秋田城介実季 21

唐松野の地で戸沢氏との合戦中急死した愛季の嗣子実季は父の死を秘し、麓の法蔵寺に密葬した。

このとき実季(さねすえ)十二歳。

湊騒動や寺内合戦などの内紛を経験した実季は次から次へと多くの試練と対決した。

文禄四年(1595)、実季は後陽成天皇から羽賀寺の修築を仰せつかった。

先祖の康季が行ったように謹んでそれを拝受して工事に着手した。

ようやく完成したのが宍戸へ移る一年前の慶長六年九月(1601)、開始から七年目であった。

慶長十年(1605)、従五位下に叙され翌年「秋田城介」に任ぜられた。

ここにおいて実季は秋田城介の欽命を機に秋田の名字を称号したのである。

秋田城介とは、古代の城柵である秋田城(秋田市寺内)を専当した出羽国司の官職名である。

国司は中央から派遣され、その職階は守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の

四階級の等級に区分され
国司の第二級の介が秋田城の軍・政を兼任していた。

武家政治の世となるにつれ国司は有名無実となり、武人は国司の号を私称(僭称)し

実のない単なる名目だけの肩書きであった。

次ぎの者は名目だけの肩書きである。

永承五年 1050 平繁盛。
建保二年 1214 安達景盛、子孫世襲したが、安達氏の滅亡により絶えた。
天正三年 1575 織田信忠(信長の長子)出羽介に任ぜられ、次いで秋田城介に任官
本能寺の変に二条城で自刃す。
慶長十年 1605 安東実季、秋田城介に任じられ、秋田の名字を氏号とす。