「漢字の故郷」を訪ねて(4)

 
     
 大連、旅順の旅  
     2001.3.27(火)、16時10分、8人のJAのツアーに添乗員1人をつけ、仙台空港より、離陸し
    た。中国機は 時間がルーズとのことで、この定期便も40分遅れである。飛行機から見る夕日
    は赤く、雲の中に落ちていった。大連周水子国際空港には 現地時間18時20分着陸した。時
    差が一時間あるので所要時間3時間10分である。ここから バスで通訳兼ガイドの董文俊と、
    夕食のレストラン天天漁港で、海鮮料理をいただき、大連フラマ大酒店に宿泊する。
     3.28(水)、朝、ホテルを 9時出発 東鶏冠山に向かう。ここが乃木大将が死人の山を築いた
    場所である。ガイドは ロシアが日清戦争の後に、頑丈な地下要塞を建設したことを 乃木大将
    は知っていなかったため、多数の兵隊が死んだと、その地下要塞を見せてくれた。
     次に 203 高地に向かう。バスを降りて、きつい坂を10分位登ったところで、旅順港がよく見える
    所であった。日露戦争後、薬莢を集め鋳造された塔があり、爾霊山と記載されていた。
     次は 水師営に向かう。「旅順開城約成りて、敵の将軍ステッセル、乃木大将と会見の 所は
    いずこ水師営」と、手毬歌になった水師営である。「庭に一もと棗の木」も「崩れ残れる廃屋」も
    再生して、私たちに見せてくれた。ここは文化大革命の時、壊されたもので、最近復元したとの
    ことである。

                  
    2001.3.27.東鶏冠山の                大連の町並み
        ロシア軍地下要塞の跡                この住宅が印象的

    
     ここ大連、旅順は 日清(明治27~28)、日露(明治37~38)戦争の舞台であり、日本がその進路
    を誤ることになる原点であると考えています。私は 大東亜戦争を美化する気はありませんが
    この戦争で 利権を争った英、露、仏、独、日 のなかで、日本だけが 悪者呼ばわりされなけ
    ればならないのか。その原因は何処にあるのかを追求して、日本人は敗戦の劣等感を克服す
    べきと考えます。
     ここを案内してくれたガイドの董文俊さんは 日清、日露戦争を日本人より、詳しく勉強されていて
     驚いた。乃木大将より、指揮権を受取り、東鶏冠山攻略から、203 高地攻略に作戦変更し、
     日露戦争を勝利に導いた児玉源太郎大将も紹介してくれた。
      ロシアは 日清戦争の後に旅順に地下 7階から 10 階の要塞を 中国人数十万人を使って
     建設した。その工事に携わった人々を 慰労の宴会をするとの名目で、教会に集め、すべての
     人々を 銃殺したという。
       次回は その遺跡も訪ねてみたい。
             
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