安東愛季と信長 20

桧山郡に接する甲斐源氏末裔の比内(北秋田)の浅利氏、その東方の宿敵南部氏、北隣の津軽氏

内陸にあっては雄物川下流流域を攻略せんと浸出する仙北の戸沢氏、小野寺氏

また由利侵入を狙っている庄内の武藤氏駆逐など多難な年月を送った愛季の生涯は

東奔西走に明け暮れて席暖まるひまもなかった。


そうした忙中にも天下の中心、京都との結びつきを深めることにぬかりなく手を打った。

蝦夷交易によって得たラッコ皮や獣皮、干魚、昆布、出羽特産の鷹や鷲羽など

公卿達に惜しみなく贈った。

富裕で気前のよい愛季の存在が大きく印象づけられ何かにつけて京都公卿の間に、話題となった。

愛季は公卿からの情報を知り中央の覇者織田信長に使を派し鷹を献上した。

信長は鷹狩りを好んでおり

ことに出羽産の鷹は勇猛であり、貴重視されているので、信長の喜びも大きかった。

高誼の絆を固め、己の顕在を示した。天正六年(1578)二月、愛季は信長から一通の書簡を受け取った。

鷹を所望したいとの用件であるが何か腑におちない奇妙な文面であった。

鷹所望は口実で臣下の礼をとってもらいたい、との意味に推測した愛季は筆をとって

覇者織田信長への堂々たる返書を書いた。

「―当家ハ先祖以来、代代出仕之例無シ・・・」安東家は辺土に居城していても

未だ他人に仕えたることはない

「日之本将軍」であることの誇りが
筆を動かす愛季の精神を燃えんばかりに昂揚させた。

比内地方統治に成功した愛季は天正十五年(1587)八月、仙北の淀川(仙北郡協和町)に出陣し

北進して来る戸沢盛安と戦い、合戦中病気悪化、男鹿脇本城において急死した。

「斗星の北天に在るにさも似たり」と恐れられていた

(北の空にまばゆく光る北斗七星のように、愛季の名は北奥の天地にたかまっていた)愛季四十九歳。

そして信長が切腹したのも四十九歳、波乱の生涯であった。