松前の安東氏 14 

嘉吉三年(1443)、安東盛季、康季父子は南部氏に敗れ、渡島にのがれた。

蝦夷地は代々蝦夷管領職として世襲した地で、安東氏の支配下にあった。

盛季、康季父子は領主として松前に上陸し、茂別に館を築き居住した。

盛季は鹿季の兄で安東家の総領であり、家号を下国家(しものくにけ)と称した。

津軽の別号を下郡(しもぐん)と称し、秋田を上国(かみのくに)と呼んだ。

上国に対し下郡を下国と呼んだので総領(宗家)家は下国家と称した。

鹿季の弟は、横木三郎下野守豊国。所領地は宇曾利(青森県の下北半島、むつ市一帯)。

次ぎの弟は潮潟四郎道貞、外ケ浜潮潟の蓬田城主。蓬田は、東津軽郡南端の海岸に位置する。

道貞の弟は、矢沢五郎家季。矢沢の地は南津軽郡藤崎町の地内にある。

安東盛季は無念の思いで渡島の茂別館に居住することわずか二年

文安元年(1444)、そこで生を終えた。

津軽は安東一族にとって、鎌倉以来二百年余の父祖の地である。

津軽を根拠に、蝦夷地も支配できたのである。


十三湊を奪回することを得ずして世を去った父の遺志を、子の康季が受け継ぎ

父の死の翌年文安ニ年(1445)、津軽に渡り祖地の奮還を計ったが

亨徳ニ年(1453)三月、悲願むなしく、引根城で病死。

康季嫡子の義季が、父の遺志を継いで再び津軽に侵入し

南部義政と戦い狼倉城(岩木町)に篭城したが、南部勢六千余騎に攻められ

津軽本領の恢復を果たせず無念の自害。亨徳三年(1454)正月、亨年三十一歳という。

残党は、山麓沿いに深浦に逃れ、深浦館を築いて立て篭もった。

この義季の死で、長く津軽を支配してきた津軽安東(藤)氏一族の正統は

ここに断絶した。悲運というほかはない。

この後、桧山安東氏が興り下国氏を称して津軽安東(藤)氏の系譜を引き継ぐ。

義季に嗣子なく祖父盛季の弟潮潟四郎道貞の孫で宇曾利に居住していた
政季を養子とした。

この
政季の代からの名乗りはに変わる。

津軽安藤氏から出羽の桧山安東氏への歴史の暗転である。