最終更新 2005/12/20

11月19日(土)の午前10時すぎ仕事中に電話が鳴った。「チャンネルをNHKに」というものだった。すぐにテレビをつけたら「佐賀発 白砂青松が消えていく」という番組の途中だった。仕事の手が離せなく、あとからNHKのホームページを見たら、下のページにあるように再放送は11月27日午前4時30分から59分までと出ていた。広葉樹がクロマツの敵であることは知っていたが、枯れ落ちた松葉も富栄養化の原因になっているとは知らなかった。虹の松原で松葉掻きをしている姿が印象的だった。

 05年11月27日早朝にNHK総合テレビで再放映された『環境新時代 地球だい好き 白砂青松が消えてゆく』を見た。画面の一部を上の表題右に載せたが、そこには4:30と表示されている。朝4時半からの放映だった。番組は佐賀県唐津市に広がる国の特別名勝「虹の松原」を取材した番組だったが、私は能代市の風の松原のことのように感じながら番組を見ていた。

 番組の中で山形大学の中島勇喜教授は松原荒廃の原因として次の4つを挙げている。
 【広葉樹】と【マツクイムシ】と【開発による伐採】それに【砂浜の消失】の4つである。
 広葉樹の繁茂と松くい虫については別項目で述べるが、【開発による伐採】と【砂浜の消失】について、このページで紹介したい。

 能代浜の砂防林の場合、最初に起こった問題は【開発による伐採】であった。昭和45年、秋田県第3次総合開発計画が発表された。その中に「昭和50年までに能代港を1万5千トン港に整備し、昭和60年までに臨海工業団地(70ha)を造成するために海面埋め立てと同時に後谷地砂防保安林の2/3を伐採するという計画であった。
 当時私は既に仕事に就いていたが、現在の鹿角市花輪に勤務していて、能代市で大きな問題になっていることはわからなかった。今年(平成17年)になって、市立図書館で当時の北羽新報(地元紙)を読んでわかったことである。

 昭和54年11月に明らかになった県の第3次総合開発計画を発端として、昭和46年6月、市民有志による「砂防林を愛する会」が結成された。「砂防林を守れ」との声が大きくなり、昭和50年から妥協の方向に向かった。
 昭和52年3月に国は、「国有林面積約20ha、クロマツ8万3716本を秋田県に売却し、現在の能代火力発電所や木材工業団地などの用地造成を行う」という結論となった。
 「砂防林を愛する会」はその後「能代海岸砂防林を活用する市民の会」へと変化し、市が砂防林の愛称を募集し「風の松原」と決定した。
 その後「・・・活用する市民の会」が発展的に解散し「風の松原を育てる市民の会」が設立された。
 【砂浜の消失】については、現在どこでも論じられていないと思う。しかし、風の松原(北は峰浜村と隣接している能代市落合から南は八竜町との境界まで14キロメートル)で砂浜が残っているのは米代川の北側である落合浜・大開浜と、石炭火力発電所とロケットセンターの間の2キロメートルとの2箇所だけである。

 それ以外はすべて護岸堤で囲まれている。その上、1万5千トン岸壁や4万トン岸壁のために長い防波堤が作られ、米代川から流出する砂は北側の大開浜や落合浜方面に流れていき、後谷地に砂が入ることはすくなくなった。これがクロマツ林にどのような影響を与えるかについてはよく分からない。

 ただ不思議に感じているのは、子供達が小さかった頃、落合浜海水浴場に何度か行ったことがある。そのころは海岸に、今の宮沢海岸や釜谷浜と同じようなコンクリートの階段が作られ、海水浴場として使用されていた。自動車で峰浜村の方まで行けるようになっていたハズだ。ところが今年の夏に落合浜に行ったとき、海水浴場の階段は砂に埋まりかけていた。峰浜村方面に向かう道路は通れなくなっていた。『東北自然歩道 新・奥の細道』の中に落合浜海水浴場から峰浜村ぽんぽこ山に向かう道があったはずだが、あそこはどうなったのだろう。砂に埋まってしまったのだろうか。