大潟村の歴史を語る170126




大潟村の歴史を語る170126

東西12キロ、南北27キロ、周囲82キロ、総面積22024ヘクタールの国内第2の面積を誇った湖、八郎潟を干拓して誕生した大潟村。昭和32年から20年間、総事業費約852億円を投じた「世紀の干拓」には全国からパイオニアたちが集まった。その数、42年の第1次から49年の5次まで580()。入植開始後に始まった減反政策。国の農業政策に揺れ続けた同村も今年で創立40周年を迎えた。新天地での大規模農業を夢見た能代山本出身者を紹介する。

     良ければ変える

多数決による決着は分かりやすい半面で反発もあるのでは。

「提案するとき私は「この案が正しい」とは言わない。「今の時点ではこの案が一番良い案だと思うがどうか」と採決する。隣の案もあるのは分かっているが二つは提案できない。大潟村の重要施設はそうした多数決で1,2票差の決着で進んできた。反発はもちろんあるが、それを恐れていては何もやれない。ただ、長たるものは自分がこれが良いと思うものを提案するが、途中で変えてもいい。例えば「私の勉強している範囲ではAが良いと思うが皆さんどうですか」と。するとリーダーの提案に一般の人は真剣に考える。リーダーは住民に指標を与える指導者でなければならない。その上で住民が「Bがいい」と言い、そのほうがよければ変えればいい」

市町村合併が進む中で大潟村は自立の道を選択しています。

「私は早く合併するべきだと思う。村長は船長、議員は副船長。船長は危なくないよう航海しなければならない、少なくとも住民に冷や飯を食わせないよう航海しなければ。国がガスの元栓を締めようとしている状況で、ジリ貧になってからお願い済ますじゃ、それは冷や飯を食わせること。願望だけでは話にならない。評論家でないのだから。住民負担を増やさず、これまで通りの住民サービス、少なくとも横ばいでいく。責任あるリーダーだったらこう考える」

――自立は、全県一という村民の若さ、所得の高さが可能にするのでは。

「そう思うのかもしれないが、普通3割自治と言う。自己財源は3割が目いっぱい。財政バランスは隣の町とそう変わらない。国はそうなるように調整している。所得があれば交付税を下げるし、ないところには多めにする。だが今回、国はその仕組みを変えた」

     合併2段階で

――では合併の枠組みはどう考えますか。

「本当は男鹿南秋が一つになれば良いと思った。能代山本は一つでそれが自然と思ったが、それぞれ事情があって割れた。今回の合併を見ると、理想論はあっても理想通りになかなかいっていないのが実情としてある。それでこれは頭を柔軟にして考えるべきだと。国は二つ以上の合併を認め、10年間は今の財政水準を維持させるとする約束。だからまずは第一次合併をし、理想的なエリアは10年後に考えてもいい。次善の策だってやむなし。それは住民に冷や飯を食わせないためで、どうでもよければ単独でもいい」

――名称問題で揺れる能代山本7市町村の合併をどう思いますか。

「がたがたしているようであれば第一次合併を考えるのも手だ。南部3町を取り上げるならば、歴史的なことも考慮するとここには理由はある。3町がまとまり10年後、もう一度考える。大同団結すべきか、3町でそのままいくべきか、さらに男鹿南秋の圏域も含めるか。選択肢も広がる。したたかに国の制度を活用する。それは住民のためで、まず最低のことは守り、10年かけて将来構想、理想的なエリアを考える。それが現実的なリーダーシップだと思う」

     世の中に一石を

――村長勇退後のライフワークは。

「世の中に一石を投じると言えば大げさだが、今までのノウハウ、経験を若い人たちに伝え、あらゆる社会問題に関心を高めてもらおうと考えている。そういう人間がいてもいいのではと『新しい秋田を考えるフリーの会』をやっている。地域の重要な問題は割と取り上げられていないし、行政は表向きだけさらっとさわって本格的なことまで突っ込んでいない。抜本的な対策まで突っ込んでいきたい」(20041126

     協調してこそ・・・

――生産調整に関しては大潟村農家の姿勢を冷ややかに見ている周辺農家は多い。

「減反の問題は予想していなかったことだが、最初は奪い合いだったものが、コメを作って売れば年間500万円ももうかった。1年の生計が立った。だからどんどんそっちの方へ向かった。しかし、私はそれはおかしいことだと。周辺の農家も、秋田の農家も、全国の農家もだれも好きで減反している人はいない。全体で痛みを分かち合い調整しないと米価は下がり、コメ農家そのものがおかしくなる。それをもうかるからとやったのでは村はつぶれてしまう。『大潟村は国が作ったからといって特殊な村ではないんだ、周辺と協調してこそ発展がある』と初めの選挙からそうしてきた」

