旧版の「文学に表現された風の松原」のページ 最終更新 2006/4/10
風の松原の中にある「いこいの広場」入口にこの立て看板がある
 この看板の裏面には次のように書かれている。

明治の文豪幸田露伴による「遊行雑記」によると露伴は明治30年(1897)7月、東北紀行の旅に出ている。その途中、7月13日、露伴は能代の大町の村井旅館(現竹内旅館の位置)に一泊、翌14日朝には馬上の人となり、防風林(現風の松原)を通り抜け、現八竜町大口を目指した。その際の感慨を後に「遊行雑記」の中で述べている。本碑文はその文中からの抜粋であり、その題名は文中の語句からの仮題である。

   幸田家系譜(省略)

        協賛 能代市制60周年記念
        平成12年(2000年)10月18日建立 能代歴史ロマンを語る会

2006/4/4

 私はこの看板とその裏面の説明を信じていた。ところが能代市が2006/3に50,000部印刷した 「能代海岸砂防林 風の松原」 というパンフレットに、上の看板とは別の文章を載せ、<幸田露伴:遊行雑記 明治30年(189810> と印刷していたことが気になって、秋田県立図書館から『露伴全集第十四巻』(昭和26年6月5日発行:岩波書店)を取り寄せて見た。「後記」の中に

○「うつしゑ日記」「遊行雑記」は明治30年十月七日より二十四日に至る記事で、前者は太陽の同年十一月号・十二月号に、後者は三十二年三月号・四月号・七月号に載った。・・・

と記されている。だからパンフレットの10月は正しい。明治30年は1897年だから、こちらは校正ミスか。
 この機会に『遊行雑記』の原文(といってもパソコンで旧字体は無理なので新字体表記に改めたもの)と、現代語訳を書いてみたい。幸田露伴は1947年に死去しているから著作権には触れないのではないかと思う。原文の一段落ずつをたどっていきたい。

  遊行雑記 (原文 新字体 ルビは表記できず 遊行雑記 (kappei訳)











鹿





 このあたりより能代川を左にして下る。此の路の景色
いと好し。川は激しき流れならねど、水清くして悠々逼ら
ず、それとも知れぬ樹々の色深く紅葉せるが、岸よりさ
し出でて影を浸せる、まことに錦をさらすかと見ゆ。小繋
といふところを過ぎて、琴の音橋とやらん、名さへゆかし
く耳に響く橋のあたり、岸のさまさへただならず、書のや
うに麗しく我が眼には映りぬ。川やうやう大きくなれば、
また帆舟の行き交ふもひとしほ趣きあり。ここの川舟に
は何の風を好しとするぞと馬丁に問ひたるに、あゆの風
なりと明らかに答へたり。あいの風とは云はで古き詞を
其のままに正しく、あゆの風と答へたるもいと嬉し。夜に
入りて雨やうやく晴れたれど寒さいよいよ加はりたれば、
憚り無く濁声を掲げて詩を吟じ歌を唱ひ、(※わずか)
に胴の(※)ひを忍ぶ。能代に着きたる時は既に八時を
過ぎたりければ、餓えと疲れと寒さとに眼瞼も凹みたら
ん心地したるが、例の一陶の酒、数々の下物、秋田の
習ひの貝焼までを得て、やうやく心強くなりて睡るを得
たり。
 この付近から米代川を左に見ながら川を下る。この道の
景色はとても素晴らしい。川は激しい流れではないが、 









