作品内容 最終更新 2006/9/27

  大開浜砂防林について =津波から落合地区を救う=  鈴木重孝   (北羽新報 昭和58年7月13日と15日に掲載)
     日本海中部地震により、海岸砂防林は津波の大きな被害を受けた。国有林について申せば、後谷地 国有林は幸いにして被害は軽微であったようだ。大開浜(落合)の国有林は砂防林の生命線である前砂丘が寸断され(写真1)41ヘクタール全部が津波の直撃を受け、うち10ヘクタールのクロマツは根こそぎ倒れ倒木寸前である。低地の6ヘクタールには海水がたまり沼の形相を呈している。

 津波の去ったあとの調査では、地盤高5メートルの所のクロマツの立木のさらに3メートルから4メートルの高所の漂着物があり(写真2)、この写真から判断して津波の高さは約10メートルと推定出来る。もしこの大開浜の砂防林がなかったならば、落合浜のサニーランド、その他の旅館や各種の施設が10メートルにも及ぶ津波に襲われ、跡形もなくなっておったろうと、戦慄をおぼえる。 
 落合温泉の冠水は、津波による米代川の増水が流れ出したものと推察する。
 
 海岸砂防林は、飛砂や潮風から能代市を守るばかりでなく、何十年、何百年、何千年に一度あるであろう地殻の変動による大津波から砂防林によって能代市を守ろうという偉大なる計画も砂防林に含まれておるのである。はからずも今回、日本海中部地震の津波を大開浜砂防林によって防ぎ得たことは、砂防林の目的を一応果たしたものと思う。

 能代営林署当局の被害及びこれからの復旧に要する膨大なる予算と、長年月を要することと思うが、今後の復旧には新しい知識力を導入し、今までより以上の強固な砂防林を速やかに修復されるようお願い申し上げるとともに、能代市民も35年の長年月と膨大なる経費を投じて成林した砂防林によって、今回の津波から被害を防げたことに感謝し、砂防林に対する認識を一層深め、官民一致して砂防林を守り育てなければならないと痛感する。

 後谷地国有林については、能代市民は良く理解されているように思うが、大開浜についてはあまりに知らないところが多いように思うので、今までの経過をたどってみる。

<大開浜の経過について>
 昭和8年、農業土木事業によって施業を始めたこの大開浜の事業は、渡部六七八氏(渡部伯文氏のご尊父)がいなかったら、落合部落は土地を合併することが出来なかったろう。渡部氏は昔からこの地方を開田した人で、落合部落には随分力のある人であった。しかも真に能代を守るには側面より守らなければならないとして大開浜の砂防を計画した。放牧地も一部編入し、工事地に含めた。大開浜海岸砂防林については、かげに渡部六七八氏の功績を忘れてはならない。
 当時営林署の担当官の計画は、平坦地(当時の落合浜は舌状丘が一ヵ所あったが大体平坦地であった)のまま砂丘頂の角度などは考えずに、そのままのところに人工砂丘を3本入れる計画であった。

   たまたま富樫兼治郎氏が能代に来て、この計画は間違った計画であり、平坦な土地に同一の高さの砂丘を造る事は、第一の砂丘が破壊されると第二、第三の砂丘もほぼ同時に破壊されることになるので、後方の砂丘を高く、第二はそれより低く、第三は第二より低く、それぞれの砂丘頂が海上で結ぶ角度は2度前後にもっていった方がよいではないかと進言したが、能代営林署の担当官は自分の持論を譲らず、抗論になった。 富樫氏はあまり強くもいわず引き下がったが、その優劣が大東亜戦争によって証明された。

 大開浜は非常に植栽の成績が良く、八分どおり完成に近づいておったが、後谷地同様戦争の犠牲となり、後谷地以上の被害を受け、ほとんど全滅に近いほどの様相を呈したのである。わずか米代川河畔に5アールくらい残ったくらいであった。その原因は富樫氏の言われたとおり、第一砂丘が破壊されると同時に第二砂丘、第三砂丘も破壊された。一口でいうならば、同時に全砂丘が破壊されたことになる。        
 
     
     
     
     
 富樫氏の説のとおり、砂丘頂に傾斜角をつけておけば第一砂丘が破壊されても第二砂丘で食い止め、時間をかせぎ得て、こんなにひどい被害にはならなかったろうと富樫氏の論の正しかったことと、先見の明を痛感する次第である。

