津軽萩の台合戦 7


同族ではあるけど両雄並び立たずの原則を避けることができなくなる。

それが露骨に現われる前、高星丸は生涯を終えた。康和二年(1100)とも永久四年(1116)ともいわれる。

その跡を嗣いだのが尭恒(たかつね)という。

藤崎城主となった高星丸も、その子尭恒(たかつね)もそしてその子孫代々すべて

城の整備と拡張に力をつくして一族の結束をはかった。

安東氏の勢力は次第に大きくなった。

それゆえに同系同族である十三湊福島城側との対立はけわしくなり

ついに両者が武力衝突せざるをえなくなった。

寛喜元年(1229)、起った萩の台合戦(弘前市津賀)がそれである。

藤崎城側は高星丸の子孫の貞秀であり十三湊福島城側は十三(とさ)秀直である。

この合戦は十三日間の短期で終わり十三湊福島城勢の完全敗北である。

貞秀は先祖以来の素志である十三湊や福島城を手中にし

蝦夷地との交易を密接にし、湊の整備や拡張に力を注いだ。