修行編

見習いデビュー


昭和60年3月24日(月)の朝は雪景色だった。
原付で通う予定だったが、バスにした。当然一番乗りした。次々入って来る先輩方に挨拶しながら社長の指示を待った。1週間前から新しい足袋を履く練習をしてきたが、残念ながら、この日は長靴だった。長靴も新品だったが。

年輩の先輩二人は休み。雪で仕事にならなかったので、昨年、車で案内してくれた2コ上の大学の先輩と1コ下の1年先輩と現場の雪かきに回った。雪国出身の私の初仕事は雪かきだった。とにもかくにも、この日から私の庭師修行がスタートした。

翌日は晴れ。親方(推定

80才 ※以下( )内の年齢は全て推定)、社長(45)、大先輩AさんとTさん(5055)、若手の先輩二人、設計のKさん(55)の総勢8人が揃った。一人の先輩を除いて、皆叩き上げの職人達だった。
ここには、何年かに一人は農大OBが入社していたので、職人達も慣れてはいたが、やはり「大学出たからって何が出来る」という空気は感じた。専門知識は必要だが、ここで必要とされるのは実のない「学」ではなく、経験に裏打ちされた「技」と「知恵」で、「歴」などなんの足しにもならなかった。親方や社長の心の中にも「学者に庭は作れない」という気持ちはあったと思う。現場を知らずに庭は作れない。設計が上手でも庭は作れない。庭は、机の上で、鉛筆で書くモノでもパソコンで作るものでもなく、現場で汗水垂らして泥まみれになって作るものなのだ。

大学は、職人を作るところではなく、その上に立つ人間を育てる所だった。だから、緑の効用などは教えても、緑に接する態度や心までは教えない。学内を煙草ふかしてポイ捨てする連中も居た。農学部でありながら「農」に接する態度、農を恵む自然に対する態度か出来ているとは言えなかった。その辺のところから教えるべきだと思っている。今は違うと思う。日々の見習い生活から、そんなことにも気付けたのは幸せだった。

ちなみに、当時中学生だった師匠の孫も私の母校の後輩になった()。植木屋の親は「可愛い子には足袋を履かせろ!」と言う()。修行に出た後、家で頑張っているというから嬉しい話だ。

庭師の虎

この会社は、民間専門だったので仕事は丁寧だった。個人邸の管理の他、住宅会社の外構工事一式を請け負っていた。我々は庭の工事部門だが、左官屋、タイル屋、フェンス屋、ブロック屋など様々な職人達と一緒に仕事をした。

社長は、段取りと設計で忙しく、現場で足袋を履くことは稀だったから、必然、親方と一緒に居る機会の方が多かった。雇ってくれたのは社長だが、過ごす時間の長い分、親方の影響を強く受けた。

親方は、私が入った時は既に

80才を超えており、自分の作庭した庭の手入れや、石組などの庭づくりの時しか現場には出なかった。普段は好々爺だが、現場に出ると名の如く虎になる(寅吉さん)。95で天寿を全うしたが、まさに生涯現役を貫いた人だった。私が現場で指導を受けた最後の弟子になったと思う。

「職人は、技は盗んで覚えるものだ」というが、血のにじむ思いで身に付けた技は、弟子といえども決して手取り足取りは教えなかったという。晩年は、自分の技を残したいと思ったのだろうか、「何でも聞け!」と言われたが、何を聞けば良いのかさえわからなかったのは、いまだに心残りだ。私は、虎と話をするにはあまりにも未熟だった。


松は松らしく、紅葉は紅葉らしく・・・

ひとつだけ聞いたことがある。松の剪定をしていた時のこと、一服のお茶出しをしながら「松はどのように剪定すればよいですか?」とごく当たり前のことを聞いた。 「松は松らしく切れ!」