 戦後23年より鋭意砂丘の復旧に努力したが思う通りに進行しない。復旧計画は、まず前砂丘の位置を決め、汀線(ていせん)から砂丘頂を結ぶ線を2度と決め、各砂丘の高さを決めた。砂丘は3本入れることにする。この2度の線で行くと一番後方の砂丘は6メートルの高さになる。平坦地から6メートルの砂丘を造ることは大変なことである。仮に1年に1メートルの高さの砂丘を造っても6年はかかる。それに果たして汀線に波によって打ち上げられる砂の量がどれだけあるのか見当がつかない。まず出来るだけ計画通り実行することにした。

 だが問題はそれだけではない。図のように舌状丘が2ヵ所、低地も2ヵ所あり、どちらから先に手をつければ良いか迷ったが、まず整地することが先と心を決して舌状丘を削り取り低地に運ぶことにした。当時は全く機械力がなく、モッコ担ぎである。これではどうにもならないので、仁鮒事業所からレールとトロッコを借りて、砂運びを行った。モッコ担ぎよりはよほど進行する。だが、目に見えるほど山は低くならないし低地も盛り上がらない。

 秋になると堆砂垣のクイ打ちが始まる。この繰り返しがまる8年かかる。南(米代川)の方の堆砂垣は予定通り進み、順調に砂丘が出来るが、北側の方は地形が不規則なためになかなか予定の高さに砂丘が出来ない。原則としては砂丘頂は水平でなければならないので、秋田景林局の治山係長の荒井氏に相談をした。返事は例外ということもあるので、段を付けて完了としましょうということになった。その間後方の田畑は冬期間の飛砂に埋もれ、雪に消え、ともに田畑の砂除けをしなければならない状態であった。

 舌状丘の方はなかなか進行しない。8メートルくらいまで切り取ったあと、北側の舌状丘を覆砂工を行い、全面スノコを張り付け、アキグミを植え付けた。東側の舌状丘は7メートルくらいまで下げ、砂丘へ連続させる。

 問題なのは低地帯である。舌状丘から運ばれた砂で大分高くなったが、まだまだ予定の半分も盛り上がらない。舌状丘はそれぞれ固定したので砂の取りようがない。あとは自然にまかすより手が無い。だが、自然にまかせておけばせっかく切り取った舌状丘が、また大きくなるばかりである。
 季節風によって飛んでくる砂をいかにして低地帯に平均に堆砂させるかである。その方法として低地帯に麦ワラ工を1メートル間隔で横に並べて施工したが、思ったより飛砂を捕捉することが出来ない。また1メートルのスノコ立工を試みたが、麦ワラ工と同じである。その原因は汀線の生草限界(草の生える所)の所に年々春の雪解け水や台風による米代川の増水により運ばれて来る漂着物が堆積して堆砂垣の作用をする。これが後方に砂を飛ばさない作用をしていることである。

 砂の生産は波によって砂が運ばれ、引き波によってまた砂は海に運ばれるが、引き波の際、一瞬波が停止する。この停止することにより、運ばれてきた砂の一部がその場所に置き去りにされ、その置き去られた砂が風によって後方に運ばれるのである。この作用を妨げているのが、漂着物の堆積である。砂を後方に運ばせるのにその漂着物の堆積を取り除けばよいのであるが、万一台風などの大波が打ち寄せた場合は、一挙に大波が低地帯を襲い大被害を起こすかもしれず、自然の節理にまかすより外ないと思われたので、そのままにして後年、その箇所に防浪編棚をすることにした。
 
(ここから7月15日 北羽新報)       
 
 完了した堆砂地の後方は次第に安定し、砂草など繁茂してきたので、いよいよクロマツの植栽を始めたが、一冬でほとんど枯死する状態が続いた。その原因は大開浜は面積が少なくまた奥行きもあまりなく、ただ広い砂地にただ一本の砂丘がちょこんとあるだけで、真冬の砂あらしから三年生のクロマツを守ることは至難の業(わざ)である。後谷地国有林は後方に有力な林があって援護してくれるので、クロマツの苗木も活着もよく生育も早い。

 大開浜の後方に有力な林があればと思っていたところ、後方の原野は市有地であることが分かり、早速市長(その時は柳谷市長であった)に会い大開浜の事情を訴え、市有地に市の事業でクロマツを植栽して、いわば援護射撃をしてくれなければ、大開浜の海岸砂防林工事は打ち切りしなければならないと説明した。市長は、能代市のための工事であり、市でも出来るだけの援護をしようと後方への植栽に乗り出すことを快く承諾してくれた。

