『ボクの学校は山と川』       
                         
              
矢 口 高 雄

 みなさんこんにちは。矢口でございます。ボクも今回で5回目、そして最後ということになりましたが、白神自然文化賞、5回審査にあたらせていただきました。今回の受賞者のみなさん本当におめでとうございます。5回やってきて、この賞の行方って、どうなるのかなと思いながらみてまいりましたけれども、5回目に至って、この賞を設けた意味が一番表れたのが、今回ではなかったかなと思います。その意味では一番この賞の目的にふさわしい結果が出たと、大変拍手を送っております。それは今回、一般の部で大賞になりました伊藤先生の文でありました。これはつまり、“白神山地を、教育の場として活用していこう”ということですね。大変すばらしいことで、ボクも当初、この賞の審査にあたっている時に、『やっぱりこれからは、青少年の育成のために、この森を、白神山地を使っていくべきだ。』という考えを強く持っていましたので、大変嬉しく思いました。この伊藤先生の掲げている“白神山地を教育の場に”というのは、なんとボクの今日の演題そのものではありませんか。「ボクの学校は山と川」。
 
 ボクらはこれをすでに昭和の20年代に行ってきました。ボクは昭和21年に小学校1年に入ったんですけれども、つまり、その時はまだ国民学校ではありましたが、敗戦の1年目にあたるわけですから、戦後の民主主義教育の第1期生だと自負しております。
 その頃、学校帰りになりますと、クラスの担任の先生が、必ずこう注意しました。「みなさん、今日も道草を食わないで、真っ直ぐに家へ帰りなさい!」まぁ戦後の貧しい、不自由な時代でしたので、ボクらはそんな先生の注意なんかに聞く耳を貸すもんじゃないんです。もう、学校帰りになったら、あっちこっち寄り道をしながら、まさに語源どおりに、道端の草を掻きむしって、空腹を埋めながら帰るのが毎日のことでした。
 道草というのは、“寄り道をしながら、無駄な時間を費やす”という意味ですけれども、この語源はおそらく、人間が牛馬を飼うようになってから生まれた概念によるものだと思うんです。牛や馬を引き連れて目的地に行こうとする。牛や馬がお腹を空かしていると、道端の草が食べたくて、さっぱり言うことを聞いてくれなくて歩いてくれない。だからしょうがなく、しばし休憩ということで道端の草を食べさせる。これは目的地まで行くのに、ちょっと時間を費やしてしまうわけですから、まさに“無駄な時間を費やした”という意味で“道草”だったわけですね。当時の学校の先生は、その道草をするなと言ったんです。 しかし、ボクらにとって果たして道草というのは時間の無駄な浪費だったのでしょうか。無駄な時間を費やしたことになったんでしょうか。伊藤先生が今日、ここに3枚のパネルを置きました。あれは何のことはない、道草そのものではないのでしょうか。今日、学校の教育がそのように変わってきたんですね。小学校の低学年の方ですか、高学年の方ですか『生活課』というのがすでに実施されています。それから来年度あたりからは、中学校にも高校生にも『総合学科』というのができて行われることになっています。今、それの研究会を盛んに先生方がやっているんです。これには教科書がないんです。それで、先生方が今どんなことをやろうかと行っていることが、まさにボクらが道草で覚えたことを、今は授業のカリキュラムの中で教えようとしている。世の中変わったもんです。
 
