大河兼任



十二月にはいると奥州には再び戦乱の気配が見えた。

藤原氏が滅亡して頼朝による東北経営が着々と進められていた頃

出羽秋田郡大方(八郎潟)東岸地方に勢力を持っていた藤原泰衡の郎従大河兼任が蜂起した。

文治五年(1189年)十二月である。

大河兼任は安倍貞任の弟の安倍家任の一族といわれ




大河兼任は蜂起するにあたり由利の地頭由利維平


「古今の間、六親もしくは夫婦の怨敵に報いるは、尋常の事なり。

未だ主人の敵を討つの例は有らず。

兼任独りその例を始めん為に鎌倉に赴くところなり。」

と使者を送って加勢を求めたが由利維平はこれを拒否した。

大河兼任には弟二人がいた。

新田三郎入道と兼任が反乱を起こす前に鎌倉の御家人になっていたニ藤次忠季である。

新田三郎入道は乱初において兼任に背き鎌倉に参上し弟二人は兼任の蜂起には加勢しなかった。


 源義経や木曽義仲の嫡男、朝日冠者の名を語らって出羽国海辺庄(山形県遊佐地方)に出没し

同志を募り
大河兼任、蜂起す。兼任が嫡子鶴太郎、次男於畿内次郎ら七千余騎。

河北、秋田の城等を経て大関山を越えて多賀城に浸出し

鎌倉に攻め上ろうと見せかけます。

ところが、河北(雄物川北側)から秋田大方(大潟、八郎潟)に於いて志加渡りを越えるときに

氷が割れて五千余騎が
溺死している。

氷が割れて五千余騎が溺死するといった大惨事を
被った大河兼任軍ですが、すぐさま勢力を回復する。

兼任に人望があったか鎌倉に対する不満分子が多数いたのかもしれない。

志加渡りについて、その根拠説として八郎潟町付近(大河、馬場目川)とする新野直吉博士説

鵜川(三種川)付近とする今村義孝説と

能代市向能代の台地にある鹿之丞(志賀の浦、鹿之城)とする吉田東吾博士は

「大方、小鹿島(男鹿)以北の地、即ち野代に
兼任の居れること著名なり」と説いている。

鹿渡の地名からくる
志賀(鹿)の渡りとする川田剛(歌人、東大法学部率)と菅江真澄説の四説があり

これも確定が困難である。

厳寒の冬に兵をあげ河北から秋田大方(大潟、八郎潟)に於いて

志加渡りを越えたのが真実であればあまりにも無謀である。

また当然道先案内の者もいたろうしどうにも解せない。

八甲田山の遭難の映画の高倉健と
大河兼任とが脳裏にうかぶのである。

冬に兵を上げるのは戦略的には鎌倉軍に対しては有利かも知れないが


大河兼任の根拠地は果たして・・・・と思うのである。

兼任の蜂起には源頼朝の東北政策に契機する反抗であつたと思われ

また早急に秋田郡支配を具体化した橘公業にたいする大河兼任の反発があったと思われる。

大河兼任が反乱を起こすにあたって、まず攻撃したのは秋田郡の地頭として男鹿に居た橘公業であった。

大河兼任軍は小鹿島の大社山、毛之左田の戦いで男鹿地方の地頭で頼朝の側近であった橘公業
を敗り

橘公業は鎌倉に敗走して非常事態を頼朝に報告した。

藤原泰衛の郎従で鎌倉方の武将 宇佐美平次実政に生捕られた由利八郎維平は

その豪胆さに感じ入った頼朝
により由利地方の地頭に任ぜられ

鎌倉幕府方として参戦しこの戦いで由利八郎維平は壮烈な戦死を遂げる。


大河兼任軍はこのあと南下しないで北上し津軽の地頭で由利八郎維平を

生け捕りにした宇佐美平次実政
を敗死させ


一万余騎の軍勢に膨れ上がった大河兼任は南下を始め、陸中(岩手)にはいって

平泉を
占拠して磐井から栗原郡(宮城県)に布陣。

鎌倉追討軍と栗原一迫(いちのはざま)の戦いで激突。大河兼任は、壊滅的大敗北を喫した

一時は衣川で防ごうとしましたがすでに残兵は五百余ばかりに減っておりここでも兼任軍は敗れ

北上川を渡ってはるか糠部・外ケ浜まで逃げ、外ケ浜と糠部の間に山城を築いて籠城戦を画策

鎌倉追討軍の進出に又も逃亡


僅か数十人の従者を従え、山北から栗駒山西麓を越え陸奥栗駒郡花山へ潜伏。

最後は文治六年三月十日、兼任、花山の栗原寺で樵夫(きこり)の手にかかり殺害された。

兼任の行動範囲はかなり広く、兵士の動員が大規模であり、多数の同調者がいた
大河兼任の反乱は

二ヶ月にして敗北に終わり
、鎌倉幕府による奥州支配の体制は確立されたのであった。