体験記です。(初めて書いた)


 私は平成4年に腎移植をしたものです。ここは、それをふまえて健康を考え、また献腎について考えていただければ幸いと考えて書いてみました。まだ献腎についてまで言及してませんが徐々に書いていきます。薬で随分苦労しています。同じ環境にある方是非お聞かせください。


はっきり言って長文です m(_ _)m

腎移植を終えて

 臓器移植論議をみてみますと、早急に脳死を認めすぐにでも臓器移植を行うべきだという推進移植医と、脳死は「人の死ではない」と訴え、脳死状態から腎移植を行った移植医を告発するという医師グループが両極端な論争を繰り広げていました。考え方に極端な開きのある中で臓器の提供を受けたいと願うレシピエントやその家族を中心に日本も一刻も早く臓器移植に踏み切るべきだという人たちと、脳死者からの臓器移植は社会的弱者の切り捨てになると主張する論者との間にもやはりかなりの溝を感じます。前に読んだ本の中に宗教者や哲学者などからも、日本には特殊な文化的背景があり生死観は欧米諸国とは異なるのだから脳死は認められない。逆にこれは「布施」にあたる人類愛であるという意見もあるようです。  しかし一般市民を対象にしたアンケートでは、脳死を「人の死」と認めて、臓器移植を行うべきである、というコンセンサスはできあがりつつあるように思います。けれどもどのようなアンケートを見ても、まだ2割過3割の人たちは、この医療技術をどう受けとめるべきか、はっきりと回答できないでいるように思えます。正直なところ、自分がそういう場に関わりを持たなければ、明確な意思表示はできないと思っているためでしょう。  私も移植に直面するまでは、まるっきり反対ではないにせよどちらかというと否定的な考え方をしていました。腎不全を宣告されてから、今日に至るまでの体験談をこれからお話したいと思いますが、なにせ私も弁士でも作家でもありませんので思いがどこまで伝わるか不安ではありますが、どうぞ最後までお付き合い下さい。お暇な方はおつきあいください。

 腎炎にいたるまで

 小学、中学と通して体操をやっていましてこれといって大した病気もせずに高校まで来ました。それまでは殆ど病気とは縁がなくて、記憶にある病気といったら風邪くらいでした。高校に上がってから私は今まで続けてきた体操競技をやめました。別に大した理由があった訳でもなくただ単に体操部が無かっただけの事です。そこで私はフォークソング同好会をつくり遊んでいました。高校2年の夏休み前に学校の尿検査で蛋白が出ているという事で再検査をうけました。その時は2+で、夏休みを利用して総合病院で検査を受けるように、と言われ入院しました。そこでお決まりの腎生検やら総合的な検査を受けました。結果は急性糸球体腎炎。それから1カ月間ステロイド投与を受けて安静が続きました。といっても自分としてはそんなに重大な事とは思っても見ませんでしたから、初めての入院で興味津々、楽しくて仕方ありませんでした。病院に入ってまず驚いた事はとにかく老人が多い。若い人は誰もいない、いちばん近い人で確か39才の方だったと思います。それもそのはず私が入ったのは循環器病棟でしたのでほとんどが心臓の病気の方で高齢の方が多かった。それでも看護婦さんの見習いが勉強でついてましたから、暇になるとみんなで集まってきて楽しく過ごしました。私の入っている病室にいた方々も付き添いさんはじめ異様に乗りが良かったせいも勿論ありますけど。楽しく過ごした日々も過ぎ、退院予定日が近づいてきまして、主治医と面談しまして今までの経過を聞きました。なぜそうなったかは良く解りませんでしたが、最終的に言われたのが慢性糸球体腎炎でした。その時主治医と話をした事は、「あなたに腎臓は今正常を10とすると8前後しか働いていません。この数字自体は別に今すぐにどうこうという物では無いけれども、将来悪化した場合透析が必要になります。と言ってもわかりやすくいうと、今40程度の働きをしていると思って下さい。ですからその年齢に達するまで大事にしていれば後は自然に機能低下する物ですから普通の人と変わらないのです。腎機能が低下しないように1カ月に2度通院して、薬を飲んでいればいいとの事でした。」先生にしてみれば精一杯気を使って説明したのでしょうけれども、私にしてみれば寝耳に水で、また別に痛くも痒くもない。それでもきちんと守っていれば良かったのですが、なにせ本人は病気だという自覚がない。薬は3分の1も飲まないしこれでいい訳がない。夜は遅くまでレストランの厨房でアルバイト、朝は6時に起きて学校という生活、健康な人間でもまいってしまうようなスケジュールでした。節制も心がけるどころか体力に自身もあり精力的に何でもこなしていました。


