「オレは怒ってるんだぁ!」since 2000/06/01

「ある恋のかたち」

last updated 2000/12/11


第五章  冬

 夕方六時。私と圭子は、いつもデートに使っているホテルの中、最上階にあるバーにいた。カウンターの隅に腰を下ろすと、バーテンダーが寄ってきてオーダーを尋ねる。
「ジントニックとブラッディマリーを」
いつもと同じものをオーダーしようとしたら、圭子が私の袖を引っ張った。
「ああそうか。ジントニックとオレンジジュースにして」
「かしこまりました」
バーテンダーがカクテルを作り始めるのを見て、圭子の方に向き直った。
「……ってことは、やっぱり……出来てたのか」
圭子は無言でうなずく。お互い、何を話していいのか判らず、ただ黙ってグラスについた水滴をもてあそんでいた。スピーカーから流れてくるビル・エヴァンスのピアノが、妙に淋しく聞こえる。沈黙を破ったのは圭子だった。
「私ちょっと……」
「どう……した。気分でも悪いのか?」
「なんか、そんな感じ。化粧室行って来るね」
圭子が『rest room』と書かれたドアの向こうに消えたと同時に、入口から三十歳前後の若者が五、六人入ってきた。私は、その中に知ってる顔を見つけて驚愕した。『体育会系』の檜山だった。檜山はすぐに私に気付いて、近寄ってきた。
「係長!どうしたんですか、こんなところで」
「檜山こそ、どうしたんだ。午後から早退したって聞いたが……」
「自分は、大学の時のOB会があって、今終わったとこなんです。地方から出席した同期の奴が、今日の夜行で帰るって云うもんだからなごりを惜しんでるところです。係長はお一人……じゃあないですね」
そう云って、私の隣の席のオレンジジュースを指差した。
「ああ……いや、もう帰るとこなんだよ。たまにはこんな洒落た店でカクテルなんか……」
と、云いながら立ち上がろうとしたとき、圭子が席に戻ってきた。
「あ!檜山さん」
「圭子ちゃん!」
檜山の顔は、みるみる険しい表情になった。
「係長!噂は本当だったんですね。やばいっすよ。自分には理解できません。こんなこと……やめたほうがいいと思います。やっぱり……」
「いや、これはオレ達の問題だから……」
私は、力なく云った。
「……失礼します!」
檜山は、連れの所へ戻って行った。圭子は仕方ないという表情で私を見ている。
「出ようか」
私は、圭子を出口へと促した。
 それからは、課内での圭子の立場も悪くなり、気まずい雰囲気が漂っていた。
私は迷ったあげく、圭子に退社を勧めた。
「問題は全然解決してないが、とりあえず、緊急避難した方がいい」
「私もそう思う。今月いっぱいということで、明日、退職願いを出すわ」
「次の就職先は、オレがきっと見つけるから」
 その夜、高校時代の同級生で、代議士の秘書をやっている林田と会った。
「……それで、話ってのはなんだ」
「実は、一人、就職を世話して欲しいのがいるんだ」
「女か。……結婚して六年。随分落ち着いたと思ったんだが、また病気が始まったか」
「手きびしいな。年齢23歳。短大卒」
「えーと、○△財団で臨時職員を欲しがってたな。臨時といっても、勤務状態良好で身元がしっかりしていれば、強力なコネクションで半年後には正職員だ」
「○△財団って、特殊法人のか?そいつはすごい。是非頼むよ」
「半分決まりかけてるのがいるんだけど、まあ、お前の頼みじゃしょうがないか。この貸しはきっと返せよ」
「わかってるよ。選挙だろう?いやあ、恩にきるよ」
「来週にでも連絡するから履歴書を用意しておいてくれ。ところで、23っていったら17も年下じゃないか。その女とは、本気なのか」
「わからない。ただ、今迄にない感じなんだ。久しぶりに『恋』をしてるのかもしれない」
「恋……か」
「さて、就職は決まったし、あとは……」
「まだ何かあるのか?]
「彼女、妊娠してるんだ」
「お前の子か?]
「あたりまえじゃないか!」
「そいつは厄介だな。今何か月だ」
「もうすぐ三か月」
「じゃあ、まだ間にあう」
「そう簡単にいくかよ」
「産ませる気か?」
「どうしたらいいのか、わからないんだ」
「そりゃあ、無責任だ。奥さんは全く気付いてないのか?」
「どうかな。この前、社内旅行の時の写真を見せたんだよ。隣に、オレと腕を組んでる彼女が写ってるんだ。女房がそれを見て『この子可愛いいじゃない。不倫するならこの子よね』って云うんだよ。何か見透かされてるようでドキッとした」
「女の勘ってやつだな。さあ、じっくり考えてる暇はないぞ。だいたい、妊娠がバレたら就職はパアだ。答えはひとつ。早く清算しちまえ!」
「別れろってことか」
「あたりまえだ!このまま突っ走って、幸せになる奴がひとりでもいると思うか?お前は不倫の末、妻を捨てた男。彼女はその共犯者で、他人の夫を奪ったという罪を一生背負って生きていかなければならない。奥さんは、心の中に憎しみを抱いたまま一生を終える。……どうだ、オレの云ってること間違ってるか?」
私は何も答えることが出来なかった。
「数日中に結論を出すこと!いいな!」
 しかし、結論を出せないまま時間はどんどん過ぎていった。翌週、面接日が決まったと林田から連絡があり、圭子に伝えた。
「すぐに、履歴書を送ってくれって。……体の方は、どう?」
「ありがとう。だいじょうぶだよ」
「面接がすんだら、ちゃんと話そう。それまでは体調整えて……頑張れよ」
「うん!」
圭子は、ピースサインを出しながら笑顔で答えた。
 それから十日あまりの間に、圭子は面接を受け、採用が決まり、送別会が開かれることもなく、予定通り月末には静かに会社を去った。師走の空は、どんよりと重苦しい。

特集!へ     第六章へ

トップページへ