「・・・はい。では、紅葉(モミジ)は?」

「紅葉は紅葉らしく切れば良い」


もう次の言葉が浮かばなかった。

これは、後になって、庭師にとってこれほど奥の深い言葉は無いと解った。庭師の極意と思い、今は会社の理念として大切にしている。

よく松の手入れが出来たら一人前と言われるが、私はそうは思わない。普通、見習いは、植木の手入れの場合、掃除、草取りから入り、枯れ枝取り、生垣の刈込み、仕立木の刈込み、カイズカなどのトビ取り、松の緑摘み・もみあげなどを経てシイやモッコクなどの常緑樹の透かしに入っていく。そして、最後に紅葉などの自然樹形の落葉樹がくる(※そこの植木屋によって違います)。

比べるのは失礼だが、シルバーセンターなどの剪定を見ると、彼等の剪定は刈り込み、トビ取りのところで止まっているように思う。安さが売りだし、知識も無いから、先のことは考えずにとにかく丸刈りにする。剪定の基本の枯れ枝も取らない。私は「庭師」と「植木屋」は、1人工の料金こそ変わらないが、レべル的には違うと思っている。

語弊があるかもしれないが、私の解釈では、植木屋は、主として剪定などの管理を仕事とする人。庭師は、庭全体をプロデュースし、設計も施工もできる人。庭師にとって剪定とは、数ある庭仕事の中の、基本技術の一つだと思う。それだけ、庭師の仕事の範囲は広い。彼らはその、植木屋の見習い程度の技術でお金をもらっている。お金を貰ったらプロだ。田舎には、この程度の技術で開業してしまう植木屋さんもたくさんいる。いわゆる、「暇だから植木屋でもやってみるか!」で見様見真似で開業してしまう、「でも植木屋」だ。

以前、初めてのお客さんの所で、刈り込みのように枝の混んだ松の透かしを依頼され、枯れ枝を全て外して透かしたことがあった。外観は整っているが、絡み枝だらけなので、不用意に太い枝を抜くと、とんでもない方に穴が空く。一度に抜ききれず、枝の伸長を見ながら年々抜いて、5年後ぐらいに芽摘み、もみあげが出来るような松に仕上げていくつもりだった。

翌年営業に来たシルバーセンターいわく「このくらいならウチでも出来るから」。お客さんはソチラになびいて、断りの電話をもらった。果たしてシルバーさんは「このくらい」をどのくらいだと思ったのだろうか。比べられるのも心外だが、そんなに甘いものではないと思っている。料金も、若い弟子達の分は彼らのレべル相応のものしか頂かなかったのだが。

逆に、「松は難しいから特別料金をいただきます!」と言う植木屋もいるらしい。こんなことを言うのは、庭師ではなく植木屋。普通の木より手間がかかった上にさらに上乗せされたら、お客さんはたまらない。以前、床屋さんで、「透かし(透き?)」をお願いすると、「カミソリを使うのは特別料金ですから。」と言われて腹が立ったことがある。

松が出来て一人前の職人なら、松の剪定技術を基準にして料金設定をすれば良いと思う。覚えるまでに要する時間は、他の木とそんなに変わらない。難易度で言ったら、茶庭の手入れが一番難しい。普通の植木屋さんには出来ないと思う。手入れは、木の性質を覚えてしまえば、多少、形が違っても感覚的には同じだと思うのだが。



話が外れた。紅葉の話。というわけで、この修行時代は、紅葉には枯れ枝を取る以外触らせてもらえなかった。親方は「流れの寅」と異名を取るほど流れの石組が得意だったが、同じ時代に生きたもう一人の寅さん、雑木の庭の創始者と言われる飯田十基(寅三郎)さんとも比較されたらしい。

昭和初期、雑木を使う人は、飯田さん始め、神奈川の大胡さん、京都の小島佐一さんなどが有名だが、親方の話によれば、「俺が一番最初だった」とのことだった

()。それだからこそ、紅葉の手入れにはこだわった。紅葉に限らず、切った枝は、細い枝でも付け根からスパッと切らせ、5ミリでも残すものなら怒られた。白い切口も見せられなかった。

