安東両家の合併統合と能代湊 18

桧山安東氏は男鹿半島に進出し、湊家と両家の対立は深刻となっていた。

天文五年(1536)、桧山家三代舜季(きよすえ)に湊家七代定季の娘が輿入れしたのも

こうした状態を回避緩和しようと考えたのが、いわゆる政略結婚。

かくして天文七年(1538)、桧山家四代愛季は生まれた。

天文二十年(1551)、堯季(定季)の死去により湊家の後嗣者は、たえてしまった。

後継者を定めるについて桧山家と湊家の一族と意見がわかれていた。

権力の強い桧山家におしきられ、桧山家三代舜季の三男茂季が湊家を継ぐことになり湊城入りした。

そして愛季は幼い弟茂季の後見役をつとめた。

兄弟が共に当主となったこの両家は、この先、かえって複雑な関係に入る。

湊家の一族と家来にとっては不平不満であった。不平不満が昂じて湊騒動が起こるのである。

茂季が湊城主となって間もなく湊家の旧家臣が徒党を組み、湊城の茂季を急襲した。

驚いた茂季は、急を桧山の兄愛季に告げ救援を求めた。

愛季は直ちに軍を急派して反乱者を撃破し茂季を救った。

茂季は城主としての自信を失い豊島館に退隠し、兄の愛季に湊家をゆだねた。

かくして湊家と桧山家は、合併統一されたのである。

茂季父子は愛季に領土・家名を取られたことを遺恨とし

湊家の旧臣たちも愛季の行為に憤満は深く激しく、くすぶりつづけた。

こうした怨恨が核となり、それをそそのかす徒輩があって

これが後に、
天正十六年(1588)湊合戦となって爆発することとなる。



弘治二年(1556)、十八歳の愛季は積極的な領国経営に乗り出し

桧山城本丸から見渡せる能代湊の町作りに着手した。

安東氏の歴史は海と共にあり、海の玄関を持ちたかったのである。

桧山城は山城であった。外港として米代川の河口に湊町を創設し

北国船による物資の交易を図ろうとした。

この年、家臣の清水治郎兵衛を能代に移住させ、諸材木支配惣町支配とした。

治郎兵衛は永禄七年(1564)に長慶寺、天正年間には山王権現社を建立するなど

着々と能代の町作りを実現しその結果、桧山城は交易の海・情報伝達の海である日本海と強く結ばれた。

久保田街道に通じる畑町は寛文八年(1668)に町割され

安政元年((1854)、現在の
畠町に改正されたそうです。