母校能代高校の80周年記念式典が9月17日に挙行された。当日はご覧の通りの快晴だった。 最終更新 05/10/4
この記念式典の様子を記録していた人がほかにもおりました。その人のホームページが公開されたのでこちらをご覧ください。私よりも4年先輩、29期生です。
昔は右側の舗装道路が校舎への入口で、自在の像がすぐ目についたが、平成4年に前庭が完成し、入口が変更になったので目につかなくなった。 |
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記念式典の看板は巨大だが太陽光がまぶしくて文字がよく写らなかった。 | ||
校舎正面が改装され、図書館の下にも看板を掛けることができるようになった。 この看板に「スローガン」と書かれているが、「スローガン」は自分たちの主張を人々に呼びかけるもの。 「テーマ」は話題の中心となることがら。生徒会が生徒達に呼びかけるのだったら「スローガン」だが、どちらがよいか。 「創立80周年記念メインテーマ」と記念式典要項に記載。記念誌の94ページにもテーマ決定の様子を記載している。 『校友時報』の記事を読むと作者の気持ちはスローガンとして作ったように感じるが、 募集した人たちの意図は果たしてどっちだったのだろうか? 松陵を舞う八十(やそ)の彩色(いろ)−凌駕する力を今− |
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オリンピック出場記念碑が2つ。その向かい側(校舎側)に「自在の像」が立っているのだが、撮し忘れた。 左の新しい方が自転車の鈴木裕美子さんの記念碑。祝賀会で鈴木さんのお父上とも再会することが出来た。 |
式典開始は午前10時。校長式辞のあとの実行委員長あいさつで田中同窓会長さんが記念事業等を説明してくださった。
この日は、なつかしい先生方にお会いできた。表彰状並びに感謝状贈呈では永年勤続など型どおりの表彰のほか、創立80周年記念メインテーマを作った生徒も表彰された。ただ、校舎正面に掲げた看板には「80周年記念スローガン」と書いてあったのに、記念式典要項には「創立80周年記念メインテーマ」と印刷。作った生徒の氏名も書かれているのに、肝心のテーマが要項には書かれていない。記念誌をいれた袋には印刷されているが、彩色と凌駕の間のダッシュ(−)がない。校友時報の記事を読むと、「記念テーマを募集したところ、○○さん、○○さん、○○さん(3名)の作品が優秀作品として選出された」とあり、「優秀作品に選ばれた○○さんのテーマは”松陵に舞う八十(やそ)の彩色(いろ)−凌駕する力を今−”」と書かれている。祝賀会の要項にはメインテーマも書かれているが、そこには結びのダッシュがついていない。
「校友時報」の中でメインテーマの作者は、「創立八十周年という節目の年に改めて能代高校の歴史を振り返り、その歴史の一年一年の重要性を知ることになると思い、このテーマを作った。今までの能代高校の歩みを越えることができるように、という想いを込めているテーマだ。」と話している。
記念誌『松陵八十年』の94ページに「おそまきながら、平成17年6月29日職員会議で創立80周年メインテーマは「松陵を舞う八十(やそ)の彩色(いろ)−凌駕する力を今−」に決定しました。」と書かれている。「メインテーマ」とすべきところを、校舎正面の看板を作る時に「スローガン」と間違えてしまったのだろうか?
恩師の山田先生もご出席。山田先生は夜に第何期かの同期会に招かれているということで記念講演の前に退席された。
山田先生のお隣りは松渕先生。松渕先生は私が高校を卒業したあとの41年から48年まで本校に勤務。先生は今年中にこれまで執筆したものを御本にまとめる計画が進んでいるとのこと。「式典で久しぶりに校歌を聞いて生徒のハーモニーに感動しました」と話されていた。
太田監督は私が高校に入学した昭和35年に硬式野球部の監督に就任、昭和54年まで20年間監督として3度甲子園に能代高校を出場させた。今年は日本高野連のイヤー・オブ・ザ・コーチに選ばれ、7月16日の秋田大会開会式で日本高野連会長から表彰された。最近はもっぱらウーロン茶派のようでしたが、お元気な姿でした。(表彰式の様子は私の「日々の記憶」の7月16日の項をご覧ください。)
平川先生は昭和61年まで本校に勤務。私と1年間同職した。退職した職員の集まりでは旅行を担当し、大きなカメラを下げてツアーコンダクター的な係をなさっている。9月末にもご一緒に旅行できるはずだ。
記念講演は、私が本校に赴任した年に2年生だった木本雄吾氏。藤本先生は「私が1年の時の担任だったのよ」と話しておられた。講演の中で「人工衛星から撮した風の松原」なども紹介されたので、祝賀会の際に会いたいと思っていたが、忙しいためか出席していなかったようだ。祝賀会に行く時、木本氏の家の前を通ったのだが、もしかしたら1時10分頃自宅にいたのだろうか。
当日配布された記念誌等の紹介
創立八十周年記念誌 | 校友時報 第267号 | 校歌CD | ||||||||||||||||||||||||||||||
スキャナーで取り込めばすぐにPDF ファイルができるのだが、それでは 著作権法に触れるので、1面題字付 近だけにしました。 |
@校歌 生徒有志による歌 伴奏は吹奏楽部 A校歌(演奏) 吹奏楽の演奏のみ B校歌1番 @の一番のみ(甲子園大会で勝ったときに流す準備ができた) C校歌1番(演奏) |