露地の手入れでは、掃除と枯れ枝取りが私の主な仕事だったが、本当に気を使った。一般の庭でも、目隠し、家付き、近景、中景、遠景など、同じ種類の木でも、その木の役目に合わせて、剪定の濃淡を変える。露地は席入りに使う庭だから一般の庭と眺めのポイントも変わる。自然の山里の奥ゆかしい風情を大切にするから、手が入ったことを気付かせるような剪定は出来ない。席入りがスムースに行えるように、客の動線を気にし、静止点となるような所からの眺めは特に気を使う。茶を知らなければとても怖くて出来ない仕事だ。本当に難しい。でも、難しいから面白い。

風にそよがない紅葉は紅葉ではない。冬枯れにどこで切ったか解るようではダメだ、と教わった。結局、「紅葉は紅葉らしく」が解るのに7年掛かった。

昨年生まれた娘に「紅の葉(このは)」と名付けたが、これには、紅葉を庭師の技の究極に例えて、「いつか極めたい」という意味も込めた。この子が「若葉ちゃん(

NHK朝ドラ)」になるかは別だ()


師匠の昔話

一服や雨の日には親方の昔話を聞いた。先輩方は耳にタコだったので、話を聞くのは自分の役目だった。


明治生まれの親方は、小学校を出てすぐ庭師の見習いについたという。大正時代のことだから、もちろん、本物の徒弟制、見習いというより丁稚(でっち)奉公に近かったかもしれない。二十歳ぐらいには一人前になり、腕試しに京都を目指しながら、様々な植木屋を転々とし、網代や沼津垣もそのころ覚えたという。

河原や橋の下でも寝たというから、ほとんど渡世人だ

()。昔の庭師は「山水河原者」と呼ばれたらしいが、それを地でいったわけだ。やっと京都に着いたものの、そのころの京都はよそ者を受け入れず、悔しい思いをしたらしい。

その後、東京で腕を見込まれ、灯ろうの神様と呼ばれる数寄者の所で庭師の番頭を任される。技術に裏打ちされた絶対の自信があったから、施主とも対等に渡り合った。気に入らなければ仕事をやめて平気で帰り、施主の方が謝りにきたというから豪放な話だ。気性も虎だった。気持ちの中ではそう思ってても、今の世の中、これだけはマネ出来ないでいる

()

世に知られる代表作には、河合玉堂美術館の庭や吉田茂首相の庭もあった。かの設計家、吉田五十八氏にも妥協しなかったというから相当な頑固者だ。この当時、弟子入りしていたら3日ともたなかったかもしれない。

ここには、その当時からの先輩が居て、年は離れていたが同じ秋田出身ということで何かと面倒をみてもらった。穏やかな方だったが、長年親方に仕えただけあって、親方の気持ちを読みながら、阿吽(あうん)の呼吸で仕事をしていった。吉田茂邸では、まだ二十歳そこそこで、親方の代わりに現地の業者を指揮していたというからたいしたものだ。昔は、そのぐらいの年齢で一人前の職人になっていたようだ。私のスタートより早い。


木の名前はどうやって覚える?

まだ剪定も出来ない見習いがこんな大きな話を聞いていると、先の道のりの遠さにますます不安になる。1年過ぎた頃、徐々に先輩と一緒に木に登り、「透かし」を教えてもらった。が、それから半年経っても、理屈はわかっていたが、感覚として体に入ってきていなかった。

樹種の限られる秋田と違い、木の種類の多さも覚えの遅さの原因ではあったが、それぞれの名前、性質がまだ頭に入っていなかった。本の中の静止した木と、実際に四季を生きている木は、なかなか一致して見えなかった。


このころ、植木屋は最低200の樹種を判別出来なければならないと言われていた。園芸品種や洋物、花物を入れたら気が遠くなる。大学の先生に言われた方法を試すことにした。特徴のある木、特徴の出た状態を覚える。

形の変わった木はすぐ頭に入る。特徴の出た状態とは、芽出しや花、実、紅葉の時の形や色など、変化の出た状態から覚えるということだ。

そこで、剪定した枝の蕾や実の付いた枝をもらってきて、瓶に入れて部屋に飾り様子を見た。毎日見ていると花や実だけでなく枝の様子や葉、樹皮もわかってきた。始めからいっぱい覚えようとすると一つも頭に入らない。要は一つずつということだ。そのうち、暗がりの中で樹冠のシルエットを見ただけで樹種がわかるようになってきた。