 腎不全に至るまで

 高校も3年になりクラブ活動も最後になり、フォークソング同好会としても文化祭に向けて力が入っていました。入りすぎるくらいのめり込んでいましたから、文化祭前日などはリハーサルや機材のセッティングで学校に泊まり込み夜中の2時くらいまで動いてました。それがいけなかったのでしょう。2時間のコンサートが終わってすぐ喉の痛みを感じ、しばらくすると具合が悪くて歩くのも容易でなくなり次の日病院に行き入院しました。  その時いわれたのは通常の半分以下という事でした。また腎生検と血液検査を受け絶対安静と言う事で1カ月ばかり寝ていました。いままで感じなかった疲労も慢性的に感じるようになり、今思うと殆ど自殺に近いものがあります。知識がないという事は本当に恐ろしい事だと思いました。 これからはもう2週間に1回通院して薬をもらって飲むという生活を続けました。体は疲れるし何といっても気力自体がなくなっていく。学校へも行くのが面倒になり、雨が降っては休み、嫌いな授業があると「通院」といってはさぼって家でごろごろしている日が続きました。11月になって担任に呼ばれまして、「出席日数が足りない」と言われこのままでは留年しなければならない事を告げられました。私もかなりいい加減な人間でしたが、高校位出ていないと後々困るという事位解ります。と言ってもこれからもう1年留年までして卒業したいとも思いませんでしたから、担任と相談して補習授業で不足日数分を補う事に決めました。これからが大変です。もう11月を過ぎてますから雨でも降ろうものならいつ雪に変わるか解らない。それまでしばらくチャランポランな生活をしていましたから学校へ毎日行く事自体も辛い。そのうえ通常の授業を受けた後に2時間の補習授業がある。冬休みいっぱい学校へ通い、驚いた事に春休みも3月31日まで通いようやく4月1日に卒業証書を頂きました。本当にこの期間様々な方に多大な迷惑をかけました。学校の先生皆さんには休み返上でお付き合いさせ、それでも最後まであきらめずに面倒を見て頂き大変感謝しています。一人だけの卒業式にも、秋田に残ったクラスメートがみんなで学校に来てくれてお祝いしてくれました。この時自分一人で生きているんでは無いんだなと実感させられました。  高校を卒業して、大学は親元から離れてはいけないという事で地元の専門学校に入りました。病気の方は一向に良くなる気配はなく、じわじわと進行して行きます。別に痛いところもなかったので、自分としては殆ど気にはしてませんでしたが、確実に進行していました。最初の内はなぜ自分だけがこんなに不幸な目に遭わなければならなかったのかと思いましたが、怒りのやり場があるわけでもなく、悶々とした日々もありました。ある時、父に「般若心経入門」と言う本を読んで見るように薦められてそれとなく読んでみました。内容と言っても般若心経の解説と補足ですからそのままなのでしょうが、余りにも奥が深くて完全に理解する事などできるわけもありませんでした。ただ、意識の中で「自然」「宇宙」「無」という3つの言葉が刻まれ、何となく体が軽くなるのを感じました。ただ漠然とでして、深くはそのころは考えていませんでした。しかしそれから気力が充実してきてこのまま病気に負けてはいけない、また争ってもいけない、いままで争って来ましたがその結果は「進行」という事実だけでした。現実を受けとめて精いっぱい生きる、そうすれば必ず何かが得られると考え等れる用になりました。病気になってしまったものは仕方がない。天命を生きて自分がこの世に存在していたのだという証を残したい。いろんな事をしました。専門学校に通いながら夜はライブハウスをしながら昼は学習塾で子供達に自分の少ない知識のなかから知ってる事のすべてを伝えていきました。毎日が戦争のような日々でした。ちょうど14年前二十歳の頃です。  22才になり(昭和59年)実家の家業である時計店に入り能代支店に来ました。能代市の支店に配属になって一人暮らしを始めるようになってから、少しずつ生活のリズムが違ってきたように思います。勿論気をつけてはいましたし、減塩食も基準よりは随分甘かったにしてもある程度守っていました。ただ仕事の性格上たまには酒も飲みましたし、また嫌いでもなかったので、ついつい飲み過ぎる事もありました。そうこうしている内にクレアチニンは変わらないのですが、尿酸値と血圧が上昇しました。尿酸値は8.5から9.5位で、血圧は140/100と言う状態が慢性的に続きました。ザイロリックや利尿剤の投与を受けましたがいっこうに好転の兆しもなく1年に何回か痛風にも悩まされました。肉類をあまり食べないようにとよくいわれ気をつけてはいましたがなにせ一人暮らしの身の上ですので外食が多い。なかなか肉以外のものを食べさせてくれるところなど無いんです。それでも小さな食堂のお世話になって気を使った特別メニューでつないでいました。  4年が経過し昭和62年の8月頃いつものように病院に定期検診にいくと主治医に「疲れませんか?」と聞かれました。そう言われてみると朝は全然起きられないし何となく慢性的な疲れがたまっている。視力も随分落ちてきて1.2だったのが0.6になっていました。忙しさに紛れて自分の体の状態に慣れてしまっていたのです。この頃にはクレアチニンはすでに5から5.5に上がっていました。この時も大事を取って入院しましたが、どうなるものでもなくとにかく体を動かすと筋肉からでてくるクレアチニン濃度は上がるのだから、「とにかく安静にしている事」という指示をされそのとおりにしていました。この頃からBUNも40位に上がり、タンパク質の制限もかなりきびしくなりました。ただあまり取らないと体の脂肪が分解され尿素窒素が上がるという事で食事のメニューも決められるようになりかなり苦痛が増してきました。もうこれで一生うまいものは食べられないのかと真剣に考えたものです。あの味気ないおかず、塩分制限の為醤油は殆ど駄目。エネルギー補給はもっぱらよく水に浸してカリュームを抜いた野菜炒め。味噌汁は殆どぬるま湯状態、今から思えば良くもこんな物ばかり食べていたと思います。思いは一つです。一日でもいいから透析開始を伸ばしたい、それだけでした。この時食事に気をつけてさえいれば1年位は大丈夫といわれ、透析用のシャントも造らずに生活していました。その間人にすすめられて腸内細菌なる食品を愛用していました。内容は簡単にいうと体にたまった老廃物を各々の臓器に頼らなくても腸の中の細菌が分解して排出してくれるといったものでした。確かにしばらくはクレアチニンも上がらずそのほかの数値も安定していました。しかし高い。月に10万円前後かかるのです。それでも藁にもすがる思いで1年3カ月飲み続けました。そんな努力もむなしく翌63年11月にはクレアチニンもすでに7.5を超えもはやこれまでかと再度入院しました。


