小西チヨ 「時代を語る」

秋田魁新報は 平成27年10月から11月にかけて、掲載した。私は興味深く読んだ。
それによれば 小西チヨさんは 現在の北朝鮮、平安北道、新義州府で誕生。その後、父の務めで、
奉天(現、瀋陽)に移住。南満州鉄道の経営する看護婦養成所に入所。修業。安東医院に初勤務。
その後、奉天の結核療養所に勤め、安東医院に戻り、終戦となった。その後から人生が興味深い。
1946年6月から共産党軍に従軍し、長征を体験した。国共内戦中、中国東北部の共産党軍は東北民主
連軍と呼ばれ、医療要員の日本人が3000~6000人も徴用され、共産党軍兵の治療に当たっていた。
共産党の人々は 日本人の技士や医療従事者に敬意を持ち、厚遇していた。しかし通化事件もあった。
1946年2月、中共軍と朝鮮義勇軍による日本人居留民の大虐殺事件である。拷問、銃殺で、約3000人
が死亡した。1947年春でも共産軍は国民党軍に追われ、内蒙古の砂漠地帯を逃避していたと言う。
毛沢東は1949年10月1日、建国を宣言した。しかし蒋介石が49年12月、台北に臨時首都を移し、翌50年
春でも、華南には国民党の敗残兵が多く、国共戦は続いていたと言う。
平津戦役(1948年11月29日から1949年1月31日)では 独流鎮に野戦病院を設営し、看護婦長として、多くの中共軍傷病平を不眠不休で看護し、日本人医療スタッフは自分の血液を輸血して、中国人を四千人も助けたと言う。これは歴史的事実だと証言している。1949年3月、第四野戦軍後方勤務衛生部第九後方医院の看護婦長となった。この部隊は八路軍、林彪の指揮の下にあったという。
1953年8月、鄭州、武漢、上海と移動し、引き上げ船で、舞鶴に着いた。この時、中国の護衛艦が日本の
領海まで送ってくれたと言う。この時、毛沢東や周恩来も皆さんのお陰で勝てたと言った。

 ソ連は 社会主義を目指したが スターリンの政敵を消す独裁は官僚主義となり、経済は資本主義に負けて、ゴルバチョフ書記長は 国民の所得平等は実現できず、共産党一党独裁を廃止した。英断だ。
 中国は 改革開放と言い、共産党一党独裁で、資本主義を実施した。そして習近平は 汚職の名の基に
政敵を失脚させ、処罰している。国民の所得格差は資本主義国より大きくなっている。中国のゴルバチョフ
は いつ現れるのだろうか。、中国の大学生は日本より、多くの時間学習している。都市と農村の戸籍制度
、チベット、ウイグルの民族問題を改革し、国民の所得格差のない社会主義を実践する書記長はいつ現れるのだろうか。

  ゴルバチョフ回想録(上、下) 拝読す。12.13. 現代世界史を知るには この書は必読のものだ。
 ゴルバチョフは ノーベル賞にふさわしい偉大な人物だ。

 
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