北畠顕家
北畠顕家 9



 北畠顕家(きたばたけあきいえ)は南北朝時代の公卿、武将。北畠親房の長男。

後醍醐天皇は
元弘三年(1333)八月、北畠顕家を陸奥守に任じ、父親房と共に顕家は

義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥多賀城へ下向。

陸奥将軍府を編成し東国経営に努め、延元元年、奥州勢の騎馬軍団を率い上洛し

後醍醐天皇に背いた足利尊氏を九州へ敗走させ、その功により鎮守府大将軍に任ぜられる。

後に国府を陸奥霊山(りょうぜん)城へ移し、延元二年、尊氏の九州からの東上を防ぐため

後醍醐天皇の命を受け、義良親王を奉じて霊山城を出発。

翌三年、高師直軍と和泉・石津浜に戦い討死。顕家二十一歳。




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破軍の星
北畠顕家が主役。足利尊氏(室町幕府を設立)を苦悩させる若くて美男で強い公卿。

後醍醐天皇の命により、わずか16歳で親王を奉じ奥州に下った北畠顕家。

そして、見事な政治手腕をもって奥州を統治。

奥州が独立国家となることさえ夢見ることも難しくはなくなった。

独立国となることを一族の夢として語り継ぐ山の民・安家一族の想いと

顕家の想いは一つになり夢を叶えていくかと思えたが・・・。

戦乱の世は、後醍醐天皇は、顕家を西へと駆り立てる。

奥州から、関東、そして京へと鬼神のごとき勢いで顕家と

日本史上、始めて最後の奥州の騎馬軍団は

日本列島を駆け抜け、足利尊氏ですら追い落とす。

後醍醐天皇に振り回され、再度力をつけた尊氏を追討すべく

西上を試み、そして、石津の戦いで敗れた時北畠顕家わずか21歳。

後醍醐天皇など・・・、奥州でもう一つの国を興してしまえばと・・・。

死の直前に後醍醐天皇に「七ヶ条の諌奏」をしたためるほどの強さも持ち合わせ

鮮烈な顕家の最期には、もうただただ・・・涙です。