 透析まで

 この時に入院したときに主治医はとても親身になって下さいました。色々な本を持ってきて下さって、透析について様々な角度からお話下さいました。また自分でも様々な本を読みあさり勉強しました。そこで日本の移植医療の実態や、脳死の問題などを初めて自分なりに考えるようになりました。腎不全からの治療にしても、血液透析、腹膜還流透析、そして腎臓移植の3つの選択しがある事。私は腎炎になったところからある程度覚悟を決めていましたから、血液透析の道を歩もうと思っておりました。そのころの私は自分で何でも決めていましたから別に両親にも兄弟にもこれといって相談する事はまずありませんでした。勿論そのころ家族は皆事情は知っていたし、私がいないところでは随分話し合いや心配はしていたでしょう。そんなある時下の弟二人が自分の腎臓を提供したいと私に申し出ました。困惑しました。気持ちは嬉しい。しかしたとえ兄弟といえども今は自立して生活している一個人です。仕事も生活もそれぞれが体一つで実家から離れて東京で頑張っているのです。そんな彼らをどうして傷つける事ができましょうか。医師からいわせればドナーは絶対安全であり手術後も10日もすれば退院して通常の生活ができるという。どこに絶対などという確証があるのか。盲腸だって院内感染を起こして命を落とす事があるというのに。  わたしたち兄弟は自分でいうのも何ですが、非常に仲がいいのです。苦しんでいる自分のために申し出てくれた気持ちは解る。自分が逆の立場でもきっと同じ事をしていたと思いますが、だからこそ簡単に受け入れられないのです。それだけ自分の事以上に弟たちがかわいいのです。  随分悩みました。そんな折り、自分の高校時代の恩師である先生と食事をする機会を得ました。この先生は高校時代私が創ったクラブの顧問をして下さった方で、私がもっとも信頼できた先生でした。この先生に今の私の率直な気持ちをぶつけてみたところ、こういった答が帰ってきました。 「気持ちは解る。お前の性格からするとそうだろう。しかし人というのは生まれながらにして天命というものを持っているのです。これにはどうやっても逆らえないんだ。必要な人間は天分によって生かされているのだ。死のうと思っても死ねないものなのだよ。必要な人は、たとえ乗り合わせた飛行機が墜落したとしても決して死なない。修行が済んでいないという事もあるかも知れ無いけれど。誰でも移植が受けられる訳ではない。欲しくてもどうにもならない人がほとんどなのだよ。お前は今、はからずも移植を受けられるかも知れないという状況になっている。これは天命として受け入れるべきだ。きっと世の中全体が君を生かそうとしている。きっとまだやらなければならない事があるに違いない。移植をして体調を戻せるだけ戻して精一杯生きてみたらどうだろう。そしてその何かを見つけてみなさい。」こう言われて何か目から鱗が落ちる思いがしました。「生かされている」という言葉が今も耳に残って離れません。  これを期に私は少しづつ変わり始めました。「検査だけは受けてみよう。適合するかどうか結果がでてからでもいいではないか」と。  それから半年が過ぎ5月になりました。いよいよクレアチニンも8.0を超えて完全無欠の1級身体障害者となり、主治医とこれからの事を相談しました。透析はいますぐ必要です。移植をするのか透析療法を取るのか自分で決めて下さい、とのこと。透析療法であればここ秋田でもできますが、腎移植となればやはりしっかりした医療体勢のもとでなければいけません。もし希望の病院があれば紹介いたします。主治医のすすめと家族のすすめもあってとりあえず免疫の検査だけ受けられる体勢の病院へ行って、透析しながらゆっくり考えてみることにしました。勿論この時もまだ軽い気持ちでして、どうせ検査を受けるだけなのだから別に移植すると決まった訳でもなかったから、弟2人と冗談で「頂戴ね」「大事に使ってね」などと言い合っていたものでした。  