 十四日、雨は已みたれども天猶陰りて雲乱れ騒ぎ、
をりをり日の光の洩るるかとすれば又忽ち暗くなりて、
昨夜の名残の風も未だ全く衰へず、何となく物悲しく心
安からぬ日なり。雄鹿の嶋を廻りて秋田に出づべきか、
八郎潟の畔を行きて御座が岬など経べきか、いづれの
路を取りたるがをかしからん、潟を右にして車を走らさん
は、身を苦めずして而も浅からぬ興を覚ゆべけれど、
島に遊びて馬を馳せんかた、憂きことはあるにせよ猶
面白さも深かるべし、一日二日は悋むに足らず、此地ま
で来りながら奇峭雄峻を以て名ある雄鹿の嶋を探らで
已まんは、後に至りて口惜しかるべしとて、二人して昨
夜議り定めたるなれば、天のさま好からずとは思ひなが
らも、人の心を挫かじと何知らぬふりして立出づ。人もま
た予が心を挫かじとて何知らぬふりをなせるなるべし。
・・・
 14日、雨は止んだけれども空はまだ曇っていて、雲の
流れが早く、時々日の光が差し込んでくるかと思うと、
たちまちのうちに真っ暗になったりして、昨夜の嵐を思い
出させる強風もまだ少しも衰えず、何となく物悲しく不安
な日である。男鹿半島をまわって秋田に向かうのがよい
か、八郎潟のほとりを進んで、三倉鼻を通るのがよいか、
どちらの道が趣が深いだろうか。
 八郎潟を右に見ながら車(自動車?汽車?)を走らせ
るのは、難儀しないで景色の素晴らしさを見ることができ
るだろうが、男鹿半島を馬でまわることは、辛いこともあ
るかもしれないが、面白さも深まるだろう。1〜2日延びる
ことを惜しむ必要はない。この土地まで来て珍しい奇岩景
勝地で有名な男鹿半島を探訪しないで終わってしまうの
は、後になってからも残念だろうと、昨夜二人で相談した
ばかりなので、天候がよくないとは思いながらも、相手の
心を挫折させてはならないと、天候には気付かないふり
をして出発した。見送りの人たちも、私の気持ちを挫いて
はかわいそうだと思って知らない振りをしたのだろう。



宿










 旅亭の前より馬に打乗りて、先ず大口というところを指
して行く。能代の市街を出づると直に、砂いと深き松林に入
る。心無き人は空に看ても過ぐべし、知るものは知る能代
の防風林は是なり。羽後の海に瀕める地はおほよそ砂浜
のみにして、船を繋ぐべきところもいといと乏しきが中に、
分けて雄鹿の嶋より北には唯一つの能代あるのみなる
が、其能代も能代川の末の川港にして、頼もしき碇泊場
ならぬ上、むかしは風すさまじく烈しくして、水の上はもと
よりの事、陸の住居さへ安きを得ざりしなり。其故を如何
にといふに、礙ふるものなき日本海を渡り来る風の直に
此方に衝き当ることなれば、其勢の猛きこと喩ふるに物も
無きほどにして、石礫を飛ばし土砂を捲き、天を晦うし、地
を撼かし、行客を倒し民家を埋め、人をして如何ともすべ
からざるざるを嘆ぜしむること、秋冬は一ト月に二度三度
のみならざりしを以てなり。然るに加藤清右衛門といふも
のあり。秋田の木山方吟味役なりしが、これを憂うるの余
りに、海浜一帯数百町歩へ松を栽ゑて土砂の飛散を防ぎ
止めんことを思ひ立ち、十一年の長き間松苗を栽うること
を怠らず、終に林を成すに至りしかば、流石の強き風も然
までは暴れ立つことを得ずして、能代の町の民衆も砂に
埋めらるること無く、道行く人馬も心安く過ぐるを得るに至り
しものから、従つて土地の栄えを増すに及びたりと云ひ伝
う。事は遠からぬ文政年間のことに係り、林は眼の前なる
此の林なりと思へば、砂の白きを踏むにつけ梢の翠なるを
看るにつけて、そぞろに其人を懐かしみ其功を高しとする
の情に堪へず。落葉掻く賤の児等が鄙びたる節をかしう長
閑に唱う声を聞きつつ、鞍の上に独り人の力の大なること
を思ふ。此人猶此他に不毛の地を拓きて杉林となし、また
秋田六郡の山林に関する書七拾余巻百余図を編製したり
といふ。其志の篤くして意の誠なる、企て及び易からずとい
ふべし。
 


沿










 やがて松原を出でて海に沿ふて進む。見渡す限り真砂
地遠く打続きて、磯打つ浪の雪と砕け花と散るほかには
眼に入るものもあらばこそ、家無く人無く樹も草も無く、海
人の小舟の沖行くも無く、路さへ有るか無きかなり。蓋し
雄鹿は大海の中に突き出でたるのみならず、背後には
八郎潟を負ひたる半島にて、ほとほと離れ島も同じこと
なれば、それに接ぐ路の美しき大道ならざるべきは然も
あるべきことなるが、さりとてはまた淋しきに過ぎたる光景
かなと思ひつつ、四里余り五里ばかりが間ほど更に変ら
ぬ眺望の中を行くに、忽然として萱葺の家の棟四つ五つ六
つ砂丘の彼方に見ゆ。大口に着きたるにやと問へば、大
口は既疾く過ぎて神谷に着きたるなりといふ。さては馬牽く
男の一向に近きを貪りて真の路を取らず、大口にも立寄ら
ず、海沿ひを馳せさせしなるべしと悟りて、来し路の路とし
も覚え難きさまなりし所以をも解き得たり。
 
