前九年の役 5 |
天喜5年(1057)に源頼義は自分の部下である金為時や下毛野興重らに命じ
奥地の俘囚らにたくみに働きかけた。
そこで宇曾利・仁土呂志らの蝦夷が一体となり安倍富忠を首領として兵を起こし
金為時の指揮に従おうとした。
安倍頼時(奥州安倍氏は祖父忠頼-父忠良-頼時(頼良)の三代が奥六郡の郡司であった)は
その計画を知り自分が出向いて、どちらにつくほうが得策かを説いて思いとどらませようとした。
そのとき安倍頼時が連れていった軍勢は二千人にすぎなかった。
安倍富忠は伏兵をもうけて、頼時を天険に迎え撃った。
激戦二日、安倍頼時は流矢にあたって深傷を負い、引き上げる途中
鳥海柵(岩手県胆沢郡金ケ崎町)で死亡した。
安倍一族は、勇猛果敢な安倍貞任のもとに一致結束し
十一月、黄海(岩手県東磐井郡藤沢町)における戦いでは
源頼義軍に全滅的打撃をあたえた。
源頼義わずかに六騎を残すのみ、という惨敗をきっした。
そこで、源頼義は、出羽仙北(秋田県南部)の俘囚の長・清原武則に援軍を懇願した。
康平5年(1062)8月、清原武則は一万余の軍勢を七陣に部署し
翌9月、衣川関を突破し鳥海・厨川柵を撃破
17日、貞任の死をもって戦闘は終結した。
この戦いにおける源頼義軍は、第五陣の一部をみたすにすぎなかった。
この戦役を「前九年の役」という。