幸か不幸か私のお袋方の従兄弟の嫁いだ先がが所沢の病院の泌尿器科の医師で長年移植医療に取り組んでいましたので、すんなりと入院する事ができました。とにかく診察を受けて下さいと言われるままに防医大に行きましたら、よくもまあここまで我慢してましたね、と言われそのまま入院させられました。この時のクレアチニン濃度は11.5でしたからかなり進んでいました。その日の内にすぐ左足の付け根からカテーテルを入れて透析を開始しました。それから月、水、金、の一週間に3回の透析療法が始まりました。まだ私は腕にシャントを造っていませんでしたので次の日シャントの手術をしました。  ここではカテーテルを一回づつ抜くのではなく、24時間入れっぱなしですので6時間に一度カテーテルの洗浄とヘパリンの注入を行います。当然体を起こす事は禁止され、シャントが出来上がるまで3週間の間24時間ベット上安静を余儀なくされました。個室に入れられましたから3から6時間に一度看護婦さんが来るだけで後は本を読んだりテレビを見たりしてました。とにかく地元でないものですから誰もこない。勿論近隣に親戚はいましたけれど心配賭けるのも気が引けましたので誰にも知らせませんでしたから当然と言えば当然です。日曜日に東京で生活している弟達二人が来るのが唯一の楽しみでした。カテーテルを入れられていちばん堪えたのがとにかく動けない。ご飯を食べるときも頭をようやく上に上げられるくらいしか起こせないのでおかずが何であるか手に取るまで解らない。介護がつくわけでもなく何からなにまで一人でする事になる。トイレも困った。ここ防衛医大の看護婦さんはとにかく若すぎる。とても献身的なのは涙がでるほど嬉しいのだけれども、20代前半のかたが大半を占めている。小のほうなら一人でできるけれど、大となると看護婦さんは他の病室のお年寄り患者さんと同じように何からなにまで世話をしようとする。これがとにかく恥ずかしいし、窓を自分では開けられないのでどうしても個室の中に香ばしい香りが漂う。なかなかナースコールが押せなくて悩んだものです。  この間に弟達二人が私の主治医に申し出てドナー検査を受ける手続きを取っていました。二人とも気楽に私の所にきて私の病室で3人一緒に検査を受けました。私自身も別に量は半端じゃないにしても血液を取るだけだし、検査を受けたからと言って必ず移植をしなくてはならないと言うわけでもなかったのでそんなに考え込む事もなかったし、弟達も同じでした。検査結果が出るまでの間は別に移植について苦はなかったのですが、とにかく動けないのと暇で気が滅入りそうでした。ただその間、地元の友人からの激励の手紙などで随分励まされました。人とこれだけコミニュケーションが取れないのがこんなに辛いものだとは思っても見ませんでした。余談ですが、この病院で思った事は、人工透析器が異常なほど大切に使われていると言う事。早い話とにかく古くて、良く動いているなと感心させられるほど使い込んでいました。ですからしょっちゅうビービー鳴っては止まります。どこでもこんなものなのか透析医に聞いてみると「予算がないから買えないの」と一蹴されたのには驚きました。「こんな事言っては誤解を招くかもしれませんが戦車の一台も買うのをやめれば透析室ごと替えられてさらにお釣りがくるでしょうに」と言ったら「その通り、言ってやって言ってやって」だって。この国どうかしてるんじゃないかと思いましたよ。ちょうど湾岸戦争の頃でここは国のそれも防衛庁の管轄ですから赤札が来た、と言っては何人かの人が戦地へ行きました。なんだか通常の生活では見られない事を随分見せていただけた事は感謝しています。一人の人間としてそれぞれの本音が緊張状態のなかで見えかくれしてました。この透析室のなかでいちばん元気でやかましかったのは私だったのは言うまでもありません。なにせ個室で抑圧された感情のはけぐちが、この透析室でしたから。ここには必ず人がいましたからね。  