 翌年から市でもクロマツの植栽を始めた。その効果が出たのか、工事はどんどん進み、昭和33年には本格的にクロマツの植栽を始めた。その面積は2.29ヘクタールである。その間砂丘は第二、第三と前方に進出し、津波に襲われる前の砂防林に生育したのである。

 大開浜が津波に襲われたということを聞いたとき、昔のことを思い出して、あの低地帯はどうなったろう、と行ってみた。戦時中にも一度米代川の増水で濁流が大開浜を襲い、あの低地に沼を造り、当時の七座営林署から流された2尺(60センチ)以上の丸太が2本浮いていたことがあった。そしてまたこの津波で沼になったのだ。今なら機械力によりあの舌状丘もまたたく間に崩し、低地を埋めることが出来るだろうにと思った。 
 
<大開事業所について>
 大開浜の工事が進むにつれて資材が大量に必要になってくるが、貯蔵しておく倉庫がなく、みな雨ざらしにしておかなければならない。また不用心でもあるので、事業所を一つ建てたかった。ちょうど営林局に出張する機会があったので、この案を直接部長に頼んでみようと思った。当時の局の経営部長は富樫兼治郎氏で、常に海岸のことで分からないことがあったら来いよと、心安くしていただいたので直接当たってみようと思ったのである。

 普通なら我々のような小役人では、部長というと縮みあがって足元にも近寄れないものであったが、心安くしていただいたので思い切って部長の部屋をノックしたら、すぐ入れといわれ、恐る恐る入ったら「良く来たな、能代の海岸はどんな模様かね」などといろいろ訊かれた。機会をみて「実は大開浜に事業所を建てていただきたいので参りました」と言ったら、頭から何が事業所かという。「我々が能代の海岸を実行した時はカヤぶき小屋で仕事をしたものだ。あまりぜいたくなことをいうな」とどやされた。「でも部長、あの時代と今では時代が変わっております」といったが、「ダメだ」の一言であった。

 一度いえば後には引かない部長の性格を知っていたので「ではやめます」と頭を下げて帰って、その足で治山課の荒井係長にその旨報告したら、荒井係長は「まてよ、良い考えがある。まず、材料倉庫として建て、その一部に事務所を造ればよいではないか、おれにまかせておけ」と引き受けてくれ、翌年予算をもらって事業所兼倉庫が出来上がった。しかし、電灯もなく、石油ランプでしばらく過ごしたが、3年ほどで自家発電機を取り付けたりした。

 この事業所を建てた場所は市有地である。実は国有地に建てなければならないのであるが、あの奥行きのない国有地に敷地を取られると、それだけ砂防効果もなくなるので、市有地に建てることにして市に借地願いを出したら快く貸してくれた。借地料もいらない、無料で使用してくださいと言われたが、無料ではなんだかおかしいので、いくらかでもよいから借地料としてとってくれと言ったら、あなたの方の都合のよいように決めてくださいと言われたので、当時一反歩1年でたしか24円を支払ったと思う。

 それから5,6年経てから市の借地料はそれまでの20倍以上も値上がりした。当時の助役、斎藤氏にどういうわけか、能代市のための仕事であるから無料で使用してくださいと言われたが、無料では虫がよすぎるというつもりで今までの料金を支払ってきた。それが急に20倍も高くなるというのはどういうことかと問いただしたら、実は営林署から市が借りている借地料が20倍以上に値上げされたから、大開浜をその率で値上げしたので、どうかそのように割り切ってくださいと言われた。なんだか割り切れない気持ちで帰って来た。

