由利八郎維平



河田次郎とは逆に藤原泰衛の郎従で鎌倉方の武将 宇佐美平次実政に生捕られた由利八郎維平は

頼朝に査問された時、敗者ながらも少しも悪びれることなく堂々頼朝とわたりあって問答した。

その豪胆さに感じ入った頼朝
により由利八郎維平は一命を許されている。

吾妻鑑」に
「由利八郎を捕虜にしたのは俺だ」と名乗りでた鎌倉の武士が二人いた。

自分が捕らえたと陣ケ岡に駐留している頼朝に申し出た

宇佐美平次実政、天野右馬允則景である。

二人が言い争ってらちがあかないので、頼朝は梶原景時と畠山重忠にその裁定を命じた。

梶原景時と畠山重忠は、由利八郎にどちらに捕らえられたのかを尋ねることにした。

まず
梶原景時が居丈高に由利に対した。「貴様は俘囚だ。蛮族だ」という態度である。

「汝は泰衡の郎従の中で、其の名の有る者と聞いた。

本当のことを言え。嘘を言ったら承知しないぞ。何色の鎧を着た者が汝を捕らえたのか」と威しつけた。

由利は激怒して「おまえは兵衛佐殿(
頼朝のこと)のご家来か。

いまのような言葉づかいは実に礼儀を心得ないものといわざるをえない

そもそも、わがお館藤原家は
藤原秀郷将軍以来の正統で、なかでも秀衡公は鎮守府将軍

陸奥守を兼任したお人である

おまえの主人さえ、
鎮守府将軍や陸奥守に対しては、そんな無礼な口のきき方はしないだろう。

俺とおまえは対等な身分のはずだ。それなのに何だ、その口のきき方は。

おまえような奴には絶対に答えない」と由利八郎は景時が何を聞いても返答しなかった。

梶原景時は怒った。拷問までしかけたが、話を聞いた頼朝が止めた。

「おまえの口のきき方が悪いのだ。
畠山重忠が代わって尋問してみろ


畠山重忠に尋問をさせた。そこで畠山重忠は梶原景時とはがらりと態度をかえた。

獣の皮の敷物を持ってきて、由利八郎をそこに座らせた。そして自分は正座して

「武士が、敵に囚われの身になることは何もあなたが最初ではない。恥でもない。

今回こちらに参った
兵衛佐殿の御父君も、平治の乱のときは非業の死を遂げられた。

頼朝殿もこのときは捕らえられて伊豆に流された。しかし、天の運が幸いして

このたび天下の経営を行なうようになられた。

奥六郡で
由利八郎といえば、かねがねその勇名は伺っている。

だからこそあなたを捕らえた者は自分だと言い張って、その手柄を誇りたいのだ。

そこで、お尋ねするが、あなたを捕らえた鎌倉の武士は、どういう鎧を着、どういう馬に乗って

どういう風貌をしていたか、そういうことを話していただきたい。

別に他意はない」これには
由利八郎も頭を下げた。

由利八郎が申すに「畠山重忠殿のお名前はかねがね私も伺っております。

さすがに礼節を心得られた武士であらせられる。恐れ入りました。

前に私を尋問した人物とはまったく違う。事実を申し上げましょう。

私を捕らえた鎌倉の武者は黒糸おどしの鎧を着て鹿毛の馬に乗っておられました。

馬上にいた私をつかまえ、馬から引きずり落としました。

そこへ多くの武士が飛びかかってきたので、あとはわかりません」

由利八郎を生け捕りにした者の鎧と馬の色は実政の物であった。

そこで由利八郎を捕らえたのは宇佐美実政だということになり勲功争いに決着が着いた。

畠山重忠は俘囚の子孫を俘囚として扱わず、ひとかどの武将として扱ったことで名を上げた。

梶原景時は面目を失った。

頼朝は、「由利八郎を自分のところに連れて来い」と命じた。 

重忠が由利八郎を連れてくると頼朝は
 
「藤原泰衡は、先代秀衡とともに北方王国を築いた人物だと聞いていた。

だからこのたびの追討は非常に困難だと思った。ところが、それほど彼に尽くす者はいずに

たかが河田次郎という一部下によって殺されてしまった。

僅か二十日ばかりの間に一族が皆滅んでしまった。

どうだ?あまりにも腑甲斐ない
と思わないか?」
  
由利八郎は首を振った。「別にわが主人が腑甲斐ないとは思いません。

血気盛んな強い兵は、この広大な国土を守るためにあっちの戦線

こっちの戦線と散開されています。
年取った老兵は自殺しました。

私のようにだらしのない者がこうして捕虜になったのです。

我が御舘泰衡様と最後を共にする事が出来なかった。

しかし、わが主人藤原泰衡が、腑甲斐ないといえないのは

あなたの父君義朝殿も同じだったからです。


しかし、あの頃の父君故左馬頭殿は海道十五ヶ所の国の主人であられた。

ところが数万騎の主ながら平治の乱(1159)の時は、一日も支えられないで逃亡なさいました。

しかも忠臣だと思って訪ねて行った長田庄司の為に風呂場で殺されたと承っております。

義朝殿のご最後とわが主人泰衡の最後とくらべて、どちらが腑甲斐ないとお思いでしょうか。

いまあなたのお話のように、僅か陸奥、出羽の二カ国の兵だけで

ほぼ日本を支配つつあるあなたの大軍を二十日も支えたということは

素晴らしいことではありませんか。

簡単に腑甲斐ないというふうにおっしゃらないで下さい」

この由利の反論に対して頼朝は黙ってしまったという。

後に言う事に「由利は重忠に預け特に温情を施すべし」と云々。 

これは吾妻鑑の中で、由利八郎の人柄を示す有名な場面である。

義経を讒言し続けた梶原景時にも痛烈な赤恥をかかせた。

由利八郎の死を恐れぬ豪胆さと見識に頼朝は由利八郎の勇敢を賞し

六日後の九月十三日、正式に罪を免じ、
由利八郎は頼朝の鎌倉凱旋に同行した。

後に由利八郎は文治六年(1190)一月、藤原泰衡の家臣大河兼任の乱に鎌倉幕府方として参戦し

百三段(由利郡新屋、現秋田市新屋)で壮烈な戦死を遂げる。


由利八郎と源頼朝との問答場面は(株)三笠書房・童門冬ニ・奥州藤原四代より抜粋しました。
百三段で壮烈な戦死を遂げた由利八郎と鎌倉方の武将 宇佐美平実政に生捕られた由利八郎は
同一人物ではないという説がありますが私見で
同一人物としました。