恩師の思い出 作成開始 2006/9/9

最新の更新 2014/01/28

2014/01/28(火)

 太田 久監督の思い出

 2014年1月23日に太田 久監督が逝去された。祭壇の写真は甲子園初出場の時のもの、祭壇は菊の花でボールとバットがデザインされていた。
小林(33期)がイヤー・オブ・ザ・コーチ受賞時のホームページを作成していたので紹介する。こちら

   

 葬式翌日の北羽新報(2014.1.27付)には次のような記事が掲載されていた。

名将の思い出切々と 元能代高野球部監督 太田さん葬儀、教え子ら参列

 能代高校硬式野球部を甲子園に3度導いた名将で、23日に77歳で亡くなった太田久さんの葬儀が26日、能代市芝童森の能代典礼会館セレモで営まれ、親族や関係者らが最後の別れを告げた。
 太田さんは昭和35年に母校能代高の監督に就任。簾内政雄投手(元プロ野球サンケイアトムズ)を擁し38年の第45回全国高校野球選手権大会に初出場し初勝利を挙げ、52、53年の夏は高松直志投手をエースに連続出場を果たした。教え子には元プロ野球阪急ブレーブス投手で通算284勝を記録した山田久志さんらがいる。
 葬儀には親族や教え子の簾内さんと、元プロ野球東映フライヤーズの大沢勉さんら約200人が参列。妻で喪主の和子さんがお気に入りという能代高が昭和53年夏の甲子園で簑島(和歌山)との初戦を前に撮影されたユニフォーム姿で腕組みをする遺影を前に、祭壇にはボールとバットといった野球用具を模した花が手向けられた。
 能代二中、能代高、明治大と10年間学生生活を共にした前能代市教育委員長の田中仁純さんと、甲子園初出場時の主将だった菊谷良己さん、能代高野球部OB会・松陵会の庄内豊会長が弔辞を述べた。
 田中さんは「明大進学後も硬式野球部に入部し、プロより人気があった六大学野球で立教大には長嶋茂雄がいて君の人生に大きな影響を与えた」、菊谷さんは「12月に見舞いに伺った時は『まだ大丈夫だ』と話していたのに残念。50年前を思い出す」と話し、庄内会長は「鬼の太田とよく言われたが、人情味あるれる人でもあった。辛い厳しい練習を乗り越え、不撓不屈の気持ちで仕事ができるようになった」と涙ながらに感謝を述べた。(以下略)
 


2006/10/2(月)

 白鳥邦夫先生の思い出

 能代高校東京同窓会のブログ「いつかの同窓会」に白鳥邦夫先生の話題が載った。そこで白鳥先生の写真を探した。
白鳥邦夫先生がお亡くなりになったのは2001年の2月末だったと思う。当時のデジカメ画像を探したが撮影した形跡はなかった。

 岡本邦夫先生とは白鳥邦夫先生のこと、私の高校2、3年のクラス担任。当時は白鳥邦夫と名乗り、北羽新報等の投稿では「岡本新」と名乗っていた。二ッ井高校で恩師と同職した時には岡本と名乗っていた。

 この写真は1997年8月30日、二ッ井でのこと。
話は1973年(s48)にさかのぼる。二ッ井が洪水に見舞われた翌年、この年から私は岡本邦夫先生、藤本真子先生と二ッ井高校で同職することとなった。その翌年、佐藤真里子さんが新任英語教師として採用され、奮闘した記録は白鳥邦夫著『泣け、まりこ先生』(秋田書房刊)に詳しい。

 その佐藤真里子さんがお亡くなりになり、真里子さんの蔵書約3千冊が二ッ井高校に寄贈された。二ッ井高校では「まりこ文庫」として専用の書架を準備し、8月30日にご両親に感謝状を贈呈した。感謝状贈呈は体育館で行われ、その時に岡本邦夫先生が「二ッ井高校とまりこ先生」と題して講演を行った。

講演開始前、校長室で栗田校長先生とお話しする岡本先生
岡本先生のお隣は佐藤真里子先生のご両親、奥は藤本真子先生

暑がりやの岡本先生は生徒たちにことわった上て壇上ですぐに上着を脱いでお話しを始めた

 下の写真は講演会の後の食事会での一コマです。岡本先生は美味しそうにビールを飲んでいます。


2006/9/14(木)

 高校の図書館に入ったら恩師寄贈の書架があった。目次のバナーをやたらと多くするのも気が引けるのでこの欄に含めた。

一つは椎名光雄文庫

椎名光雄先生は平成2年4月から平成5年3月までの第27代校長。
先生の死後、ご遺族の方から寄贈を受け、当時の図書館担当者が
英語の原書を買い集めたようだ。本校では授業担当はなかったが、
数学の先生だった。知らない人は英語の先生と思うかもしれない。

もう一つは鎌田宏文庫

鎌田宏先生は昭和49年4月から昭和50年7月までの第19代校長。
鎌田先生は国語の先生だったので寄贈書もすべて日本古典文学の研究書。
詳細は後日紹介したい。