似ている物は二つ並べて辞典で調べた。聞くと忘れるが、自分で調べると頭に入った。わからないまでも調べてから先輩に聞くと、すぐ頭に入った。

先輩は、必ず樹種名を言って剪定の指示をしたので、樹種が解らないと仕事が出来なかった。そんな時は「はいっ」と言いながら若い先輩にコソッと聞いたものだが、2年ぐらいするとその必要もなくなった。

木の名前を覚え、枝振りや枝の伸び方が解ってくると、剪定の仕方も少し解ってきたような気がした。


始め、「透かし」は真ん中の枝を切れ!と教えられた。松のミドリを摘むときなども、真ん中の勢いの強い芽を元から摘みながら樹冠を整えていく。1年目はそれで良かった。が、2年目になると、「丸くすればいいってもんじゃない。」となった。同じ種類の木なのに。

木を見て森を見ず。庭全体を見て、庭の雰囲気に合わせ、場所に合った剪定をしろということだった。これは剪定だけの植木屋には出来ないことだ。庭を作る庭師だから解ることだと、自分で庭を作るようになってから解った。


集中すると、「完璧な手入れをしてやろう!」という気になってくる。そうすると、その木だけが浮いてくる

()。木を見て庭を見ていないからだ。

住宅の庭には必ず視点がある。門、玄関、庭の変化点、縁側、座敷のテーブルなどなど。座敷前の庭なら剪定のキリのよいところで、座敷に上がるわけには行かないから、靴脱ぎ石のある所などに来て庭全体の中のその木を見る。離れて見なければわからない。

いきなり脚立には登らず、剪定の前にも必ず見ておく。そんな余裕も必要だ。その繰り返しが、庭を見る目、庭を作る目になっていく。親方が庭を作るときに指示する場所は決まっている。その場所を覚えておくことだ。そんなことも教わった。

紅の葉メモ

段取りや人の手配の都合で、毎日同じ現場に配属になるとは限らない。だから、毎日現場が変わるとなかなか覚えられない。そこで、日記を書くことにした。その日注意されたこと、覚えたこと、手入れした木の大きさと形、所要時間、庭の図面などを、反省を交えて自分なりに書いた。

神様カール・ゴッチの下で修行した、かの藤原嘉明は、その日覚えたことを忘れないようにノートに書いて覚えたという。それが、後に藤原メモと言われた。

話を戻す。翌年、同じ木に登った時、前年の記憶

(記録)があれば木の成長と共に昨年の自分の未熟さが解る。解ると言うことは自分が成長した証拠だ。この紅の葉メモのおかげで、だんだん仕事が面白くなってきた。

3年目に入ったある日、気がついたら透かしの感覚を体が解っていた。解らなかった昨日までがウソのようだった。本当に自分も剪定が出来るようになるのだろうかと、つい昨日まで思っていたのだ。

なぜ急に解ったかは解らない。次の枝を切ろうとする時、一度考えてから動いていた手が、考えることなく自然に反応したのだ。それまでは、動きが止まらないよう、頭を使わくてもいい枯枝、ヤゴ、胴吹きなどを切りながら、これから抜く枝を思案し、手に取って枝を揺らし、穴が空かないかを確認してから切っていた。それが、次々と抜いていくことが出来たのだ。

何がキッカケだったのかは思い出せない。現役時代、練習した技が、初めて試合で技が掛った感じに似ていた。庭の中では、誰も「一本」とは言ってくれなかったが

()。次の日からはもう、面白いように普通に出来た。

就職」と「修行」の違い

雪国育ちの自分にとって、一番の苦手は暑さだった。

連日

35度を超すような夏場は飯も喉を通らなかった。既に4年間東京で過ごしてはいたが、蒸し暑い道場で苦しい稽古をしていたとはいえ、稽古はせいぜい3時間で終った。これだけは3年間の修行生活で克服出来なかった。

