安東愛季と浪岡御所 19

文二十三年(1550)八月十一日、桧山家三代舜季が没し

桧山家四代城主となった愛季(ちかすえ)は十五歳。

その守備範囲が拡大し愛季の生涯は、東奔西走に明け暮れて席暖まるひまもなかった。

桧山郡に接する甲斐源氏末裔の比内(北秋田)の浅利氏、その東方の宿敵南部氏、北隣の津軽氏

内陸にあっては雄物川下流流域を攻略せんと浸出する仙北の戸沢氏、小野寺氏

また由利侵入を狙っている庄内の武藤氏駆逐など多難な年月を送った。

南部氏に鹿角を奪還されてから二年後の永禄十ニ年(1569)

愛季は十歳になったばかりのわが娘を輿入れさせることにきめた。

相手は津軽浪岡御所の当主北畠顕村、もちろん政略結婚である。

南部氏の執拗な攻撃を緩和するための愛季の深謀遠慮があった。

北畠氏は南北朝期に陸奥鎮守府大将軍となり

東北において南朝方の中心として活躍した北畠顕家の後裔である。

顕家の死後、顕家の子顕成・孫顕元は南部氏に庇護されていたが南部氏が北朝方と誼を通じたので

公然と北畠氏を庇護することができなくなり、浪岡へ一行を移した。

浪岡(行岡)で顕成父子を迎えたのは安東氏であった。

浪岡は糠部から津軽へ入るその境にあり

津軽から外ケ浜に通じる街道をも押さえている交通の要衝の地であった。

浪岡における北畠氏宗家は浪岡御所と称された。

北畠顕村は石津で討死した顕家の九代目であり、浪岡御所は南部氏の勢力範囲にあった。

ゆえに南部氏と名門
北畠氏は親しい関係である。

だから愛季は
名門北畠氏と縁を結ぶことによって

南部氏の動きを陰に陽
に牽制出きると考えた。

顕村の祖顕家が石津で討死したとき愛季の祖貞季もそれに殉じている。

そういう因縁を知っている
北畠氏は安東氏に対して好意的であった。

戦国期の北畠氏は、大光寺氏・大浦氏と並び津軽を三分する勢力となっていたが

天正六年(1578)七月、大浦為信の攻撃により名門北畠氏の浪岡城は落城し

顕村夫妻・嗣子の慶好は安東家の客分となり
桧山に移った。

愛季は北畠一族に桧山茶臼山で三百七十貫の知行を与え、顕村は弾正に、慶好は右近に改名した。

湊合戦の時、実季方に付いた北畠慶好
(右近)はのちに男鹿脇本城下の岩倉に居住し

慶好は愛季より「季」字を拝領した事によって「岩倉季慶」と改名

愛季・実季時代の外交担当として活躍した。

のち「湊」「秋田」の姓を名乗る事も許された。