COLUMN

 コラムって程じゃないけど、普段ふと思ったことなんかをそこはかとなく書いていきます。要は、前にあったTIARYの代わりです。日記を書く甲斐性はないため、不定期更新。

last update 2004-5-2

火の鳥 (2004.5.2)

 NHKでアニメシリーズが始まったのもあるし、ちょっと火の鳥についてのたまってみる。
 手塚治虫の「火の鳥」は、小学校の頃からのバイブルであった。つまりは、今まで生きてきた中で自分の人生観に一番影響を与えた読み物が「火の鳥」ということになる。読んだことのない人は、タイトルで見て動物もの、とか思う人もいるようだが、全然違う。それに関しては、酒見賢一さんという人が書いた解説が、物語の内容を端的に現していると思うので、以下所々抜粋する。
 「『火の鳥』は一言でいうと生命をテーマにした長い連続した物語である。主人公と呼ぶべきか、全編の案内役である”火の鳥”とは宇宙に遍在するありとあらゆる生命の化身である。”火の鳥”とそれにかかわる人間を軸にして、手塚治虫の生命論が語られていくというものである。」「物語は、幾つかの編に分かれている。”火の鳥”をめぐって同一のメインテーマが繰り返し奏でられ、登場人物たちのある者は永劫に近い時間のあちこちに輪廻転生してあらわれる。」「『火の鳥』は手塚治虫が自らライフワークと呼んでいたように、手塚治虫の集大成的な仕事である。残念なことに、結局、目に見える形で完結することはなかった。伝え読むところによれば、手塚治虫の構想では、『黎明編』『未来編』『ヤマト編』『宇宙編』というように、一方を古代から描き起こし、一方を超未来から描き起こし、古代は時間を少しづつ下がらせて(主に日本を舞台としている)、超未来は徐々に遡ってゆき、時間軸に沿って過去と未来が交互に描かれる構成であり、最後は両者が現代においてぶつかり、『現代編』となり完了するという予定であった、という。壮大無比の大河ロマンである。」「『火の鳥』は人間の愚行、罪の繰り返しの不毛を執拗に描き抜こうとする。それを描くことによって、また豊穣な生命のありようを描くことも出来たのである。」
 また、中平まみさんの解説も抜粋してみる。まさに同じ印象を抱いているので。文章力の拙い俺の代弁者役として。
 「ある日、『黎明編』を読んだら、もう全巻読破、せずにはいられなかった。あまりにも深く、信じられないぐらい巨大で、間口がどうしようもなく広く、熱でも出してしまいそうなくらい重く、呆然とするほどヴォリュウムのある、このお話を。肉眼では不可視な、ミジンコやプランクトンを観察する顕微鏡、小さいアリンコを追う虫メガネ、遠くの景色を呼び寄せる双眼鏡、もっと遠い夜空の星の輝きをとらえる望遠鏡、そうして果ては、人工衛星や宇宙船からこの地球を眺めるような、ミクロからマクロ、ミニマムからマキシマムにいたるまで、手塚治虫のペンは如意棒さながら拡大し、縮小し、縦横無尽に(まるで氏自身が神か火の鳥みたいに)空恐ろしいようなスケールで果てることのないメビウスの環の如く世界や人間を描ききってみせるのに、わたしは、自分自身がその時代時代に生き、体験し、何回も生まれ、生き直したかのように、その途方もない時間の流れを味わわされてしまうのだから・・・・・・どっと、疲れるわけである。が、普段、本当に卑近な、小さな、身近なことでもって、手一杯精一杯になっているわたしが、悠久、壮大、久遠、といったイメージの大画面のなかで、哲学者のようにならせられる一時、といおうか。」
 要するに、一言では語りつくせない、巨大な物語である。ここまで書くとなんだかひどく小難しい話に感じてしまうかもしれないが、物語自体はそんなに難しいことはない。小学生のときに普通に読めたぐらいだし。ただ、読み進めていくうちに、いつのまにか宇宙や生物などについての哲学的な話に巻き込まれていってるのである。小学生にも読める平易な書き方で、下手な学者が閉口するほどの深遠な内容の話を表現したのは一種の奇跡だと思う。軽い気持ちで読んでいるのに、気付けば考えたこともない思考世界の中にいる。読むたびに新しい発見があるのはこの辺に理由があるのかもしれない。自分が成長するにつれ、もともと描かれていたのに前読んだときには気づかなかった要素に気付いていく、という。もちろん、それでいて、ストーリー自体も単純にとても面白いのは言うまでもない。
 「火の鳥」は、読む順番も選ばない。各編で繰り広げられる物語の一つ一つが、魅力的なキャラクターによるこれまた魅力的なストーリーで、一編だけとっても充分楽しめる。ただ、それが各々時代の異なる各編を読むことにより、各キャラクターの生まれ変わりや、歴史における同じ誤ちの繰り返し、といったようなつながりを感じることができ、面白さはさらに倍増する、という寸法である。
 「火の鳥」には、すべてが詰まっている。これを読んで少しでも興味を持ってくれた人は、ぜひ、気になった編から手にとって読んでみてほしい。順番どおりに読む必要すらない。すべての話は、メビウスの環状につながっているから、順番はあまり重要ではないのだ。アニメでもいいけど、ちょっと見た感じだと若干はしょってあるから、できれば漫画で読まれることをオススメする。もし、面白さを感じることができなかったら・・・・・・ゴメンナサイ。