 7月4日付の北羽紙によれば、能代営林署では防浪砂丘前に消波ブロックを設置する。これは津波以前から砂丘が浸食されぎみで、防浪の効果が発揮できなくなりつつあることを勘案したものという。筆者の考えでは、砂の生産地は米代川の上流にある山地から流出され、米代川の流れによって海に出る。これは一般的常識である。問題は海に出た米代川の水流がどの方面に流れるかである。
 下浜の漁業、本間慶三さんに聞いた話であるが、海に出た米代川の水流は大半は北方に流れ竹生方面に突き当たるという。当然突き当たった場所は強く当たると浸食され、弱く当たると米代川によって運ばれた砂が堆積する。これを季節的に見ると春から秋にかけては堆積して、海岸線が広くなり、冬期間の北西の強風時になると浸食が始まる。堆砂量及び浸食は波の強弱と、その年の流砂量によって左右される。
 しからば落合浜はどうか、国で示すように米代川の水流は落合浜と関係なく竹生方面に流れ、南は北防波堤にさえぎられ、落合浜は、オーバーに言えば“真空状態”になるため浸食堆砂の影響はあまりない。ただ変化があるとするならば、冬期間における北西の風が弱い時は竹生方面の堆砂が落合浜に移動し、強い時は竹生方面の砂とともに浸食されるが、これが急速に浸食されるとは思われない。落合浜は前述のとおり、ある時は浸食され、ある時は堆積し、これを繰り返しつつ現在の海岸線を維持してきた。これが自然の節理というものではないだろうか。
 今、能代営林署は、この自然の節理に反して、自然を征服しようとして消波ブロックを設置しようとしているそうだが、何か浸食されるような重大原因があってのことだろうか。

 富樫兼治郎氏は、こう語る。「私は砂浜をあまりにいじり過ぎておった。私の心には自然を征服する、砂を食い止めようと闘ういう気持ちが強かった。考えてみれば、人間の力で自然に抵抗するとか、征服するなどということはおこがましいことだ。自然に従順でなければならない。飛砂が起きたら飛砂を止めようとせず、飛砂がひとりで鎮まるように仕向けるところに砂防の方法があり、決して自然に逆らってはならない」と。

 最後に能代市当局にお願いしたい。
 大開浜海岸林は、能代市にとっては後谷地砂防林よりもっと重要な役目を負わされているところである。これは冬期間の北西の強風を大開浜海岸砂防林によって防ぐからである。その一例を掲げると、昭和24年第一次能代大火は北西の強風によって焼け広がり、あの大惨事を引き起こしたのである。もし、大開浜の砂防林が後谷地の砂防林のように生育しておったならば、あれほどの大惨事とはならなかっただろうと思うのである。いわば能代市にとっては大開浜砂防林は最前線にあって北西からの強風から能代市を守っているのである。
 それにもかかわらず、この大切な砂防林を市のものだからといって容赦なく伐採して、温泉街やレジャーセンターなどを建てている。しかも我々が前線の砂防林を保護する意味で要望して市が植え付けてくれたクロマツ林まで伐採している。
 後に残ったのは大開浜の国有林だけ、本当にぼつぼつと残っただけだ。もし今回の津波により大開浜の砂防林が全滅したならば、また昔の砂地獄と化すことだろうし、温泉街も全滅してしまうだろう。

 市当局でこのことを念頭に置いた方がおっただろうか。後谷地後ろの砂防林は幅、奥行きともに広ければ広いほど砂防林の効果を発揮することが出来るのである。今後は市有林であっても国有林であっても、クロマツを絶対に切らない、空き地があったらどんなところでもクロマツを植え、国有林とともにクロマツ林の集団を造り、能代市を北西の強風から、また今回のような津波から守っていこうではないか。
           (能代市景林町・砂防林を愛する会) 
 
   

『季刊 ふるさと紀行』から  能 代 海 岸 砂 防 林  昭和62年発表の作品です

          能代海岸砂防林              児玉堅悦

 今年(1987:昭和62年)十月十日、十一日の両日、私の住む能代では「能代海岸砂防林フェスティバル」なるものが開かれた。散策広場での「野点」「民謡と演奏会」「物産即売会」、隣接する陸上競技場を起点とする「健康マラソン」など、多彩な催しのすべてが大盛況であった。中でも、県外からの四人を含む七人のパネラーに市民も意見参加するという「緑と親しもう」を主題にした砂防林シンポジウムは大きな反響を呼んだようである。ここ数年の間にこの砂防林は「二十一世紀に残したい日本の自然百選」(1983年1月)「二十一世紀に引きつぎたい日本の名松百選」(1983年5月)「森林浴の森日本百選」(1986年4月)「二十一世紀に白砂青松百選」(1987年1月)と次々に選ばれ、自然破壊の危機の中、秋田ではブナ原生林の白神山地とともに「守り、継承する運動」が市民サイドから湧き起こってきている。それは全国一の過疎のレッテルをはられて、村おこし、町おこしの策を考えはじめた行政の思惑とも符合するのだが、論はさておき、今はさまざまな手だてが考えられていいのだろうと思う。

