで、その人がいくらでも楽な気持

ちになってくれたらと思って続けています。

 幸い私は7年を経過してなんともありませんが、これを受け止めて答えていく、そして

少しでも気持ちを楽にしてあげることが、私の役目なのかな?と思っています。心って本

当に大切だと思います。みんなが笑顔で、心豊かに暮らせますことと、皆様が更に素敵な

看護、ケアにつとめられますことを念じまして終わりたいと思います。

 笑顔のあるところに幸せがやってくると思うから。


 最後までごらん頂きありがとうございました。

 本当にお疲れさまでした(^o^)