2006.2.9~12  秋田空港からのチャーター便 秋田テレビAKT 企画 JTB秋田支店取扱

日程、概要
   2月9日11時 秋田空港出発 15:45 サイパン空港着陸(日本とサイパンとの間には 1時間の時差があります   ので、実質の搭乗時間は 3時間 30分位)、第一ホテル(現在名、フェスタ・リゾート・スパ)に 18時到着。
2月10日、ホテル9時出発、サイパン島内半日観光  終了は 13:00
   1.バンザイクリフ 島の最北端にあり、北進してくる米軍から逃れてきた日本人はここで断崖から海に投身し    たという。ここには慰霊碑が並んでいる。母子の投身も多かったとガイドは説明した。昨年天皇皇后も訪れ    たという。
   2.ラストコマンド バンザイクリフの南側の高い岩盤の中にあり、島の北の海を通る船の監視に用いられたと
    考えられる場所だ。ガイドは捕虜の証言でこの場所が発見され、攻撃を受け、南雲中将は自決したと言う
    この岩の下にも、慰霊碑が並んでいる。
   3.バードアイランド展望台 島の北東に位置し、海岸に岩島があり、沢山の鳥が飛んでいる。眺望が良い。
   4.バウパウビーチ 珊瑚礁の瑠璃色の海岸で、白い海岸。これは珊瑚の砕けたのが砂になったもので、波     打際には珊瑚や貝の破片が多い。この南側が日航ホテルである。
   5.砂糖王公園 A..松江春次氏銅像(南洋興発株式会社社長、会津若松出身、ルイジアナ大学砂糖科を卒業
    日糖、新高製糖で活躍後、1921年11月、南洋興発を設立し、ジャングルを切り開き、サトウキビを植えて、
    製糖事業を成功させた。日本の砂糖の需要の3分の1をここサイパンで生産した。)  B.豆機関車 サトウ     キビと薪を北はマッピ山から南はマジシャン湾から砂糖工場に運んだ。 C.彩帆香取神社 これは戦前に
    ススペにあった神社を戦後ここに移設したものである。D.その他、この近くには 日本病院、日本刑務所の
    廃屋が残っている。
2月11日 ホテル10:06出発  シャトルバスによるひとり旅  14:20
    バスに乗車、一日券を 3ドルにて購入、南に向かう。バス運行の最南端コーラルオーシャンポイントリゾー    ト(ゴルフ場)下車。海岸を見学、珊瑚礁の海は瑠璃色だ。海にはテニアン島が見える。あの島の北端(ここ    から見て、右手)が 1945年8月、広島、長崎の原爆を搭載した地点だ。バス時間まで、このクラブのフロン    トで、名古屋の夫婦と休憩した。11:15のバスで、北に向かう。名鉄マートにて下車。名古屋の夫婦は息子    の結婚式が午後にあると別れた。私はひとり見学を続けた。A.マウント・カーメル大聖堂(この島で最も目立    つ建物)を撮影した。この建物近くに砂糖工場の跡や神社の鳥居がないか探したが見つからず。B.日本戦    没者記念碑 ビーチロードと旧砂糖荷上場への道路の交差点にある。道祖神の感じだ。C.旧砂糖荷上場
    桟橋跡は今は現地人の釣り場や子供の海水浴の場となっている。ここから歩いて、グランドホテルに向か    う。ここの日本料理店「あおい」にて、昼食として、うなぎ丼を頂いた。この海岸も撮影して、12:58発バスに    て、北に向かう。日航ホテルで下車。海やホテルの写真を撮り、パウパウビーチに向かう。14:20 日航発
    で、第一ホテルに戻る。このバス道路はかって日本時代は豆機関車の線路跡で、現在のビーチロードに     なっていると、ガイドが話していた。夕食はホテルの向かいの「金八」レストランで、餃子とジャガイモのバタ    ー焼きで、アサヒ缶ビール飲んだ。
2月12日 朝 4:30 起床。ホテル出発 5:00 サイパン空港着 5:30 スーツケース検査 一人一人スーツケースを
    開けて、中味を一つ一つ検査した。終了後、検査済証Trasportation Security Administration を入れた。     (最初の方は 一人 3,4分かかった。しかし中間からは開けて触ってみるだけで、30秒位で終わった。)
    手荷物検査では 背広、シャツのポケットの物、靴まで 皿に入れて検査した。
    7:20 搭乗。7:37 離陸。秋田空港着陸 10:13 (予定は11:05) 予定より、1時間も速く到着したので、入国
    審査官が到着していないとのことで、30分位機内から出られなかった。

     
      バンザイクリフの慰霊碑                    砂糖王公園の松江春次氏銅像

 感想。 サイパン島陥落が 1944.6.15. 翌月、東條内閣総辞職。11月、東京空襲。そして敗戦に一直線に
      進んでいく曲がり角だった。このときに終戦を決意すれば どんなに被害を少なくしたかと思う。
      一国の指導者の判断の難しさを感ずる。そして敗戦国の施設は破壊され、その跡に戦勝国の建物が
      建てられ、一層の無常を感じた。これはサハリンでも同じだった。

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彩帆の旅