 秋田県能代市の海岸砂防林は面積760ヘクタール、およそ700万本といわれるクロマツ林が十四キロメートルも続く。植林の始まりは1711年と記録に残されている。能代は坂の多い町である。その坂を上り下りして街外れの公園に入る。規模は小さいが桜とツツジのきれいな春に華やかな公園である。その公園を抜けると広大な松林である。センダイハギ、ハマナス、ハマスミレ、ハマボウフウ、ハマエンドウ、ミヤコグサ、などなど、少なくなったとはいえ季節を彩る草花があり、秋にはキンダケやショウロ(松露、何とも優雅な名でかわいらしい姿である)などのキノコも出る。林の道をしばし、やがて・・・・・・・思わず眼をこすってしまう。かつての砂浜がない。この無残な光景! そう感ずるのは郷愁の世代ゆえのものだろうか。臨海道路が立ちはだかり、巨大なコンクリートの異端な塊がのさばっている。能代の基幹産業である木材の景気浮揚のために港が整備されたのだった。しかし、整備はされたものの閑散とした日ばかりが続く港である。また一方で火力発電所の建設事業が行われている。その代償として計画された一つに砂防林の伐採がある。行政の意気込みと市民の反対の激しいぶつかりあいもすでに昔の物語と思えるほどの事業側の当初計画の見直しに行政側はあわてふためいている。砂防林の伐採問題はずうっとくすぶり続けてきた。今、外の人たちのまなざしがあって砂防林が見直されるようになった。三保の松原、天の橋立、虹の松原の日本三大松原に加えて四大松原になどと言われては行政側もたじろがずにはいられない。

 子どもの頃、学校では能代海岸の植林事業に尽力した先人の学習がよくなされて、子ども心にも「これはきっとすごいものらしい」と納得していた(思えば、小学校の頃の村や町の歴史や生活を知るという時間は楽しいものであった)。私の育った所は能代の郊外であったから、時折出掛けるようになったのは中学に入ってからだが、高校に入ってからは、特に大学受験をひかえた三年の夏から秋にかけてはしばしば訪れたものであった。公園を抜け、松林をゆっくりと行く。枝道に入る。まるで迷路である。だが心配することはない。海鳴りの音が道標である。腰を下ろし、しばし空想の時。そうして海へ出る。砂浜がどこまでも続いていた。風紋にハマナスの実が散っていた。今ある日常から逃れるための林の道であり、友と語らう砂浜であった。はだしで歩き、走り、興がのれば海に入り、泳いだ。大きな日本海があった。その水平線が真赤に染まるまでが解放された時間であった。

 能代は日本海を間近に見る風の強い町である。春の砂ぼこりに目をしょぼしょぼさせることから始まり、冬の地吹雪にちぢこまって歩くといった「風」の四季をくり返す。日本海に沿って生きてきた町。風と砂は人々のくらしにどれほどのつらい思いを与えてきたことだろう。飛砂から人の生活を守ることで始められた先人の苦難に満ちた植林事業。それは一つの方向に流れて生育した樹林にしのばれる。憩いの森としての評価も確立した今こそ継承の手だてをきちんとさせたいものである。その基本は、観光資源のない行政のポイントとして殊更な喧伝をしないことだろうと思う。市民の生活と両どなりのものでありたい。朝夕の散策の道であって、余計な建物がたち、車が入り、混雑する街中となったら大変である。一人で歩いてもよく、連れだって歩くのでもよく、海風が空高く聞こえる道であってほしい。道すがらには共に生きる植物がもっと緑の芽をのぞかせること、そうすれば私の中の自然、再び充ちたりである。
 先日、ある会合で児玉氏に出会った時、「風の松原をよんだ詩はありませんか」とお聞きしたところ、詩はないが雑誌に執筆した文章があるといい、「あなたの趣旨に添う部分があればお使いください」ということでした。昭和62年、私が砂防林に全く関心がなかった頃の様子が描かれていますので、そのまま引用させていただきました。

児玉堅悦氏の第一詩集
『ぼくらは子どものころ
いつも走っていた』
(昭和58年 芸風書院)

児玉堅悦氏の第二詩集
『雪の記憶』
(2004年 土曜美術社)