男鹿地頭・橘公業 |
文治五年(1189)七月、頼朝は自ら二十八万四千騎を率いて奥州藤原泰衛追討に出兵した時
随兵の一人として頼朝の側近橘公業は薩摩守を受領し、源頼朝の随兵一千騎に加わって出陣した。
二十八歳の時である。
橘公業は源平藤橘四姓の一つ橘家の本流であり諸兄十一代目の彼は武略にすぐれ、弓の名手であった。
橘公業は奥州平定の功により、文治五年(1189)九月、秋田郡内の数ケ所の土地を与えられ
そこの地頭に任じられた。
秋田城をとりまく豊巻、百三段(ももさだ)、湊、柳田(ともに秋田市内)等、それに男鹿半島全域
八郎潟西岸の諸村落及び大川より少し南よりの井川等、雄物川に沿うた広い地域である。
橘公業が地頭として宛がわれた秋田郡は大河兼任の勢力と重なる地域であった。
兼任の蜂起に同調した七千余の兵がいたという事は源頼朝の東北政策に契機する反抗であつたと思われ
また早急に秋田郡支配を具体化した橘公業にたいする大河兼任の反発があったかもしれない。
大河兼任が反乱を起こすにあたって、まず攻撃したのは秋田郡の地頭として男鹿に居た橘公業であった。
兼任軍に小鹿島の大社山、毛之左田の戦いで橘公業は敗北、逃亡し橘公業は非常事態を頼朝に報告した。
後、現地に代官を派遣して、普段鎌倉に住むようになる。
承元四年(1210)、秋田郡の湊ほか二ヶ所の地頭職を娘の薬上(くすのうえ)にゆずった。
薬上はその後秋田郡の湊の領有をめぐって弟の公員(きんかず)と争いを起こすが公業の裁定により
弟の公員が秋田郡内の三地所を領有することになる。
北条執権との確執により延応元年(1239)、橘公員は領有した秋田郡内の地所を自ら放棄し
肥後国久米庄地頭におさまった。