「水仙の花」によせて・・・土田永助

昭和26年春、私共にはじめて授かった長男良一を肺炎で失った。 病院を訪ねたときは既に危篤状態であった。妻の両親が力の限りを尽くしてくれたが及ばなかった。 父親として何も知らない、わからない、なんにもしてやれなかったことに、 何をどうしたらよいものか、なんともやりきれない心境だった。棺を作る板を森岳で買い、 田んぼ道を傷心に耐えながら歩いた。涙がとめどなく出た。当時のこと花とてなく、 水仙の花をあちこちからいただき、ようやく手向けた。

「水仙の花」は田沢湖の「たつこ像」の作者として知られる、元東京芸大教授舟越保武の作品で 、高校の現代国語の教材となっているので若い人たちにも広く親しまれている。 舟越先生は岩手県出身で戦時中疎開地で長男一馬さんを失った。 この「水仙の花」は、その実体験を基にして書かれたものであるといわれ、夢中になって探しまわり 小さなセルロイドのおもちゃを買ったこと。水仙の花をできるだけ沢山くださいと、 頼んで求め棺の子を包んでやったことなど、すべて私の場合と酷似していて、読むたびに自分のこと と錯覚するくらいである。

私は自らの健康菜園を水仙の花で生け垣を作っている。水仙は私のような不精者でも比較的育て 易いこともあって、回り一体に咲くと見事であると自画自賛しているが、 これは幼くして世を去った長男への手向けの意を込めて手入れしている。道行く人もめでてくれる。 おせじとわかっていてもうれしい。またこの生け垣がいっぱい咲くようになって、こどもたちも、 それを越えてきて畑で遊ぶようなことは少なくなった。

私は誠に偶然ではあるが、家庭教育相談・通信には、私なりの思い入れがある。 思い込みというのは、変転の激しい世の中にいささか危険なことであることは心得ているつもりで あるが、私のかかわる幼いこどもたち、そして親たちには絶対に私の二の舞を踏ませてはならない といったことが常に脳裏にあり、原稿を書く度毎に根底にあるように思う。子を失った私は、 既に父でも母でもなくなり親失格のまま、それから5年間も子に恵まれず、 失意の日々が続いた苦い思い出がある。貧困による病気は私たちの回りから急速にその姿を消し去って きた。戦後トラホームの子が50%近くで、回虫は90%とも言われ、肺結核は不治の病とされた ものは、現在は一般の人々には意識化されないという。 しかし、時代はまた新しい病をもたらしているようにも思う。

幼児教育、家庭教育は健康教育を核に更に学んでいかねばと、しきりに考えるこの頃である。

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