最終更新 2005/12/28

飛砂に挑んだ先人たち
能代市史に書かれている

 「能代砂丘がいつごろ出来たのか?」 『能代市史特別編「自然」』39ページの「3.砂丘の形成史」によると、11世紀後半の平安時代終わりころから16世紀半ばまでは飛砂の休止期があったようだ。
 江戸時代に入り、町が飛躍的に拡大しているから、飛砂があったとしても人々の住環境を脅かすほどではなかったと思われている。
 しかし、江戸時代の中ごろ、18世紀に入って間もない正徳から享保年間に、能代の町人越後屋太郎右衛門・越前屋久右衛門が砂留めの事業を始めた。そのころから飛砂が激しさを加えたのだろう。清助町や鍛治町の町屋が飛砂のために埋もれるという被害があったという。

 また同書(『能代市史特別編「自然」』)586ページによると、
 「能代町を飛砂の害から救った砂防林の造成は、18世紀初頭の正徳・享保のころからである。能代の有力問屋越後屋太郎右衛門と越前屋久右衛門が始めて、宝暦のころから鈴木助七郎・白坂新九郎・賀藤景林・同景琴へと引き継がれていった。彼らが手がけたところは、現在では図環-28に見える老齢林のわずかなところしか残っていない。大正4年、能代公園の拡張で松林が伐られ、同じ年に能代工業学校の校舎建築で伐られ、第二次大戦中には松根油の生産で林縁が伐られ、第一次大火(昭和24年)後の墓地公園や住宅地の造成などで伐られていった。砂留山から南方の、大内田村・河戸川村・浅内村に所属する砂防林も、藩政期に長崎の袴田与五郎、河戸川の大塚甚十郎、浅内の原田五右衛門らの尽力と栗田定之丞の指導で相当の面積があったが、大部分は住宅地に変わっていった。
 もちろんこのような先人たちの業績が今日の砂防林に繋がっていることは論を待たないが、現在の砂防林は大正期以降の成立というべきものであろう。

※ 図環-28と同様の地図をWordで作成し、「風の松原の地図」にPDFファイルで掲載しました。

 
風の松原案内所のパネルによ

江戸時代以前、海岸一帯は飛砂に襲われ、家屋や耕地が埋没、さらには河口が閉塞するなどの被害を受け、現在では想像を絶する惨状であったことが古記あるいは口碑によって伝えられています。

このような状態では町は発展しないと、1670年頃、医師長尾祐達が海岸砂留策(防止工事)を唱え、実施しましたが、祐達の死後も彼の熱意は、町の人々に受け継がれていきました。

1711、回船問屋越後屋(渡辺)太郎右衛門、庄屋村井久右衛門の両名は、自費で松の植栽を行いました。その後、越後屋家は1800年まで三代にわたり、村井家では1764年まで両人の意志が引き継がれ、約80万本の松を莫大な費用をかけて植栽したといわれています。

砂防林造林には両家だけではなく、一介の武士や多くの無名の町民も力を尽くしました。寛永9年、秋田藩士栗田定之丞は砂留役兼材取立役として海岸一帯に植栽。その後を受けて秋田藩木山方、賀藤景林は天保4年(1833)までの多年に渡り、76万本の松苗を植えさせ能代町民を飛砂の被害から救ったといわれています。
栗田定之丞 像 加藤景林 像

大正時代の飛砂との戦い
能代市史に書かれていること  『能代市史特別編「自然」』586ページによると、「明治維新後、政府の林業政策は混沌とし、砂防林は荒れるにまかされ、林相は衰微の一途をたどった。富樫兼治郎『日本海北部沿岸地方における砂防造林』によれば、明治期に林内でハマナスの根を乱掘した結果だという。ハマナスはクロマツの根付きを助ける役目をしていた。
 その結果、大正期に入ってにわかにクロマツが飛砂に立ち向かう力を失い、枯死・倒木するものが激増した。写環-42・43はその一場面だが、クロマツの皮は剥がれ、倒れている鳥居は大森稲荷神社のものである。図環-28を見れば大森稲荷神社の西方から南方にかけて、昭和戦前期の造林地が広く見える。おそらくこの範囲が飛砂に襲われ、被害を受けたところであろう。
 大正期の飛砂は、写環-42・43の写真でその激しさを想像することができる。前者は大正9年、後者は同12年と記録されているが、特に前者のクロマツの密生状態に注目したい。これは拓伐がほとんど行われていないこと、倒木の整理も行われていないことがわかる。また、幹の太さから見ると植え付けてからそれほどの年数は経っていない。明治期の植栽であろうと思われる。政府は植栽を行ってもその管理に不十分な面があったのである。町民が林内に立ち入り、落ち葉・枯れ枝・ハマナスの根など残りなく取ってしまい、クロマツの生育に支障を来したという。そこで大正8年にはこの後谷地国有林の管理を能代港町に委ね、能代港町は森林監督官を1人置いて、付近住民の入林を厳しく取り締まることになった。その効果が現れる前に、飛砂の被害を受けることになったのである。
「風の松原フィールドガイド」(山本農林事務所作成)に収録された写真
風の松原案内所のパネルには「飛砂に埋もれた家」と書かれているが、場所・年代不詳
「能代市史」写環-42と同じ写真か? 「能代市史」写環-43と同じ写真か?

昭和になってからの砂防林造成
 昭和になってからの砂防林造成については、平成13年3月東北森林管理局 米代西部森林管理署から刊行された『風に学んで 能代海岸砂防林の造成の記録』に詳しく述べられている。この本は元能代営林署職員であった鈴木重孝氏が昭和30年代に撮影した写真をもとに作成されている。この本の写真を使った「森を作るということ」というホームページがあるので、参照していただきたい。そのホームページはきこりのホームページの中に入っている。詳しくはわからないが林野庁かその外郭団体のページではないかと思われる。2015年現在はここに入っている。