――この問題については村のトップとして苦労も多かったはずです。

「生産調整に協力する農家の一方で、もうけられるものはもうければいいと考える者も出た。国は逮捕しないし、食管法を破ってヤミ米は法律違反だ。法改正で現在は違法ではなくなったが、過去には法律を犯したというレッテルが張られている。今の生産調整の状況にしても自分の都合の良いことだけやっていてはどうなる。八郎潟の水質が悪化してきている。改善しなければならない時に、大潟村で勝手なことをやっていれば周囲はしらけるだけだ。この村は国の方針があって誕生した。国が大枚の英断を下してつくった村。だが、国のモデルには十分に応えられなかったのは事実」

     政治への目覚め

――政治の道へと進むきっかけについては。

「高校を卒業して八竜にいた時のこと。田植えまでの間に日照りで水不足になる。すると農家は自分の田んぼに水を引くため必死になる。隣を出し抜いてまでも水を引きたい。『我田引水』とはよく言ったものだ。水口の前で徹夜の水の番、何日も。なぜ家に帰らないのかというと、隣に水を取られないように見張っている。水を分け合えばいいのだが、それができない。こうしたことを目の当たりにし、果たして農業はこれで良いのかと思った。農民根性。でもその根性はどこからきたのか。それは農政が貧しいから。必要な水も供給できていない。農業をけんかさせ、不信感をあおって農村社会全体に悪い影響を及ぼしている。これは政治が悪い。そういうところから私の政治感覚が目覚めた」

     百人百色に苦労

――政治家として心掛けたことは。

「ここは十人十色、百人百色。だれもしがらみがなく、15ヘクタールの土地があるわけだから自分の力で暮らしていける。人の世話にならず、上下関係もない。そうなると人間は主張する。それが大潟村の特徴。全国から集まり、過去の習慣、考え方、言葉もまるで違うわけだ。考えたのは皆さんの満場一致を待っていては何一つ仕事ができないことになる。変化の激しい中で、この村が外よりも遅れる。何もしなくて良いという住民ではない、どこよりも積極的に何かをやりたいと思っている住民の集まりだ。しかし、意見が百出。だからリーダーたるものは色んな意見を聞いた上で、100の考えの中から一つを提案する。決着は多数決しかない。その結果をどこまでもダメだとするならば選挙でクビにすればいい。自分の意見をしっかり言う、リーダーはそうでなければならない」(20041125

 八竜町議から大潟村へ。入村後、農業組合長、村長となり約30年間もの長きにわたり全国から集まった入植者のトップとして村の発展に尽力した宮田正馗さん。その手腕はふるさと能代山本でも知られるところだ。村長を勇退して4年になる現在、地方自治体は行財政改革に悩み、市町村合併で揺れ、加えて地域農業の先行きには依然と不安感が漂う。宮田さんが村とどう歩み、そしていま何を考えているのか聞いた。

《みやた・せいき》八竜町鵜川出身。金足農業高卒。町議(2期目)だった昭和44年に大潟村に入植(第3次)。46年から村農協組合長を3期。その後、53年から平成12年9月の任期満了による退職まで村長を連続6期務めた。県町村会長、全国町村会経済農林部副会長など歴任。現在、県体育協会理事。新しい秋田を考えるフリーの会長。自宅は大潟村字西2丁目4の11。妻・洋子さん(62)とに2男1女。孫3人。趣味はゴルフ。

     夢の10ヘクタールに挑戦

――入植した動機は何だったのですか。

「私は八竜じゃ大きい農家だったが、2.5ヘクタールぐらいではこれからの農業はやっていけないと考えていた。という矢先に干拓の話が出た。規模拡大、大規模農業育成はかねてからの日本農政の方針。だが、地価が高いのでなかなかできないでいた。そういう中で、モデルタイプをつくろうというのが大潟村だった。干拓地でありヘドロで苦労も多いだろうが、それまでは考えられないような10ヘクタールという規模。そのとき私は町会議員だったが、農業で自立するため、隣にいい条件があるからそっちに行こうと思った。それで仲間とともに入植した。」

――周囲からの反対もあったと思います。まして町議という立場では。

「25歳で最初の、29歳で2回目の選挙をやり間もなく来ることにした。もちろん支持者、親せき、家族には反対された。『八竜のために頑張る』と当選したし、仲間でいろいろあったが、よく考えてみると農業は八竜だけではない。新しい農業が隣でできるという期待が大きかった」

