梅花の詠歌 安倍宗任 4

康平7年(1064)3月、後冷泉帝は前九年の役で捕虜になった安倍宗任に御興味を抱かせられた

御様子であられたので宗任を叡覧されることになり

宗任は十数人の衛兵に付き添われて禁庭に入った。

公卿百官が好奇心を漲らせて立ち並んでいる中を、ゆっくりと正面玉座に向かって歩み進んだ。

公卿の一人がニ、三輪咲きの梅の小枝を手にして、宗任の前に歩き、いかにも相手を哀れむような表情で

口調は朗々とした貴族の誇りをひびかせて

「東国は寒冷の地ときいておるが、このような花をみたことがあるか、どうか」たずねた。

宗任は足をとめ、眼前の小枝をちらっとみると、微笑を浮かべる余裕さえ示し、凛凛たる口調で即答した。


『わが国の 梅の花とは 見たれども 大みやびとは 何というらん』

帝をはじめ公卿百官は、顔色を失う程驚愕した。無学の陸奥の俘囚が・・・・・・という意識が凝り固まっている以上

とても想像できないような奇跡を眼の前にみたのである。

捕虜群をいかに断罪するかと朝議が何日間もつづいたがようやく判決がきまり

「この者ども、旧悪を悔いて降伏したのであるから、死罪を免し、全員伊予国流罪に処す」であった。

宗任、弟家任、弟正任その他家属七十余人は伊予国へ流されることになったのだ。

その後、宗任は3年間伊予国流罪、逃亡の恐れありとの理由で大宰府に移される。

その子孫は肥前国松浦に住みつき、後に数十艘の船団を組織し、朝鮮・中国等に対して

侵略的な倭寇ともいわれた松浦水軍・松浦党の祖であるとも伝えられている。