南北朝時代の安東氏 8 |
好事魔多し。福島城に移り住んだ安東氏が十三湊も一族も繁栄の一途を驀進しつつあった。
貞季時代思わざる難関にぶつかった。元亨ニ年(1322)の津軽大乱である。
安東一族は宗家別家を合わせて二十八家、それが四十数ケ所の支城出城を領していた。
藤崎城から福島城へ移ったのが嫡家で
藤崎城を領していたのが庶家でその現当主が季久という。
この両家の争いは次第に大きくなり鎌倉幕府の知るところとなり幕府軍が派遣された。
元亨二年(1322)と嘉暦三年(1328)の二度にわたる鎮圧出兵であった。
これを機に両者は和解し、合同して幕府軍を撃退しようと布陣を解き共同作戦で幕府軍を激撃することにした。
幕府軍は散々打ち破られ、全滅同然で逃げ散った。
鎌倉幕府はこの情勢を知っても挽回せんとする意欲も恥辱感も失っていた。
その数年後の元弘三年(1333)五月、北条鎌倉幕府は滅亡した。
安東一族の内紛が解決して十三湊福島城の貞季はいよいよ安泰となりその勢威は不動のものとなった。
そのような時、陸奥国府多賀に下向した鎮守府将軍北畠顕家の激を受け安東貞季は宮方に
参軍する決意をした。
北畠顕家が足利尊氏討伐のため多賀国府を進発したのが延元二年(1337)八月である。
顕家が最も頼りにしている主力は、奥羽の最大の勢力を持つ安東氏と南部氏であった。
宮方に仲良く参戦したこの二大奥羽の豪族が、後年、不倶戴天の仇敵になろうとは
誰にも予想されなかったに違いない。
翌年の延元三年(1338)、幕府軍の高師直と石津の合戦で大敗し北畠顕家は二十一歳の若さで戦死した。
安東貞季、南部師行等はいずれも勇戦をつづけたが顕家に殉じた。
十三湊福島城を守っていた貞季の嗣子盛季は、石津の合戦で父が殉死した悲運の中にあったが
さらに大きな災害を受けねばならなかった。
興国元年(1340)の大地震・大津波である。
このときの災害は繁栄を誇った十三湊付近を一瞬にして壊滅させた。