2週間といわれた検査結果がでる日が近づいて来るにつれて、不安が募り始めました。「今ならまだ止められる」という気持ちが常に頭の中で渦巻いていました。  ついに検査結果がでて主治医が説明に来ました。次男が70%3男が100%一致したとの事。血液型は次男はO型3男は私と同じB型との事で、3男に決定したいとの事を言われました。しかし、肝機能に少々不安があるので委員会にかけないと最終的な決定はできないとの事でした。この時私はもうやめてもいいと主治医に申し出ましたが、弟も気丈で、もう一度検査をして欲しい。きっと前の日に酒を飲んだからに違いないという事で再検査する事になりました。この結果が出るまでに1週間位の時間がありまして自分の中で様々な葛藤がありました。基本的にはやめてしまって透析を続けていこうという考えだったのですが、気を抜くと透析を一生続けていくとなると生活にも仕事にもかなりの支障をきたすに違いない。私が特別に弱いのか人間が弱いのか、時折「もしかすれば自由になれる。透析だけしている分にはその中で生きていけるのに、さらに上のものが見えたときそれを求めてしまう」こんな自分が本当に情けなかった。倫理的にみて自分のエゴで人を傷つける事は認められるものではない。しかし、今ここにレシピエントになろうとしている自分もいる。気が狂いそうになりました。そして検査の結果がでて、移植が決まりました。まだ自分の中では大方は移植をするんだという気持ちでしたが、どうしても受け入れられないもう一人の自分をかかえたまま腕のシャントができ、秋田で透析をして移植をする10月6日まで待つ事になりました。  結論を出せないまま私はまた勤務先に戻り仕事をしながら透析をしていました。気持ちがまだ決まってないものですから透析をしている間にも医師を捕まえて意見を聞いたりしていました。その医師は「くれると言うのだったら気が変わらない内にもらってしまった方が良いぞ。欲しくたって家族からもらえない人もたくさんいたからな。」と言ってました。町内の人や会合にでたりしたときも様々な人に意見を伺いました。大方は移植を受けるべきだという意見だった。  そんな折りにドナーとなる一番下の弟とゆっくり話す機会を持った。弟は「確かに手術なんかした事もないしものすごく恐い。でも兄貴が移植する事でまた昔みたいに元気に動けるようになるのならぜひ使って欲しい。何の気兼ねもいらないから」と言う。そのほか小さい頃の話など色々している内に自分の中で良い悪いは別にして受け入れる事に決めました。  様々な方々がすでに生体腎移植の準備で動いて下さっている以上今更掌を返したようにやめる事はできない。それは私も弟も十分に承知している。後で聞いたのですが、この頃弟も、また父も同じような夢にうなされていたといいます。何かに追いかけられる、あるいは移植後に事故に遭い残された腎臓がつぶれてしまったというような夢を見たそうです。家族みんなに随分心配をかけました。吹っ切れたはずなのに罪の意識が時折頭をもたげてくる。この頃しきりに考えていたのが今生きている自分よりも、つまり自分が生まれてきてそして今に至るまでに犯してきた罪について。何代も前からの生まれ変わり死に変わり犯し続けて来た事み対する罪。仏教でいう「宿業」ではないのだろうかと。そうだとすれば何と罪深い事か。自分だけならいざ知らず、兄弟までも巻き込んで今私が行おうとしている事はまさに宿業を越えて更なる罪をを犯しているのではないだろうか。  私は学者でもなければ宗教家でもありません。ごく普通の人間です。答は今のままではでる訳もありません。今はただ弟の体の事だけを心配して手術当日を迎えるだけなのです。そうしていよいよ手術の1週間前になり防衛医大に向かいました。自分自身の死の恐怖や手術への不安は全くありません。私の場合は失敗しても元の透析の生活に戻るだけですから。私は毎日先生の顔を見ると弟の体の事をよろしく頼みます、といい続けるものですから、先生方も随分気を使って下さいました。