     32歳で農協の長

――昭和44年(第3次)の入植です。

「入植したところが、何もないところだから農協も新しくつくらなければならない。そうやっているうちに何でもはまらなければならなくなり、農協の理事に出て32歳で組合長になった。全県で一番若かった。村長は39歳でこれも一番の若さ。八竜で2回選挙やったから、『あと辞める』とも言っていたが、いま思えば好きだということになるのかな」

――入植は42年の第1次から49年の5次まで続き、全国から580戸が集まりました。当時の様子は。

「全国で戦後に新しくできた自治体は大潟村しかない。干拓は各地にあるが、それは全部既存の自治体に含められたもの。誕生したころは本家なし、分家なし、親分子分もない男一匹の世界。例えば動物園に猿山を作る。あっちこっちから猿を集めて来てどうやってボスが生まれ、群れが形成されるのかを人間をもってテストしたともいえる。毎年学生とともに調査に訪れ、論文を書いた大学教授もいた。人間がどうもめ、変わり、社会を構成するのか。だれもが全く経験したことのない村づくり。そういうスタートだった」

――農協組合長、村長と約30年間務め、肝心の農業の方は。

「水稲中心に畑作をやってきたことはほかの入植者と変わりないが、常務になると田んぼに行く暇がないので、ほとんど人の手でやってもらい、指示するだけ。その後、息子が手掛けるようになったが、八竜の友達からは『お前は選挙やるために行ったんだべ』と冷やかされた」

     減反、当初は・・・

――入植間もなく減反対策が始まりました。

「最初われわれは10ヘクタールでの応募で入植したが、コメ過剰から計画が変更され、5ヘクタールを追加されて畑もやれと言われた。おもしろいもので最初は減反の奪い合い。田んぼの状態が悪かったから。土地が軟らかく手がつけられなかった。そこに作付けしないと10ヘクタールでいくらと金がもらえるので取り合いになった。ところがだんだん土地の状態も良くなり、米価も上がってくると作付けした方がもうかる。一方で畑を作るにはまだ軟らかいし、技術もない。今度は減反は嫌だという風になった」(20041124

     “おとぎの国へ”

「建物は役場と入植指導訓練所があるだけ。マツやポプラはまだ植栽されたばかり。そこに赤い屋根の住宅が並んでいてね。おとぎの国にいるみたいだった」。第1次入植者の妻として昭和42年12月からこの土地で新婚生活を始めた。

  山本町下岩川出身。山形県米内沢市内の短大卒業後、いったん埼玉県出たが、ふるさとに戻り栄養士として学校を走り回っていた。夫の吉一さんは東京農大在学中にオランダの干拓を目の当たりにし、角館町から入植を決意。訓練が修了した1カ月後に2人は一緒になった。

「お嫁にもらいに来た時、ヘリコプターで種まいて、女は弁当を届けるだけでいいと聞いた。現に新聞にもそう書かれていた」と当時を振り返るが、現実はそう甘くはなかった。

  よく「カメ」になった。農機が泥に埋まり身動きが取れなくなることを差す。干拓されたばかりで表面しか乾いていないヘドロの土地は底なし。泥は今でもいくつもの機械をのみ込んだままだという。「男の人たちの帰りが遅いとまたカメになっているなと。すると運転免許があった私が女の人たちを車に乗せて駆け付けた」。

     最先端が失敗に

最先端技術の直まきもほとんどが失敗、とん挫。田植え前には苗を買いに遠くまで出向き、帰るのは夜中。田植えなどとなれば作業員集めに朝から車を走らせた。「2人の生活費は月3万から3万5千円。40人も人頼んできて日払い。農協にはしょっちゅう頭を下げていた」。思い出の曲がある。「星影のワルツ」。みんなで歌いながら作業していてね。いまでも聞くと入植のころを思い出す」と懐かしむ。

 そして「あのころは本当に楽しかった。この先どうなるか分からない人たちの集まり。用水路でフナ捕ったり、集まって酒盛りしたりして。子どもも一緒になって助け合っていた」とも。

 こんなこともあった。44年3月、出産予定日の1カ月前のこと。車で上京途中の夫が福島県須賀川市で生死にかかわる交通事故に遭った。次の日の早朝。まだ暗いのに病院がにぎやかだ。「村から何台もの車に分乗してお見舞いに駆け付けてくれてね。本当にありがたかった」。

