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 能代港は、秋田県内の諸港の中で最も古い歴史を持っており、(658年)越国守阿倍比羅夫が軍船180隻を引いて蝦夷征伐のため上陸したのが能代港だったといわれている。『斎明記』また『続日本記』には、光仁天皇の宝亀年中、渤海国の使臣壱万福等350余人が船10隻に乗り野代(能代)に着いたことが記されている。

 野代は安土桃山時代に秋田城介寛季の領下にあり、野代奉公の治下にあったが、関ケ原の戦い以後は佐竹義宣がこれに代り、藩北部の物資集積地とするため材木受勘定所を設置(1611年)した。これにより野代は飛躍的に発展し、日本海側有数の港町として繁栄していった。

 元禄7年(1694年)及び宝永元年(1704年)に大震災にあい、それまでの地名「野代」は「野に代る」と読まれ縁起が悪いということで、『よく かわる』の 能代(のしろ) と改められた。 幕末になると外国船出没に伴い、港は海防の要地として、その賑わいは極に達したと伝えられている。

 能代は明治4年7月の廃藩置県の大改革により秋田県に属することになり、明治22年4月町村制実施に伴い、『能代港町』と称され、戸数2,290余戸、人口10,780人を有した。
明治30年頃、水戸の井坂直幹氏により、当時、無尽蔵とされた良質な秋田杉の利用開発が志され、機械製材の技術を導入。明治40年には、秋田木材株式会社が設立され、その他大小の製材・木工・機械工業が設立。文字どおり木都・能代の名声が海外までも及ぶにいたった。

 一方で、河口港として発展してきた能代港の土砂堆積は年々著しく、また、日本の船舶は汽船時代となったため、木材を積んだ大型船舶は入港できなくなり、船は3〜4kmも沖合に投錨し、貨物の陸揚げや積み込みは、艀に頼るという状態となっていった。

 そんな中でも能代港へは大量の木材が輸入され、能代港の利用がピークにさしかかった大正11年に内務省告示第131号により指定港湾となり、大正14年には汽船の河口荷役も行なわれ、363隻(81,041トン)の入港、北洋材だけでも59,915トンの輸入があった。

 昭和18年には、秋田杉の木造輸送船に着目した軍から要請により、松下幸之助氏が米代川河口付近に松下造船(株)能代工場を設立した。排水量250トンの木造船専用工場として大規模工場が2棟配置され、流れ作業方式により建造が進められた。

 戦後になると、米代川の改修工事と共に、港の整備も始まり、昭和21年港湾協会による改良計画が樹立され、昭和23年からの港湾整備五か年計画の一環として整備された。この計画は、米代川を航路泊地として利用する河口計画であったが、導流堤により河口航路を安定させる工事であったため、予期した効果が上がらず、昭和40年からの港湾整備計画では、航路を掘り込み米代川と本港とを分離した計画が策定された。

 その後、第4次整備計画における掘込港湾の整備が進み、昭和49年8月、5,000トン級船舶の入港が可能となり、植物防疫法による指定港、並びに関税法による開港指定を受け、待望の開港となった。昭和50年度からは大森地区に15,000トン岸壁工事が着工し53年度に完成した。
さらに、平成4年改訂の港湾計画により、大水深岸壁の整備を始めとする流通拠点としての機能の充実、産業基盤の拡充など、地域活性化の核としての整備が進められ、平成5年度着手の40,000トン岸壁は、平成13年に供用が開始された。
平成18年12月には、総合静脈物流拠点港(リサイクルポート)に指定され、秋田県北地域が推進している「秋田県北部エコタウン計画」と連携し、リサイクル関連貨物を取り扱う静脈物流の拠点港として活用されることが期待される。

 一方、エネルギー需要の増大、多様化に対応する石炭火力発電所の立地が昭和54年に決定し、昭和56年には重要港湾に昇格するとともに、エネルギー港湾としての施設整備及び石炭火力発電所用地(発電所用地 110ha 灰捨用地 54ha)の造成工事に着手。昭和60年には用地造成が概成した。
能代火力発電所は、平成5年に1号機が、6年12月には2号機が営業運転を開始した。さらに28年2月には3号機の建設が開始され、32年6月の運転開始を目指し、工事が進められている。
また、地球温暖化対策の重要性が増し、再生可能エネルギーに対する社会的ニーズが高まるなか、能代市周辺では風力発電の導入が進んでいる。現在、能代港や一般海域における洋上風力発電の計画が事業化に向けて調査が進められており、エネルギー拠点港としてのますます発展が期待されている。