安日王とナガスネヒコ 1 |
寛文12年(1672)に編纂された『会津旧事雑考』によれば、崇神帝の時代に蝦夷が反乱をおこしたので
大毘古命の子の阿倍河別命を将軍として征伐させた。阿倍河別命(建沼河別命)は苦戦を強いられた。
そのとき安東というものが、願い出ていうには、自分はウマシマジ命の臣下であった
安日(あび)という者の末裔である。
安日王とナガスネヒコの兄弟は摂津国の胆駒岳に住んでいたが、神武帝が東征して大和に入った時放逐された。
先祖の安日(あび)は罪をえて、東国に蟄居したが、ついに今にいたるまで赦免がない
罪を赦してもらって命令して下されば、私は先鋒となって戦いますといった。
そこで阿倍河別命は安東を先鋒として戦わせた。
安東は大いに手柄をたてたのでその功績を賞して安倍姓をさずけ、更に将軍の号を与えた。
それが奥州安倍氏のはじまりである。
その安倍氏がのち安東氏と称するようになったのは、始祖である安東の名に因んだのである。
応神天皇の時、蝦夷が騒乱を起こしたので、安東の末裔が東征してしずめた。
そこで帝は、奥州日下将軍の名をさずけた、というのである。
だがナガスネヒコの兄の安日なる人物は記紀などの正史には一度も登場しないのである。
そこでそれが奥州で作られた伝説中の人物にすぎないことは明らかである。
安日なる人物を創作した根拠は奥州の安倍氏が勢威を誇っていた時代神武帝の軍隊と勇敢に戦った
ナガスネヒコの武勇にたいして同じ蝦夷族としての共感と誇りをおぼえたと共に
物部氏とナガスネヒコが連合していたという
かっての事実への親近感とナガスネヒコが蝦夷であったという伝承が古くから存在していたのであったろう。