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『松陵会史』の目次の一部 思い出の写真 能代中学・能代高校硬式野球部小史 特別寄稿(佐々木満氏を始め13名) 紙上座談会 軌跡 ・草創期 ・戦前 ・戦後 ・大会記録 ・歴代校長・松陵会会長・部長・監督 A4版179ページの書籍です |
私が以前作成した能代高関係の ホームページ 赴任した日の能代高校の様子(1999/4/1) 能代高校の松が危ない(1999/5/23) 生徒会誌『巨濤』の表紙(1999/6/11) |
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『松陵会史』は記念式典の配布物ではありませんが、能代高硬式野球部「松陵会」(太田久会長)の会史編集委員会が能代高校創立80周年を記念し、硬式野球部の創部からこれまでの歩みを初めてまとめて9月7日に発行したものです。平成15年4月に元部長の金谷晴隆氏を編集責任者とする編集委員会を組織、2年以上にわたる編集作業の末に、会史として初めて作成されました。式典会場入り口脇で購入しました。購入希望者がおりましたら金谷晴隆氏に連絡してください。1冊3000円です。(金谷晴隆氏の連絡先:〒016-0846 秋田県能代市栄町6−17) |
70周年の際に記念事業として『校友時報 縮刷版』が発行されております。
校友時報の発行は昭和24年ですが、創刊号から第6号までは収集できず、第7号(1949/10/12付け)〜第231号(95/6/2付け)までが収録されています。
また、手元に70周年記念号(第233号)がありますので一面上部分だけを紹介します。
この冊子は 210mm×296mm 748ページの大作。 重さを量ったら1.6sもあった。 |
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まだ創立80周年記念誌に目を通していないが、「主な目次」を作る時、 ”能代高校「学校林」の経緯” を読みました。そこには、「同窓生の中から記念誌に学校林について思い出のようなものを載せることができないかとの声がありました。筆者(35期)は学校林のことを先生や先輩から話に聞いていましたが、私達の高校時代には学校林の植樹や下刈りなどで檜山に行ったことはありません。寄稿してくれる当該者が見当たらず年譜のみを次に掲載します。」という前書きがありました。
私(小林:第33期)が入学したのは昭和35年。このページの年譜によれば11月11日に杉4千本を補植したことになっている。11月といえばかなり寒いはずだが、寒かったという記憶はない。何しろ現地集合、現地解散の時代だから、自転車の脇にスコップを挟み込んで柳町新道の自宅から檜山まで行った記憶がある。当時我が家には自転車は1台しかなかったから、三年生だった兄はどうしたのだろうか。この記事の記録では、31年から36年までは毎年行われていたことになっているから、一年生だけが行ったのかもしれない。兄と一緒に行ったという記憶はない。
檜山の崇徳小学校前が集合場所だった。檜山には年に2回は父の手伝いで行っていたから小学校前は分かっていた。その先はどの場所へどのようにして行ったかは覚えていない。36年国体のあった二年生の年には植林に行った記憶がない。
当時のアルバムを開いてみたが、11月11日に修学旅行で京都の宿屋で撮した写真が載っている。二年生が修学旅行に行っている間の行事として、1年生は植林だったのかもしれない。私らの修学旅行は1日目夕方東能代から鈍行列車に乗車。2日目の夕方京都駅着。3日目京都御所等の見学、その後奈良も見学、どこをどのように通ったかは忘れたが、何日目かの午前3時頃か、とにかく真夜中に小田原駅?到着。駅で朝までいて箱根にバスで上り、その日は強羅宿泊、次の日東京に入り見物の後、宿屋に泊まる、次の日親戚の者がいる場合は自由行動ができたので、東京の寮に入ったばかりの兄に宿まで迎えに来てもらい、夕方西郷さんの銅像前に集合し、夜行列車(もちろん普通の座席)で能代に戻るという6泊7日の旅だったと思う。
当時のアルバムを開いたところで脱線してしまったが、この「学校林の経緯」の記事を先に読んでいれば、昨夜3次会で同期生が何人か集まったときに話題に出来たのに、と残念な思いが残る。同期には現在檜山で住職をしている者もいるから植林をした場所までわかったかもしれない。
書き忘れがまだあった。祝賀会の会場に日の丸が1枚貼られていた。会場だけの(人物が写っていない)写真がないので、ここに写っている佐々木満氏や阿部前校長、金谷晴隆氏には叱られるかもしれないが、中央に日の丸の写真が見える。この日の丸の説明があるものと思っていたが、それがなかったので写真だけ撮しておいた。
ところが、同期生の3次会で田中氏が「あの日の丸は俺の家から出たものだ」という。確かに贈田中芳郎君と書いてある。田中氏の叔父さんなのだそうだ。芳郎氏は17歳だったという。右下の文字は「秋田縣立能代中学校 第十四期生一同」と書いてある。そのほかいろいろ話を聞いたはずだが、聞いている私も酔っていたから忘れてしまった。聞き直すにも、同期の田中氏は今日は田沢湖マラソンに出場している。なお田中氏は先日十里強歩にも出場し1位になって菊谷校長から賞状をいただいたと話していた。この日の丸がどうして祝賀会場に貼られることになったのか、後日取材に行って見よう。
この部分を夜になってから書き直している間に、「さきがけ on The Web」 に田沢湖マラソンの記録が載った。男子20キロの部に出場した田中氏は昨夜私と3次会まで付き合ったのに、完走者名簿に載っている。しかも12位だ。