松前氏の台頭と桧山家 17 |
糠野の城で自刃した政季の嗣子忠季は桧山城の築造を完成し桧山家忠季は
今や河北千町歩を領し、その勢力は一年ごとに伸びつつあった。
下国家政季は男鹿にわたるとき、蝦夷地の管理を一族の下国定季と武田信広らに代行させた。
(信広は安東政季の蝦夷島渡りに従って海を渡り、花沢館の蠣崎季繁の客となった。
信広は、長禄元年に発生したコシャマインの乱を制圧しその功により季繁の婿となり、蠣崎氏を継いだ)。
下国定季が没し、嗣子恒季が継承したが、たび重なる粗暴に堪えかねた家臣たちは
このことを宗家である桧山家に訴えた。
桧山家忠季はこの訴えに対し、明応五年(1496)十一月、討手を差し向け恒季を自害させ
一族の相原季胤に松前の守護職を預けた。
永正八年(1511)忠季没し、嗣子なく潮潟四郎重季の三男尋季(ひろすえ)が継ぎ
舜季(きよすえ・三代)が桧山家を継承した頃は、桧山家の勢力は伸張期にあった。
蠣崎季広は天文十五年(1546)、舜季(きよすえ・三代)の命で
河北森山(青森県深浦町)に出兵している。
この年、この地の森山飛騨守季定が舜季に背いたとき
海路、津軽半島の小泊に上陸、森山攻めに加わったのである。
安東氏に臣従していた蠣崎季広・慶広という英邁なる人物は
蝦夷の諸反乱の中にあって、巧みな戦略をもってそれらを鎮圧し
渡島随一の豪族に台頭していく。(のちの松前氏である)。
蝦夷地における安東氏の支配力は次第に後退し、天正十九年(1591)
蠣崎氏が名実共に蝦夷地支配者となり、安東氏は蝦夷地を失うこととなる。
桧山安東家の勢力は北方比内地方に伸び又男鹿を侵触する傾向となり
湊家の間には険悪な対立のきざしが露呈するに至った。