 ボクたちの頃は、なにしろ戦後の貧しい時代でしたから、お腹を空かせています。家に帰ったところで、インスタントラーメンがあるわけでもない。まさに道端の草を掻きむしりながら、食べて帰る。ぼくも藤里に負けないくらいの山深い所で生まれ育ちました。春になると、一番最初の道草は田んぼのあぜ道に生えるスカンポから始まります。季節が進んで、今頃になりますと、道草は非常に豊富になってきます。さらにもうちょっと夏に進みますと、山にはツツジが咲いてきます。あのツツジの花がおいしいんですよね。ここにはボクらと同じくらい、あるいはそれ以上年配の方がいますから、きっとボクらと同じことをやった方がいらっしゃると思いますけれども。もっと夏になってくると、最高の道草はクワの実なんですね。これはおいしいです。甘くてね。秋になると、もう道草に不自由することはないんです。ちょっと道から外れて山の中のヤブにもぐり込めば、アケビはブラブラなってる。山ブドウは食べられる。栗はあかるんで落ちている。こんなことをしながら、ぼくらは道草をして、帰ったわけなんですけれども、ひとつ道草を食いっぱぐれないためには、やっぱりそれが生える場所とか。いつ頃が旬であるとか。あるいは村のあそこの栗の木が、何月何日には必ずあかるんで落ちるとか。“あかるむ”というのは、ボクの県南弁ですけれども。、どうなんでしょうか。この能代の方では“あぜる”とか、何とか言うんでしょうか。栗の毬がパックリと口を開けて実が落ちるということなんですけどもね。もちろんキノコもあるわけですし。
 
 冬になるとこれが困るんですね。なにしろボクの故郷は3mぐらいの積雪に見舞われるんです。それに、今のように町や市が、あるいは村が、ブルドーザーを手配しながら除雪をするという時代ではないわけですから、登校するとなったら、朝の6時ぐらいには家を出なければならない。そうですね、小学校で片道2キロありましたし、中学校になると8キロぐらいあるんです。冬の朝の6時だと、まだ薄暗いですよね。その頃に、中学3年生の男の子が先頭になって雪をこぐんですね。雪をこいで初めて道がつくれます。一晩で70〜80センチ雪が積もりますから。そうやって、後ろからついてきた生徒達によって、初めて次の集落までの道がつくられる。だから、学校へ着いたら1時間目が終わってる。2時間目が始まってる。ということも、しばしばありました。この冬になると、道草は何もないんです。だからアレが困るんですね。一人ひとりしか通れない道しかないんですから。それで、通学距離が長いですから、途中でウンコが出たくなったら、もう逃げ場がないっていうかね。夏でしたらヤブに隠れれば「我が世界」なんですけれども。そうやって、まあせいぜい退屈しのぎに冬の場合は、オシッコで文字の練習をしながら帰るというような日々が続くわけなんです。この間、ボクは、みなさんの中にもご覧になった方もいると思うんですけれども、NHK総合テレビで「ようこそ先輩 課外授業」というのをやりました。そこで、小学校6年生ぐらいの子供達。ボクの学校は、ボクが学校に入っている時のクラスは25人くらいだったんですが、これが一番少なかった。そのあと、ベビーブームの頃になりますと、35、6人ぐらいおったわけですから全校で200人を越えるというくらいの人数がいたんです。けれども、この頃じゃ山奥の学校に一校統合しても、6年生までで全校で40人ぐらいしか生徒がいない。6年生の1クラスが、全校でたったの7人という生徒でした。こうなりますと、当然のことながら教育の効率のようなものを考えて、この学校を廃校にして、本校と一緒に統合しようということで、今、ボクのふるさと増田町に小学校が1校だけ、中学校も1校だけということになりました。かつては小学校でも5校あったんです。それが今、1校になってる。人口過疎の問題もあり、それから少子化という、地方行政には悩みの多い命題を抱えて、こういうことになったんですけれども。こうやって学校を統合すると、当然のことながら通学距離がものすごく長くなるんですね。それで、学校当局が、教育委員会が考えたことというのは、スクールバスなんです。みんなでそろって、スクールバスで登下校ということになれば、道草食うチャンスが全くない。ということで、この7人を相手にボクは、『みんなで道草をしてみようじゃないか』と。『ボクは道草で、すごい多くのことを学んだから、でも先生にいつも注意されたけど、道草は、けっしてボク達にとって無駄な時間ではなかったんだよ。その証拠に見てみなさい、ボクの代表作である「釣りキチ三平」というのは、全部道草で覚えたんですよ。これが今、商売になっているんですよ。こんなにすばらしいことを、かつての先生は「時間の無駄だからやめろ」と言ったんだ。けれども、今日の教育ではそれがすばらしいことだと認めて、学校のカリキュラムに入れることになった。』と話したのです。
 