移植手術前夜

 消灯時間が過ぎて真っ暗になった病棟面会室で弟と二人で、禁止されていた煙草を吸いながらとりとめもない話をしていました。弟はもう決まった事だからと涼しい顔をしていましたが、随分恐かったろうと思います。年が離れているせいもあって喧嘩なんかする事もなくよく面倒を見てましたから、昔の話をしながら記憶が走馬燈のように流れていく。1時間ほどして、寝る事にしてその時一言弟が「兄貴、一生に1度だけの大サービスだからな。頑張れよ」と言って席をたちました。私は「有り難う」と言うのが精一杯でした。それぞれ部屋に帰って明日に備えて寝ました。


手術当日

 移植手術当日、朝から何かと準備でせわしない。5時に起こされて忌まわしい500CCの浣腸。その後茶色いイソジンのお風呂に入って消毒。スケジュールがびっしりと詰まっていてもうあれこれ考えている余裕はない。もはやまな板の上の鯉状態です。この日は初めて両親も秋田からやってきていたが私は心配いらないからと言って弟の方についていてもらった。私は程なくして無菌室に移されたので外の様子は解りません。8時20分時間がきました。弟が私の部屋の前で止まって、先に手術室に向かう弟に向かって「ありがとう、頑張れよ」と声をかけると「兄貴も頑張れよ」と言ってVサインを出していきました。自分の弟ながら大した精神力だと感心しました。20分位して私も向かう時間となりました。手術室に入ると弟は右手に寝せられていて何やら点滴を幾つも打たれていました。手術台の上からこちらを見ている。この時私はいままで経験した事のない胸の痛みを覚えました。体のそこの方から湧き出てくるような痛みでした。私たちは目で言葉を交わし、私も左側の手術台の上に乗せられました。弟と目を合わせていたのはほんの10秒位だったのでしょうけれどもものすごく長く感じました。もう注射のせいで意識は薄らいできている。最後に執刀医に弟をよろしくお願いします。と言うのが精一杯でした。後は、「麻酔をします」と言われて5秒位すると意識はありませんでしたので何も解りません。

