泰衡と河田次郎 |
「吾妻鑑」に登場する贄柵主の泰衡郎従・河田次郎・由利の地頭由利八郎維平・藤原泰衡の郎従大河兼任
男鹿地方の地頭で頼朝の側近であった橘公業等中世秋田史上数奇な運命を送る四人の武将の物語。
文治五年(1189)七月、頼朝は自ら二十八万四千騎を率いて奥州藤原泰衛追討に出兵した。
奥州平泉に栄華を誇った奥州藤原氏も源頼朝の二十八万四千騎の大軍に抗すべくもなく敗北。
文治五年(1189年)九月、藤原泰衛は平泉の柵に火を放って逃げ
数千の兵を率い蝦夷島に渡ろうとして出羽国比内郡贄柵に立ち寄った。
藤原泰衛は、贄柵主の郎従・河田次郎の逆心にあって謀殺され北方の王者として
君臨した平泉藤原四代は滅亡した。九月三日、泰衛三十五歳。泰衛の北行逃亡の目標は十三湊であった。
十三湊福島城の主秀栄(ひでひさ)は父・奥州平泉三代藤原秀衡の弟である。
一ケ月後、平泉から泰衛のあとを追って三人の子を連れてきた夫人が
比内郡贄柵手前五キロの八木橋五輪台にたどりついて
主人の悲業の最後を聞き、悲嘆のあまり自害してはてたので土地の人々が手厚く葬って
比内町八木橋五輪台の錦神社を建てその霊を弔っているという。
泰衛の首は頼朝が駐留している志和郡陣ケ岡に届けられた。
「汝、譜代の恩に背く、大逆である」と頼朝は河田次郎を不忠の臣として一喝し、その首をはねた。