「オレは怒ってるんだぁ!」since 2000/06/01

「ある恋のかたち」

last updated 2000/12/05


第三章  夏

「ただいま戻りました」
「ごくろうさん。暑かったろう。……どうだった?光栄大学の方は」
「樫山教授が渋くて大変ですよ。もうひと押しってとこですかねえ」
私と課長の話が一段落したところで、圭子が私のデスクに向かって来た。
「係長、留守中に川原総合病院の中根事務長からお電話がありました。この番号に連絡をくれるように、とのことでした」
「ありがとう」
私は、そう云って圭子からのメモを受け取った。メモには、電話番号の他に『今日は、OKです』と、書かれてあった。圭子の方を見ると、もう仕事に集中しているようで、職場の同僚という関係以外何もない事を完璧に演じている。

 六月のあの夜以来、私と圭子が上司と部下の関係を越えるまでにたいして時間はかからなかった。何がどうなったのか、自分の頭の中でも整理がつかないまま、話す機会があるたび、私はどんどん圭子に魅かれていき、彼女もそんな私を受け入れてくれた。
 退社後、私達はあるシティホテルの三十六階の一室にいた。私は裸のまま、煙草に火をつけて窓際に立つ。外の暑さや騒がしさを忘れさせる、冷房の利いたこの空間が非常に心地良かった。レースのカーテン越しに見える高層ビル街や、米粒みたいな人間、綺麗なマッチ箱をたくさんちりばめたようなような車の波が、現実の世界とは別の次元の様に感じられた。

「ねえ、係長」
振り返ると、ベットの中の圭子は天井を見つめたまま話しかけてきた。
「おいおい、会社じゃないんだから『係長』はやめろよ」
「じゃあ、洋二さん。ここって三週間前の木曜日と同じ部屋じゃないかな」
「どうして?」
「あそこの染みが同じなんだもの」
天井のある一点を指差していた。
「さあ……。そんな事、覚えていないよ」
「そうだよね」
圭子は、そう云って笑顔をこちらに向けた。私は、その無邪気さに十七歳の年齢差を感じずには、いられなかった。ベットに戻った私は、彼女の肩を抱いて額にそっとキスをした。少しの間だけ時間が止まったような気がした。圭子は突然、両手で顔を覆いながら、
「そんなに見つめないでよ」
「……お前があんまりかわいいから」
圭子は、覆っていた両手をはずし、じっと私の目を見ると、
「自分で云っておきながら照れてるな。こいつぅ!」
そう云って、げんこつで私の頭を小突く真似をした。
「わかった?」
しばらく二人で笑いあった。
「ねえ。ここのホテルって高いんでしょう?」
「前に時計の値段を聞かれたことがあったけど、どうしてそんな事を気にするんだ」
「……うちは昔からの地主で、父も母も公務員だし、私は小さい頃からお金の苦労はしたことがないの。世間の常識っていうか、物の価値も知らない。この前買って貰った、スーツやバッグも、いくらするのか全然判らない。もしかして、洋二さんに大きな負担をかけてるんじゃないかって」
「そんなことか。好きな子にプレゼントするのがオレの趣味なんだ。二十代の男が彼女に贈る程度の物だし、うちの家計に影響するほどじゃないから気にしなくていい。圭子が喜んでくれればそれで満足なんだよ」
「そう……好きな子……か。今までもそんな風だった?」

   私は言葉に詰まった。考えてみれば、いろんな女がいた。いくら貢いでも振り向いてくれなかった女。逆に、婚約者がいるにもかかわらずオレに尽くしてくれた女。見合いをした夜に、そのままホテルへ行き、それきり会わなかった女。そして、自分の心に確信を持てないまま、流されるように結婚してしまった女房。

「どうしたの?」
「?・・・さあ、何か食べに行こうか。それとも、欲しい物があるのかな?」
圭子はそれには答えず、黙って私を見つめていた。
その目は、『私達これからどうなるの?』と云っているようで、何だか怖くなった。
自分でもわからないのだ。できれば、その質問だけはしてほしくない。……今は。
 そうそうに身支度を済ませて、その部屋を後にした。今日も蒸し暑い。

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