 気がついたのはと言うよりも起こされたのはエレベーターの中でした。でもまだ麻酔が抜けきってなくてよく解らない。景色が断片的に目に入ってくるがなんだかさっぱり解らない。病室に着いて再び起こされたときには、主治医、執刀医の皆さんと、3人位の看護婦さんがいました。開口一番私は「弟はどうですか」と聞きました。皆さん随分びっくりしていましたが「成功して今隣の部屋で寝てます」との事、ただ随分痛がっていますから麻酔を打ったそうです。それを聞いてもう居ても立ってもいられません。近くにいた主治医を捕まえて「とにかく痛みを沈めてやって下さいお願いします。」と、何度も何度も言ったと思います。結局自分の事は聞かずに寝てしまいました。1時間位して次に目覚めたとき、主治医から成功してお二人とも順調です安心して下さい、と言われました。意識がはっきりするにつれて私も下腹部が多少ではあるけれど痛い。しかしそれよりも隣の部屋から聞こえてくる弟の悲痛な叫び声。聞こえて来るんです。痛がっている様子が手に取るように解るんです。「自分の為に取り返しのつかない事をしてしまった」ものすごい罪の意識が私を再び襲いました。悲しくて涙が止まりませんでした。手術成功の喜びなど全くありませんでした。

 手術を終えて    24時間体勢で看護婦さんが私についています。気持ちは別として手術が終わってからはとにかく頭がはっきりしている。よく回るんです。まるで別人のようでした。尿はいままでまったく出なかったのがものすごい勢いで出続けている。移植患者はみんなそうなんですが、出た分は必ず飲んで補給して腎臓に負担をかけないようにしなければならない。ただはじめの24時間は飲んではいけないものですから点滴で補っていました。とにかく終わってしまったものはしょうがないのでとにかく今は弟の気持ちを無にしないためにも頑張るしかない。24時間が経過してからは自分でどんどん水を飲みましたからすぐに点滴もはずしてもらえました。ただ出る量が半端ではないので、1時間に200から500CCの水を飲まなければならない。これは流石に堪えました。夜も昼もありませんから寝ないで飲み続ける根性がいります。隣で弟も痛みと戦っているのですから自分もやるしかないと言う義務感と、感謝の気持ちだけが支えでした。寝ないものですから看護婦さんと一晩中話をしている。隣で声が聞こえるとちょっと見てきてくれるように頼んだり、移植医療についてこれからの病院のあり方や、インフォームド・コンセントについて様々な意見交換をしました。とにかく防衛医大では説明が一方的で患者の心の問題まで踏み込んだ医療は行っていない。確かに全国から患者は集まってくるしとてもそこまで手が回らないのかもしれないが、そう言った面でのコーディネーターは必要である事。私は終わってみて心の問題をどのように解決していくのかが最大の課題だと思いました。(今はいっぱいいますけどね)  手術後2週間の間無菌室でテレビもラジオも消毒できないと言う事で持ち込みできず、本も駄目。頭も体も腎不全の時と比べると全く違ってすっきりしている。目も視力が一気に快復して両目とも、1.5でした。慢性の疲れ目だったようです。そんな中で気力は充実していたのでこれからの事をじっくり考える事ができました。とにかく頂いた腎臓を一日でも長くもたせる事。これから自分はどのようにして恩返しをすべきか。幸いにも弟は1週間で歩けるようになり、10日目で退院しました。弟に対してはとにかく長く生きる事が最大の恩返しになる。余力はやはり自分一人の力で生きているのではないという観点から、社会奉仕であろうと考えました。また同じように苦しんでいる人に対して自分のできる範囲でまた知っている事のすべてを伝えていければと思います。気持ちの問題もあるでしょう。私は余り気にもしてませんでしたが、手術における心配とか、検査についての疑問などきっと当事者にとっては切実な問題だと思います。そうした不安を少しでも取り除いて、少しでも多くの方が移植医療を考え自分の生きるかてを見つけられたら幸いに思います。    今回は体験談と言う事で細かい検査については省きましたがなかなかエグイものもありました。筆頭はやはり膀胱にカメラをいれての検査です。見なければいいのに台に上がっていた金属の棒をしっかりと目に焼き付けていましたから、辛かった。大体あんな太いものが自分の大事なところに入る事自体未だに信じられません。とにかくどこを切られても平気ですがあの検査だけは二度と嫌です。とにかく痛すぎる。これだけ科学が進歩しているのだからできるはずです、もっと改善して欲しい。