 そういう時代の流れの中で、伊藤先生の発表なさった文章というのは、まさに時代の追い風を受けながら、“山や川の道草を学校の授業にしてしまおう!”という発想だったんですね。これはもう「釣りキチ三平」の原点なんです。もっと教育者はそういうことを考えるべきだったんでしょう。けれども、なにしろ貧しくて、忙しい時代だったので、子供が早く学校から帰ってきて、田んぼや畑で手伝うことが美徳であり、農業を推進していくために欠くべからざる、幼きパートナーでもあった時代のことだったんです。都会の子供だったら、蛙の卵からオタマジャクシになっていく過程を学習することは非常に難しいです。しかし、ボクらはこの道草の過程で、田んぼのあぜ道を歩きながら、毎日それを観察できるということがあったわけなんです。その道草で観察したことを一つ御披露したいと思います。
  
 小学校4年生の時にボクは『今年の夏休みの課題は、自由研究で昆虫採集をしよう!』と決めて取り組んだんです。昆虫採集。今だったら、採取用具一式ぐらいはデパートあたりに行っても、文房具店でも買えるような時代ですけれども、その頃はそんなものはない。売ってないんです。仮に売っていたとしても、買えるようなお金もないんです。便所のウラあたりから赤く錆びた針金を持ってきては輪っかを作って、網は使い古しの蚊帳です。それをおフクロに縫ってもらうなんてこともなく、おフクロは毎日縫い物をしていましたので、繕い物をしていたので、見よう見まねで分かるんです。自分で網を縫って作るんです。なんでもかんでも自分達の工夫で作っていくということなんです。最初は、チョウもトンボもカブトムシも、足が6本あるものなら全部昆虫だということで、無作為に集めてたんですけれども、そのうち5年生ぐらいになると、チョウ一辺倒に変わっていったんです。おそらく理由は、幼いながらにチョウの鱗粉がおりなす怪しいまでの輝きというのが、きっと心をとらえたんだろうと思うんですけれども。チョウを採る。これはもう山里ですから実に簡単にいきそうで、どこに行ってもチョウがいると思いきや、そうでもないということが、“チョウ採集”という道草でボクは学習していくわけです。「どこに行けばチョウが上手く採れるんだろう?」
 裏山に広大なソバ畑がありました。真っ白い花で山全体をうめている。ここは昔は、鬱蒼たる杉林だったんですね。ところが、戦争で関東や関西方面が空襲でめちゃくちゃにやられてしまったわけです。それで、戦後間もない頃に、それを復興させるための復興材として国が強制的に杉林という杉林を切らせたんです。ボクと同じ年代の方でしたら、その日のことをお分かりでしょうけれども・・・。それまでは、ボクの村の道というのは林道ですから、馬車1台がやっと通れるくらいの砂利道でしかなかったんです。それが、にわかに道路拡張工事が始まりまして、トラックやバスや自動車なんて見たこともない村で、にわかに道路が拡張されたものですから、どんどん、どんどん毎日のようにトラックが入ってくるんです。つまり、復興材として伐採した杉の丸太を満載して運んでいくんです。俄に拡張したために轍がひどい。轍がひどいもんだから、トラックの速度なんていうのは、時速2キロから3キロ。これはちょうどボクら小学生が駆けていって追いつけるぐらいの速さなもんですから、学校帰りにはそんなトラックを待ちながら、運転手に隠れながらサーッと後ろのリアゲートにぶら下がって、『楽ちん、楽ちん』で家に帰る。今、こんなことを生徒がやったら、もうどんなことになるんでしょうね。だけれど、親たちは、そんなことなんか見ている、管理している、暇もないぐらい忙しい時代ですから、親たちの厳しい管理もない中で、ボクらはそんな冒険をしながら学校帰りをしたんです。
 
