下国家政季・桧山に移る 15

義季に嗣子なく政季を養子とした。政季は祖父盛季の弟潮潟四郎道貞の孫でる。

宝徳二年(1450)一月、父の潮潟重季は南部政盛(義政の弟で義政の嗣子)に攻められ

討死
、津軽潮潟の蓬田城で季と母は南部氏に捕えられ、下北半島の宇曾利に居住していた

宇曾利に居住していた政季を、安東氏は一人たりとも津軽居住をゆるさぬと徹底的攻勢を

永い間つづけている南部氏が、下北半島の宇曾利の田名部を領している政季の存在に

眼をつぶっているのは、
政季の母が南部氏(道貞の子重季の妻は南部義政の女)であったからである。

南部氏の血統を継いでいる政季を、監視付きで、
宇曾利居住を認めていた。

亨徳三年(1454)八月、政季は蠣崎蔵人、武田信広(松前家の先祖)らと謀り宇曾利を脱出し

大畑(むつ市)より船出し、渡島松前に遁れた。

政季は、ここで津軽の祖地を奪還しようと機をうかがっていた。

正にその流動的な情勢を知っていたかのような誘いがもたらされた。

康正ニ年(1456)
秋田湊安東家三代目惟季からの招きである。

「当地に参られ、能代周辺に拠点を築かれては如何と、一日も早く秋田に参られよ」との誘いであった。

その誘いを好機到来とばかり、快諾した政季は一族を引き連れて男鹿の染川城へむかった。

かくして安東宗家はニ男家の鹿季におくれること五十年にして秋田に移った。