 臓器移植の賛否を考えるとき、やはり当事者同士の気持ちを優先させるのが一番大事なこことであると思います。自分の場合ははっきりとした意思表示ができない内にどんどん話が先行して気がついてみたら終わっていた感があります。でも私の知り合いでも移植を受けたいと思っている透析患者はたくさんいますし、また提供したいと考えている人もかなりいました。本人達がそれを望むのであれば赤の他人が口をはさむべき問題ではないと考えます。それを否定する権利は誰にもないはずです。この高度な医療は諸刃の剣でしょう。それを使う人間がしっかりとした倫理感を持って携わらなければとても危険な道を歩む事になります。臓器売買や無理矢理脳死状態を作り上げるような輩が医療に携わるようでは先はないでしょう。またすばらしい医師がいたとしてもチーム医療である移植はその体勢を確立しない内は進んでいかないでしょう。また医療の立場からだけではなく、日本人の無宗教と言われるの中にも根づいている生死観も大事な問題だと思います。むしろここが一番の問題でしょう。。50回忌まで自分の家族を守ってこの世に滞在するといった考え方を持って生活している人々を、また死を迎えてもその時限りでお別れをするといった欧米的な考え方ではなくむしろその後の供養を重んじ墓参するといった国民性はやはり特殊で、脳死を認めて自分の臓器を提供する事は、かえって本人はよくても今度は家族が認めないと思われます。  しかしながら私はレシピエントとして一日も早く脳死を認め、またしっかりとした医療体勢を確立し、インフォームド・コンセントのしっかりしたものを作り上げて移植医療をすすめて欲しいものだと思います。


以上は移植2年目の感想でした。やっとここまで書けるように整理がつきました。

 97年の10月で5年目を迎える私としては多少考え方が変わってきています。生体腎移植については生きている人間の合意の元で成り立っていますからそんなに問題もないのですが、脳死の段階で人の死と断定して本当にその人がこの世の中で人生を全うしたと言えるのでしょうか。つい先日も二ツ井町の消防救急隊の方とお話する機会を持ちましてそのお話の中で「先日、心臓停止している方を運んだのですが発見も早く一人の若い隊員が心臓マッサージをしながら病院まで運んだのだそうです。その患者さんは病院に着く頃には心臓も動き出していましたが、意識は在りませんでした。次の日にその隊員さんはその方がどうなったか心配で病院へ友人と一緒にいってみたそうです。その時にはすでに運んだ患者さんは意識も回復し元気だったそうです。ところがその患者さんはその若い隊員を見たとき、指さして「私はこの人に助けられました。」といったそうです。」なぜ無意識の中での事なのに個人をさしてそのようなな事が言えるのでしょうか。科学では証明できない事が人間にはまだまだ有るのでは無いかと思えてなりません。脳死ではなく心停止でしたから死の判定としては脳死と比較対照出来るものでは有りませんが、どこで人の死とするのかもう一度改めて考え直す必要は有ると思います。人が死の判定を受けてから意識はいったいどの様な経路をたどるのかそれはきっと永遠の謎であると、私は思います。もし脳死の段階であってもまだ潜在的にその人個人が体の内部に残っていたのならそれを断ち切る権利は誰にもないのではないでしょうか。  しかしながら私が病院で全国各地の様々な方と意見交換をしている中で、現実的には介護をしている方の苦脳、もはや回復の見込みのない人間を最先端の医療機器を使って生かしている現実、それを目の当たりにすると自分自身では答が出せません。一つだけ言えるのは、もし自分がそのような立場に立ったのなら無駄な延命措置はとらないで欲しいと言う事です。残された家族のためにも。自分の事ならこのようにはっきりしていますが、他の方まで同意させる自信は全くありません。個人の主観の問題ですから。これはこれから一人一人が考えていかなければならない大きな課題だと思います。私自信ももう少し踏み込んで考えていきたいテーマだと思っております。

 私自身は移植が終わって一言だけ添えておきたいのは、ドナーは哀れみではなく「布施」の気持ちを持たなければ良い形で進まないと思います。レシピエントとなったら、もう一人だけで生きているのではないと言う事を肝に命じて、自分を大事に、又出来る限り生きとし生けるものに慈愛の心を持って暮らしていけたら素晴らしいと思います。また皆さんがそんな気持ちをもてたらどんなに素晴らしいでしょう。そうなる事を念じまして終わりたいと思います。

某所での講演記録より MURAKOSHI


長い間かけて最後まで読んでくれてありがとうございました。 m(_ _)m

感謝いたします。乱文で失礼いたしました。

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