 しかし、その頃、わが村の四方の山々の杉林が、まるで切りカブを残した坊主山になるのに、ハゲ山になるのに、3年も要しなかったんでしょうか。そうなった時に、それまで村人が一度も体験したことのない事態が起きたんです。それは、それまでちょっとした雨だったものが、今度は、川がたちまち真っ赤に膨らんで、大洪水の連発なんです。村の土橋があっという間に流される。土場に積んであった丸太がどんどん、どんどん流されていく。そんな光景を、ボクらは毎年のように見続けるわけなんです。だから、“山の木を切れば洪水が出る”というのは、ボクらにとっては理屈ではなくて、目の前の現実だったんです。既にここで、ボクらはその自然の道理みたいなものを学ぶ結果になるわけです。なにもイカダで下らなくても分かるわけです。その抜根だけになった山を、今度は開墾するわけです。戦後の食糧難の時代でしたから、増産増産というのもこれも国の省令だったんです。それで、最初は、いちばん痩せ地に適しているソバを蒔いたわけです。
 真っ白いソバの花の絨毯が広がるんです。その中にスーッと身を埋めて、首だけを出して、捕虫網を抱えていると、たくさんのチョウが集まってくるんです。最初は、花があればチョウが集まってくるという理屈を覚えるわけです。チョウっていうのは花の蜜を吸っているわけですから。しかし、それだけではないということをだんだん学習していくんです。もうひとつは、チョウが来る、行くという条件の中には、食草が必要であるということがわかってくるんです。それを知ったのは、その裏山に大きなサンショウの木があったんです。ある時、チョウ採集に登っていったら、そのサンショウの木におびただしい数のアゲハチョウが群がっているんです。『なにをしているのかな?』とじーっと見てた。もうアゲハチョウは採集済みですからね。しかし、すごい数のアゲハチョウだなと思ったら、タマゴを生みつけているんですね。その時は気づかなかった。しかし、その後、タマゴが毛虫に孵った途端、そのサンショウの木が丸裸になるぐらい食い尽くされていたんです。この時にボクは、アゲハチョウの食草がサンショウであるんだということを発見するんです。『あっ、チョウが生きていくためには、まずタマゴを生む。タマゴを生んだら、タマゴから孵った毛虫、あるいはアオムシが食う葉っぱ。そのかたわらにタマゴを生むんだ』ということを発見するんです。学校の先生なんか、そんなことを教えませんよ。それで、3つ目は、これはすごい発見でした。『お花畑の近くに小高い森があるということが重要である』ということを、ボクは発見するわけです。その発見した動機はこんなことでした。白いソバ畑に身を沈めてチョウを待っている時です。もちろんたくさんのチョウは来るんですけれども、例えば、ヒョウモンだとかタテハ科とか何とかいうチョウはもう採集済みで、ボクが狙っていたのは“ルリタテハ”という、タテハ科の中で真っ黒いカラス色の羽の中に、瑠璃色の筋がスッと入っているんです。これがまた用心深くてすばしっこくて、なかなか採れない。これを狙っていたんです。フッと気がついたら、そのお花畑の中に全然チョウが一頭もいなくなった。チョウはゾウのように一頭二頭・・・と数えるんです。「あれっ?!どうしたんだろう?」と思って、空を見上げたら、空が真っ黒い雲に覆われて、ザーッと降ってきたんです。「こりゃいかん!こんな夕立に濡れちゃいかん!」と思ってボクは一目散に走った。ソバ畑をダダダダダッと登っていくと、広大なブナの原生林があるんです。この下でしばし雨宿り。と洒落てみたわけです。こんな、抱きまわされないぐらいのブナが生えている。それで、当然、葉っぱで覆っているわけですから、雨だれはたれてきますけれども、とりあえず雨露はしのげるんです。そうやって夕立をやり過ごそうと思って、ひょいっと葉の裏を見たら、なんと、今までソバ畑を乱舞していたチョウが全部、その葉っぱにしがみついて雨宿りしているではありませんか。第3の発見はこれでした。
 
