桧山家・安東氏 16

男鹿半島の染川城て合流した下国家政季と秋田湊安東家三代目惟季(これすえ)は作戦を練って

河北郡の
領主葛西出羽守秀清を攻め、その領地を奪い取り河北郡を下国家政季の所領とした。

湊安東氏と南部氏とは激しく対立しており、河北郡の守りを固めなければならなく

政季を招いたのもそのためであった。

米代川の南北にわたる地域、山本郡から青森県深浦までの一帯であった。

ここから白神山地を越えれば、念願の津軽である。

政季はこの地で津軽進出の機会をうかがっていた。ここから桧山安東氏の歴史がはじまる。

桧山城は山城だが、すぐ海に出れる地点にあり、海に出れば

深浦、秋田湊、子鹿島にも近い。桧山は、山にいて海を制することが出きる要地であった。

海を離れて安東氏の生存はない。

秋田入りしてからの
政季は、すべて順調すぎるほど順調であり、数年前の茂別時代からみると

夢のように思われた。

安東氏発祥の地である藤崎を奮還しようと政季は文明二年(1470)正月、兵を率いて津軽に向かったが

同族の藤崎城安東義景、浪岡城主北畠氏の頑強な抵抗にあい失敗した。

政季の無軌道ぶりはとどまるところなく、湊安東家の信を欠き、部下もほしいままに処刑したりした

政季の非道を憎んだ。

長亨ニ年(1488)八月、南部方の謀略で家来の長木大和守が謀反

河北郡糠野の城(山本郡二ツ井町荷上場)で政季は自刃した。政季三十六歳である。




糠野の城で自刃した政季の嗣子忠季は桧山城の築造(明応四年)を完成し

初代城主となり桧山屋形と称され家号を桧山家と称した。

忠季から桧山家となるのである。父政季が秋田入りしてから四十年目である。

桧山とは東北地方、北海道では檜を楮(ひば、桧葉)又はエゾ松と解してアスナロと称し

ひば、エゾ松の茂っている山を桧山と称していた。