 馬も此地にて換ふる筈なり、昼餉も此地にて為さでは叶
はぬなれば、馬牽きの、此方へ入らせ玉へと云ふまま、馬
を下りて只有る家に入る。家は土間のみ徒に濶くして、す
べての物怪しげに黒光りせる真の賤が伏屋なり。大なる
爐に履のまま足を踏み込みて、何にもあれ食ふもの疾く持
て来と促し立つるに、飯は冷飯なり、汁も膾も魚無く菜無け
れば力及ばずと、主人の妻の侘びしげ訴ふ。あらもどかし
や、今日は湯本まで行き着かでは叶はぬなれば、時をば
空には過し難し、よしよし冷飯持て来、鍋持て来、鶏卵あ
らば其を有るほど持て来と罵り促して、取る手遅しと鍋を爐
の上の自在鍵に打掛けて、自ら鶏卵雑炊をつくる。宿のも
のどもは眼を張りて、我等が為ることの手早きを驚き視る
もをかし。兎角して腹を膨らしける間に、馬も鞍装ひして此
家の男等に牽かれ出づれば、いざとて再び馬に打乗る。
 


 直接 風の松原を詠んだものではないが、風の松原周辺には以下のような文学碑や歌碑がある。
俳星碑
俳星碑を遠くから眺めるとこうなっている 碑文の文字の解説板
 この碑は、発行所を能代市に置く全国的な俳句の同人誌「俳星」の700号を記念して建立された。
「俳星」ゆかりの人たちの句を並べ、下の横長の碑版には正岡子規が島田五空に宛てて「俳星」と命名する旨を述べた手紙を刻んでいる。碑文の俳句の文字は右の解説板に記入されている。
   <場所>能代公園の奥、景林神社の手前右側、米代川が広々と見えるあたり。
   <建立年月>昭和52年9月

能代公園の文学碑
 風の松原に隣接する能代公園には、このほか石田三千丈、高階梅子、嶋田五空、石川理紀之助の歌碑や句碑がある。
石田三千丈  (俳星 編集者)
  秋天やあきつの羽にある韻き  三千丈

<場所>

 能代公園の左側の道路を登り、能代一中を目指して進むと池の前に出る。更に一中の方へ50メートル位歩いた右側に大きめの句碑が見える。

 三千丈の県文化功労賞受賞(昭和42年)を顕彰し「俳星」ゆかりの人々によって昭和45年9月建立。

高階梅子  (歌人 婦人活動家)
 日本海の潮鳴たえぬ砂丘にとぼしく咲きて紅きはまなす 梅子

<場所>

 石田三千丈の句碑から更に一中側に進み、右手公園に登り西(海)の方向に進むと先ほどの俳星碑が立っている。俳星碑の前から一中校舎の方角に100m進むと、そこに歌碑が建っている。
<建立年月>昭和49年8月

嶋田五空  (俳星生みの親)
  花をうつ暁鳥の翅かな  五空

 五空は19歳で能代活版所という印刷業を、翌年は「能代商報」という新聞を創刊。また本家の蔵書を中心として私立能代図書館を開き、新聞販売業、書店を始めるなど、文化活動、政治活動を次々と始めた人。
 「俳星」は明治三十三年に当時26歳だった五空が創刊した。近代俳句を代表する正岡子規門下の一人として、高浜虚子や河東碧梧桐、石井露月(秋田県人)らと並ぶ俳人である。十代で八竜町の佐々木北涯に師事、北涯と五空は共に子規門下となる。子規の高弟であった石井露月が郷里の雄和町に帰って医師になったときに露月にも師事し、「俳星」を創刊すると全国から投稿が集まるようになった。

<場所>
<建立年月>昭和45年5月 「俳星」600号を記念して同人たちの手によって建立された。