     3人の娘を育てて

3人の娘を育てながらの農業、何度も遭遇したピンチを一緒に乗り越え歩んだ吉一さんは3年前に他界した。現在は、娘夫婦、孫2人とともに暮らす。「娘を生んで1カ月で田んぼに出たりしてね。車にいるはずの1歳の子が田んぼの中を歩いていた時は、このままでは農業に殺されると本気で思った。いま思えば良く育てたね。あのつもりでやれば何だってできる気になる」。

「母が休んでいるところは見たことなかった」と言う娘。「でもね、サラリーマンではなくて農業が自分には合っている。農政がころころと変わり、それに左右されてきたけれど、一番いい職業が農業だと思っている」と笑った。(20041123

     何もない土地へ

父・武松さん(69)は第2次入植者。昭和43年11月に二ツ井町荷上場から一家で移住した時、二ツ井小2年。その年の夏休み車で村内を回った。「何もない。どこまでも真っすぐな道路だった」というのが村の印象。何もない土地の学校には十数人の同級生。「みんなすぐに友達になれた」と振り返る。

大潟村は、その2世たちへ除々に世代交代が図られている。自身は金足農高、東京農大、2年間のアメリカ研修を経て就農した。後継者不足に悩む他市町村の農家にはうらやましい限り。ただ、現状を見ると不安要素も。「2世代、3世代が同じ経営体に属し、ある程度は食べていけるだろうが、所得を上げるような複合を考えないとコメだけでは大変になる」。

     生協相手に産直

力を注いでいるのは有機栽培。15ヘクタールの土地であきたこまち、転作大豆、メロンなどを作付け。同世代10人で「オーリア21」という産直グループを10年前から組織、主に生協を相手にしている。「平成5年に大凶作があり、農政の変化も考え、系統出荷して終わりでなく、直接消費者とのかかわりが大事になると勉強会からスタートした会」と説明する。

 村では、生産調整が達成されない現状。国の政策には一言ある。「これまで生産調整とコメ流通の自由化とを一緒くたで考えてきたと思うが、自由化に対してはJA系統、個々の農家も含めて対応しなければならない。そして国が生産調整の機能をしっかり持つべき。米価維持が第一目標でなく、食糧自給力第一に掲げ、他作目を作ろうという意識に方向展開させないと。コメの調整だけに金を使っては消費者の納得しない」。

     ブランド確立を

また村のこれからの農業について、「一見すると『大潟村』というブランドがあって村全体で販売戦略を立てていると思われるが、実際は個々の会社が行っていること。今までの歩みは歩みとして地域ブランドを確立してどう農業を展開していくかだ」と考えている。

農近ゼミや青年会議所などの活動の中で、政治への関心を深めた。村議1期経験した後、今年8月の村長選に挑戦し惜敗。市町村合併で村が自立を選択したことに、「個人的には合併すべき。だが、村民の判断は尊重しなければ。村としては今回の合併は様子見という状況にある」との見方だ。

     気持ちを一つに

   村の抱える課題は山積している。特にコミュニティー活動の低下を懸念する。村が誕生して40年の今、村づくりを見詰め直す時だと。「全国から集まった入植者。さまざまな考えがあってエネルギーもある。まだまだいろんなものを持ち寄れる。村民の気持ちが一つになれば大きな力が発揮できる。大潟村だからこそ本当の理想郷が作れるのではないか」と思っている。

   趣味は剣道、登山。父、母・久江さん(68)=藤里町大沢出身=と妻・美菜さん(35)、長男との5人家族。(20041122

     一家6人で移住

   琴丘町茨島から第3次入植者として昭和44年11月に入村した。母、妻のアエさん(72)=山本町下岩川出身=、中学3年から小学4年生まで3人の子どもたちの計6人での移住だった。

   琴丘では稲作一本の農家だったが、山間部に囲まれた地区では10ヘクタールほどの土地に7戸の農家がひしめいていた。「時代に沿った農業はここではやっていけそうにない」と感じていた。

   「38年11月かな。あれを見てから」とその思いを強する出来事があった。「あれ」とは八郎潟で始まった排水作業のこと。戦後の食糧増産などを目的に干拓された八郎潟で工事が始まったのは32年。堤防、排水機場などを造り、38年から2年がかりで堤防の中の水をかき出した。中央干拓地を囲んだ堤防は延長約52キロ。湖底1万5666ヘクタール余を陸地にした。

   「琴丘のポンプが回るというので見に行ったら、あの大きい湖が渦を巻きながらみるみる水位を下げ、やがて陸続きとなった。機械の進歩に驚き、これからの農業は規模が大きくなければ駄目だ」と実感した。