飯だけは人一倍早かった自分が、夏だけは誰よりも遅かった。食えずに飯に水を掛けて飲んだ。

職人だから夏でも腕は出せない。隣の千葉出身の先輩は涼しげな顔でトレーナーを着ていた。この先輩は真面目だが、夜勉強していたからか、一服や昼休みには寝ていた。

休憩時間に体を休めるのは労働基準法で認められた当然の権利だ。が、「就職」と思うか「修行」と思うかで、取るべき態度が変わってくる。

猛暑の中での重労働では、少しでも体を休めて仕事に備えたいところだ。が、横で「昔は現場で寝ようものなら、オヤジ

(親方)に『寝たいなら帰って寝ろ!』と言われたもんだ」という声が聞こえる。

体育会経験者は先輩の前では寝れないし、煙草も吸えなかったから、特にどうということはなかった。今でもそれは体に染み付いている。先輩達も強制は出来なかったが、要は、お客さんの前でだらしない格好を見せるのは失礼だ」ということなのだ。


職人は、親方が何を考え、何をしようとしているのか、どうすれば親方が喜ぶかを考えて動く。人の顔色を伺うのは嫌かもしれないが、ある程度は必要だ。おべっかを使うのではなく、何も言わなくても動き、進んで勉強する姿勢に親方は喜ぶ。親方が喜ぶということはお客さんが喜ぶことに繋がる。師匠のために進んで動くのは当然のことだ。徒弟制とはそんな世界で、給料をもらって仕事していても、こんなところにも「就職」と「修行」の違いが出る。見習いは、仕事の邪魔をしながら、お金をもらって仕事を教えてもらうという、とても申し訳なくも有り難い立場なのだ

()
途中で先輩は一人辞めたが、下も入って来なかったので、そんな申し訳ない立場を一人で3年間過ごした。

大失敗

体育会を経験したことは、職人の世界に入るのにとても役立ったが、1度だけ大失敗した。学生時代の先輩が上京するというので、都内在住の後輩にお呼びが掛り、夜中の

3時まで飲んだ。先輩より先には帰れないのだ。

学生時代の関係は何年経っても変わらない。一瞬にして時が戻る。注がれれば一気、煙草を持てば店の女の子に負けじと火を付ける。

翌日、フラフラになりながら原付に乗り、会社に着いた途端ゲロした。遅刻はしなかったが、体調管理の出来ない職人は失格だ。しかも新入りの分際で。笑って許してもらえたが、申し訳ない立場がますます申し訳なくなった。


見習いはダッシュと食いっぷり

見習いは、当然皆より仕事が出来ないし、簡単な作業でも遅い。遅さをカバーするために移動時は走った。足腰は強い方だったし、柔道は裸足なので、薄い足袋で土を踏む感触にはすぐに慣れた。擦り足なので転ぶこともなかった。その変わり、ふくらはぎが太いので爪がなかなか掛らず履くのは遅かった。

あまり誉められた記憶はないが、2年目、縄で枝をまるって(束ねて)いた時、「ふーん、職人らしくなってきたね」と言われたことぐらいだ。つまらないことだが、何も出来ない見習いには嬉しい言葉であった。

ゴミまるきも、同じ長さ、同じ厚み、同じ大きさで綺麗にまるくのは結構難しい。縄の締めが弱いと崩壊する

()。力だけはあったのでバカでかいのを作って先輩に怒られたものだ。庭師に必要な庭力(にわぢから)はまだまだだったが、バカ力はあった()

ゴミ運びも、先輩が一つ担いだら二つ担いだ。見習いは技が無いんだから、ダッシュと返事(挨拶)と力と食いっぷりで存在を示すしかない
()

お客さんが出してくれたものは吐きそうになりながらも残さず食べた。それが礼儀だ。味わったり、体のことを考えたりしてたらイカン

()。見習いにマイペースは許されない。体で元気を表すのが仕事だった。

だから、疲れた素振りも見せなかったし、穴掘りなどのキツイ仕事でも休めと言われるまでは一呼吸も入れなかった。

そのかわり、アパートに帰るとバタン、キュー。銭湯に行く気力もなく気付いたら朝だったこともある。こんな朝のザーザーという雨の音は、とても気持ちの良い響きだった

()