イタくもカユくもない女 (2003.2.14)

 第1回のテーマとしてこれを選ぶのは多少抵抗があるが、まあ致し方ない、俺なんてこんなもんだ。今回のテーマは、女性観である。俺は、イタい女が苦手である。これには2種類あって、1つは、本当の自分と全然違うキャラを演じているがためにイタく見えてしまう女。言い換えれば、松浦亜弥系である。もう1つは、本当に頭がイタい女。よく知らないが、小倉優子などはこれに属するだろうか。どっちが救いようがあるかといえば、おのずと前者。松浦亜弥は、普段の姿をみたら、ひょっとするとむしろ好きなタイプかもしれない。でも、ああいうキャラを演じている以上、やっぱりイタいんである。テレビに出ているのを見ていると、無意識に眉間にしわが寄っている自分に気づく。
 そして、カユい女。これは、自分を演じている女。まあ多かれ少なかれ人間は自分を演じているのかもしれないが、では言い換えて、ちょっと無理のある演技をする女。人に好かれたい願望が強い女によくある現象である。これはまあ、イタい女よりはましなんだが、やっぱり一緒にいると疲れてしまうだろう。俺は、いっしょにいるだけで体力や気力を奪われる女性はごめんである。
 結果、俺が求めるのは、イタくもカユくもない女(略してイカ女)、ということになる。飾ることなく、等身大の自分で勝負する女。空気のような女、というのに近いか。これは、いてもいなくてもわからないという意味ではない。事実、空気がなくては死んでしまう。使い古された癒し系という言葉があるが、今まで癒し系といわれてきた優香や井川遥などはやはりイカ女なのかもしれない。この女性達に共通するのは、一緒にいて疲れないということ。これはおとなしいのとは違う。もちろんおとなしいイカ女もいるだろうが、やかましい女だって、イカ女たり得るはずである。おとなしかろうがやかましかろうが、等身大で生きてる人とは一緒にいても居心地が悪いわけはないんである。ただ、やかましすぎると今度はイタい女に属したりするのだけど。
 この考えから、俺が男に合わせる女が嫌いだ、ということが当然に導かれるだろう。なんらかを男に合わせる時点で、もはやそいつは等身大ではない。カユい女である。こういう人は、やはりいっしょにいるとそのうち疲れてくる。だから、相性というものが大切なのだ。俺ももちろん人に合わせるタイプではないので、等身大の女とは、相性が悪いと、当然ぶつかることになる。等身大で生きていて、相性の悪くない女、これすなわち俺の理想の女である。
 相性にもいろいろある。内面的なものの他にも、酒が好きであるとか、音楽やお笑いの趣味だってそうである。クラシック音楽が好きである必要はないが、嫌いでは困るし、お笑いは好きだけどダウンタウンはだめとかだと、いつか行き詰まることになるだろう。細かいようだが、こういうことは、長く付き合っていく上では意外と引っかかってくるものだ。
 タレントで言うと誰か。芸能界は虚構の世界なので、芸能人であること自体ある意味カユい女なのかもしれないが、そんななかでも俺にとってのイカ女を何人か挙げると、今なら島谷ひとみ、仲間由紀恵なんかがそれにあたるかもしれない。まあこれはしょっちゅう変わるのでこの先どうなるかもわからないが。
 まあこんなところか。目的もなく、なんとなく書いたわりには長くなった。こんな風に、このCOLUMNのページは、みんなが読むか読まないかをあまり考えず、ただ書きたいことが出来たら書くというエゴ満載のページです。最後まで読んでくれた人、自分勝手な文章でごめんなさい。