安倍氏滅亡と高星(たかあき)丸 6


奥六郡で勢威をふるった安倍氏はもと津軽の出身で俘囚長となり、勢力を貯え、南下し永承の頃には

岩手県六郡を支配し、軍馬を育成し、砂金を採集し、兵を養って胆沢郡衣川村に本拠を構え

更に南下の大勢を示すようになった。

九世紀の初頭、坂上田村麻呂が胆沢城や志波城をきずいてから二世紀近くたって安倍氏は台頭してきた。

それは一度中央の支配下にあった蝦夷の勢力が再び離脱したことを意味する。

このため国司との間が円滑を欠くようになった。

政府は武名の高い源頼義を陸奥守鎮守府将軍に任命してこれを制圧しようとした。

奥六郡の大地をゆるがした前九年の役が開始され、厨川の柵は陥落し安倍貞任は戦死。

奥六郡で勢威をふるった安倍氏は滅亡する。


安倍貞任は一族をひきいて厨川の柵にたてこもった当初から、一族の危機を予感していたのものか

高星(たかあき)丸と乳母を呼び

「ようくきけ。そなた達は生きのびることじゃ。死んでは成らぬぞ。高星丸は必ず再挙を期さねばならぬ・・・」

と次のように遺言した。

「柵の西裏口に隠れ穴があるから、そこから逃げ出せ。

行く先きは津軽の稲城(いなじろ)におる則任叔父を頼って行け」。

その数日後、安倍貞任は柵外に出て勇戦したが捕らえられて斬殺された。

津軽の稲城(いなじろ)にいるという則任は、八男二女もいる貞任兄妹の末の弟である。

貞任の父頼良(頼時)は陸奥出羽は安倍一族の祖地であるとし

各要所に同族を配置して強力な団結をはからねばならないと考え

津軽の北の果ての稲城(いなじろ)に城を築き末子の則任をそこに拠らしめていた。

入江に面している稲城(いなじろ)は蝦夷地との交易港にも最適地であると考えての築城であった。

則任は父の期待に応えて、そこの城を白鳥城と名ずけわが名を白鳥八郎則任と称し

着々と基礎を固めつつあった。

(この城がのち十三湊福島城となる。また白鳥八郎則任は十三(とさ)左衛門尉ともいう)。

高星(たかあき)丸と乳母の一行が目指す津軽の稲城に入ったのは半年後であった。

清原氏の軍勢によって、ようやく安倍氏を滅ぼした源頼義には、さいはての津軽まで

安倍の残党を追い、討伐する余裕はなかった。

叔父則任一族は高星(たかあき)丸と乳母の一行を喜んで迎えた。

その後高星丸は藤崎の地に柵棟を築いて安東氏を名乗り一族の発展と繁栄にあらゆる努力をした。

十三(とさ)則任の子氏季に子がなく平泉の藤原秀栄(ひでひさ)を養子に迎えた。

秀栄(ひでひさ)は奥州平泉三代藤原秀衡の弟である。母は安倍貞任の弟の宗任の娘である。

従って藤原秀栄(ひでひさ)は宗任の孫でもある。

十三(とさ)秀栄(ひでひさ)は十三湊福島城を拡大整備し

海外貿易にも眼をむけ領内の繁栄に努力した。