冷泉家住宅 京都市今出川通烏丸東入玄武町   

冷泉家時雨亭文庫事務局 正会員 毎年 一口 一万円 

見学の趣旨  私は 鎌倉時代1235年 藤原定家が 小倉山山荘で、百人一首を選集した
と、言われている。当時は 四条天皇で、将軍は源実朝
 摂政は 北条泰時の御代だ。
当時は 北条政権だ。その歴史に近づいてみたいと思い、定家の時雨亭の跡地を訪ねて見た。京都、小倉山の麓にある常寂光寺の山門に入り、仁王門をくぐり、本堂の左寄り、登り
歌仙詞の側に 時雨亭跡と刻した中くらいの石が置かれている。ここが 定家 今から
788年前 この地で、百人一首をまとめられたと考えると、思い深い。今日は 令和5年
(2023)12月2日、晴天で、小倉山は 燃えるような紅葉だ。山門から時雨亭跡地まで、
石段を何段登ってきただろう。身体の弱かった定家は 毎日、登ってくるのは 大変だった
と、思う。72歳で、出家したとすれば 京の都に出るのも、遠くて、大変だったと思う。



感想 
   百人一首は 天智天皇の「秋の田の刈穂の庵の苫をあらみ、我が衣手は露にぬれつつ」
  から始まり、百人目は 順徳院の「ももしきやふるき軒端のしのぶにも なおあまりあるむ

  かしなりけり」で終わっている。


  自らの歌は 97番 「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に 焼くや藻塩の身も焦がれつつ」にい

  れてある。

  彼の父俊成の歌は 83番に「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴

  くなる」

  2番目は 持統天皇の「春すぎて 夏来にけらし 白�妙の衣ほすてふ 天の香具山」 

  終わりの前の句 「人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふゆえに 思ふ身は」は 後鳥

  羽院、。歌人の歌は 三番目 柿本人麻呂 「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながなが

  し夜をひとりかも寝む」 四番目 「田子の浦に打ち出でて見れば 白妙の富士の高嶺の

  に雪は降りつつ」 の山部赤人と歌人を配置している。定家としては 大化の改新をした
 
 天智天皇、それを維持した持統天皇、そして、武士の権力から天皇制を守ろうとして、起こ

した「承久の変」で、隠岐の島へ流された後鳥羽院、佐渡に流された順徳院の短歌で、締め

くくった。この二人は 短歌に功績あり、そして天皇制を 定家は支持している。




   
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京都の旅

2023.12.1~3

常寂光寺の仁王門

12.1.

秋田空港発 13:15

大阪モノレール  南茨木  烏丸四条
           阪急電鉄

大阪空港着 14:55

ANA

京都駅   ホテル着 17:30

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見学   市バス 京都

  大覚寺、大沢池

ホテル発 9:30 タクシー 常寂光寺

12.2

ホテル着 15:30

時雨亭跡地

阪急南茨城  大阪モノレール 大阪空港

12.3.  ホテル発 9:00 京都駅  烏丸四条

10:50  JALチェックイン 11:00 保安検査  搭乗口 11:50 JAL 発 12:45

秋田空港着 14:00