それでも3年目になると

トレーニングジムに行ったり、公園で懸垂してから帰るほどになっていた。

職人の粋

庭師の服装と言えば、半纏、腹掛け、手甲、脚半に地下足袋、乗馬ズボンか股引を思い浮かべると思う。上から下まで藍色で統一した服装は、庭師にとっては憧れの、粋を感じる服装だ。

この会社でも、昔はそうだったらしいが、私が入った頃はウルトラ警備隊のような格好をしていた(笑)。ウルトラ警備隊は地球を守る。庭師は庭を守る。

社長の趣味だったのかはわからない。だからか、よけいに憧れたものだ。

ちなみに、今は、半纏、腹掛け、股引はしてないが、手甲に地下足袋、乗馬ズボンを着用、藍色で統一している。

見習いは、やれと言われたことをとにかく夢中になってやる。梅の剪定枝のかたづけをしている時、親方に「待て!」を掛けられたことがある。別に、私の動きがこう着状態になったわけではない(笑)。

「枝を良く見てみろ

! 蕾がついてるだろ。これから咲くんだ。いい枝みつくろってお客さんに届けてこい。」

剪定した枝はゴミだと思っていた(笑)。こんなところにも庭師の粋を感じた。

良いことを教わったと、今は、支柱の余った竹で花入れを作り、剪定した枝などを入れてお客さんに差し上げている。

桜の時期、役所仕事で桜の植栽をした時も、「これは仕事で出たゴミですから、賄賂ではありません。もったいないので、どうぞ!」と担当課に届けたことがあった。

弟子達が現場でケガをしたりして心配かけたお客様にも、弟子にこんな花入れを作らせ、季節の菓子などを持たせて快気の報告に行かせている。金をかけない誠意は庭師らしいと思っている。

「金を使うな。心を遣え。」と教えられたものだった。

二級技能士に挑戦 

3年目、一つ上の先輩と一緒に二級技能士を受けた。

剪定の課題は無いが、それまで先輩方の手元だった四ツ目垣や飛び石を一人でやらなければならない。一人でやるのは初めての経験だった。

会社に畑は無いから、毎夜、時間を計りながら道具を使う動作をしてイメージトレーニングをした。新聞を丸めて竹に見立てたりもした。

試験には実地と学科、樹種判定があった。少しは有った知識に、経験の裏付けが出来たので、心配なのは試験日の猛暑と緊張だった。

試験では、道具の管理や挨拶などの態度も見られる。審査員の先生は、その辺の植木屋の親方なのだが、会社名と名前を言って元気良く挨拶した。先輩と一緒に受けたのも心強かった。

なんとか合格。この試験が、庭つくりや職人の良し悪しの基準になるかどうかは別として、一人でやりきれたことは自信になった。部屋で、一人で「柱の穴を掘ってるつもり」とか「竹を切ってるつもり」とか言いながら体を動かした甲斐があったというものだ。人に見られなくて良かった

()。先輩は・・・学科が来年に持ち越しになった。

さらば東京

                                                                                   

そんなこんなで長くて短い3年間の修行が終った。

形としての成果は、2級施工管理技士と技能士、クレーン、建設機械の資格を取ったことくらいか。


社長には、よくも何も出来ない見習いを3年間も我慢して使ってくれたものだと本当に頭が下がった。皆に良くしてもらった。一番下っ端のくせに先に出て行くのは都合が悪い。やっと戦力に成りかけた時に、迷惑かけっぱなしで辞められるのは本当に痛いものだ。戦力外だったかもしれない(笑)。

少しだけ自信が付いていた。剪定しか出来ない植木屋で終るか、庭を作る庭師を目指すのかで悩んだ時期もあったが、他力本願の「弱い志」が少しだけ大きくなっていた。ようやく庭師になるためのスタート地点に立った。




庭師への道

TOPへ戻る