     ヘドロに苦しむ

   営業開始は45年から。6人グループでの共同作業。国から譲渡されたトラクター3台、ダンプ2台で念願だった大規模農業と向き合った。「最初は苦労したよ。人間さえも満足に入れないくらいぬかるヘドロ。表層30センチ、これを破ると底なし沼だった」と手こずった。

   それでも無我夢中。先のことは分からないが、頑張るしかなかった」と言う1年目は反収(10アール)8俵上がった。「第1、2次入植者はもっと大変だっただろう。1年目2俵、2年目3俵、3年目8俵だから。干拓とはそういうものらしいが、先の入植者はそれまで何だった、という感じだったと言う」。

   人間関係の難しさもあって共同作業は2年目から協業になり、その後は個人に。1年増しで圃場も硬くなり、コメの収量も安定してきた。償還金のこともあるが、余裕も生まれた。中国旅行なども思い出だ。

     選んでいられぬ

   60歳を契機に農業は次世代にバトンタッチ。現在は造園業を手掛ける。「まだまだ遊んでいるわけにはいかないし、もともと好きだった。60すぎてから真剣に勉強、資格を取った」。事業を軌道に乗せるため世話になったのが前琴丘町長の工藤正吉さん。「私より年下だけど向こうでの友だち。やっぱり地元の友はありがたい。いまでも琴丘には山がある。家はもうないが、そこに行くと気が休まる。ふるさとだから」と目を細める。

   自宅では妻、長女夫婦、孫との6人家族。趣味は「造園。それと写真」。これまでの道のりを「琴丘から出て来て15ヘクタールもらって営農できた。息子に経営を移譲し、造園業もできて事故もなくやってこれた。自分でも不思議なくらい幸せだったな」と振り返った。(20041121

     「人に使われず」

   八竜町の農協議員から大潟村へ。新天地にやって来たのは「人に使われるのが性に合わなかったから。もう完全にこっちの人」と笑う。

   生家は同町大口の農家。能代農高を卒業後、神岡町にあった畜産講習所経て浜口西部農協に入り、勤めはその後統合で浜口農協に。約9年間組織に属していたが、「一生懸命やろうとしても上司の考えと合わないと抑えられてしまう」と窮屈さを感じていた。

   頭の中には「農業」の文字が漠然とあった。そこに「どうせやるんだったら大潟村に行きたい」と言う妻のトヨ子さん(58)=同町大谷地出身=の一言が後を押した。

   大潟村に第1次入植者56人(戸)が入ったのは昭和42年11月。43年に初めてコメの国内自給が達成され、その後コメの余剰が発生、45年には減反政策(生産調整)が始まる。最終の第5次入植者120人(戸)の1人として入村したのは49年11月だった。同町からは120人が入植に応募したが、実際にかなったのは自身を含め6人だったと記憶している。

     安全策を選んで

   両親、妻、幼い長女との5人での新たな出発。与えられた15ヘクタールでは8ヘクタールにうるち米、2ヘクタールに畑作扱いだったもち米を植えた。田植えは機械半分、「生活がかかっているから間違えられない」と安全策で手植え半分。干拓からすでに時間が経過していたこともあって「1年目からあたり前に取れた」。ただ「土壌にちっ素分が多くうまくなかったけど」と振り返る。

   八竜時代、農業は手伝い程度。でも逆にそれが良かったとも考える。大規模圃場に最新の機械。「従来の経験は関係ない世界だった。だからすんなり入れた」と。

     過去を引きずる

   国の農業政策にほんろうされてきた大潟村。減反賛成、反対に二分した歴史がある。「私の生き方は、法治国家である以上は法を守るべき。義務を果たさなければ権利は生じない」ときっぱり。食管法の改正により「作る自由」「売る自由」が認められた現在、ヤミ米も消減。「法が変わればそれに基づくのは当然。だが、まだ過去のキズは癒えていない。何となく引きずっている」。

   平成7年から5年余にわたって東洋一の施設を誇る村カントリーエレベーター公社の社長を務めた。これからの村の農業について「米価はまだ下がる。コメ一辺倒ではだめだ。次世代も育っている。労力を園芸などに振り分けた複合経営が求められる」と語る。現在は、作付けする12の水田の半分はJAS有機にし、付加価値の高いコメ作りに力を注いでいる。

     後継者に目細め

   昨年、長男が東京の会社勤めから「農業をやりたい」と村に戻った。「まだまだ手伝い」としながらも「手抜きできなくなった」と目を細める。

   母、妻、3人の子どもとの6人家族。趣味は狩猟、船釣り、盆栽。適度に余暇を楽しんでいる。(20041120







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