 この小高い森があるということは、雨や風が吹いてきた時でもすぐそばに避難する場所がある。これが大切なんだなぁ。これがチョウの住む条件になるわけですね。狙いを定めたルリタテハ。このルリタテハがボクの目前に表れた時は、ボクの心臓は爆発しました。ところがすばしっこい。サーッと逃げていく。ボクはもう一目散にそのチョウの後を追いかけました。捕虫網を抱えながら。そのチョウはなんともすばやく、ブナの原生林の中に飛び込んで行ったんです。『チョウはもう疲れて葉裏にしがみついているだろう』と、ボクは想像して、ブナの森の中にどんどん、どんどん分け入って行った。白神山地の、よく知っているみなさんは、あの岳岱のあたりに、ボクが迷い込んだと思って下さい。まあ、何度かそのブナ林の中には、ボクはそれまで入っています。特に、秋になると、サクラシメジというシメジが生えます。おフクロによく連れて行かれて、ボクはサクラシメジを採ったものです。ピンク色したシメジなんですけれども、あれはちょっと毒があって、そのまんま生では食えない。だから、塩蔵しておいて毒を抜いてから、そうですね、ボクの田舎ですと、正月のお煮染めに必ずつく。ということで、ボクはこのブナ林には、けっこう出入りをしていたわけです。しかし、肝心のルリタテハは完全に見失しなってしまいました。でもどっかにいるはずだ。どのくらいさまよったか、にわかにブナの原生林が切れてパアーッと明るくなったんです。見たらそこはちょうど、その当時は後楽園球場なんて知らないわけですから、そういうふうな思いはなかったんですけれども、今で言えば、後楽園球場、東京ドームよりもちょっと小ぶりな程度の広さで、そこだけスッポリ、ブナが生えてないんです。そのかわり、そこには背丈を越すヨシ、アシが密集しているんです。
 今、ヨシ、アシと言ってしまいましたけれども、「葦」と言うのが正しいわけですが、葦では「悪し」に通ずるから「良し」としようと言うことで、「葦」と言う言葉も生まれたんですね。そういうのを『忌み言葉』と言うんです。県南部で言いますと、「漬け物をはやす」という言葉を使うんですけれども、これは結婚式みたいな時に「切る」とかと言うと忌み言葉になるんで、「はやす」と言う言葉が生まれたんですが。
 
 それで、葦の茂みが東京ドームぐらいの広さに生えてる。それを見た途端、ボクはここがどこであるかすぐに分かったんです。村人の間では通称“あま池”と呼ばれる所でした。そしてここは、おフクロから何度も注意されていました。「そんな所へ行ったら、絶対その葦原には足を踏み込んではいけませんよ。その中には底なし沼がいくつもあるの。あれに落ちたら生きては帰れないから、絶対に踏み込んじゃならないよ・・・!」と、ボクは注意を受けていたんです。ここが“あま池”と言うのは、後年、大人になってから分かることなんですけど、亜寒帯特有の現象で、湿原なんです。ですから、元々はそこは、浅い沼や池だったところに、湿性植物が生えて、次第に水面を覆い尽くしてしまったというのが、湿原現象なんです。
 ところが、人間には“怖いもの見たさ”という心理も働くわけですし、少年・矢口高雄の冒険心は、とうとうおフクロの注意をはねつけていました。気がついた時には、ボクは捕虫網を抱えたまま、背丈を越す葦の草むらをグイグイとかき分けて中に入っていったわけです。枯れては生え、枯れては生えと言うことを、何十年も何百年もおそらく繰り返してきたであろう。しかし、その葦原というのは、足を踏み込んでいくとトランポリンのような弾みがあるんです。『これはなんか、この下は水だぞ!?。水の上に皮一枚被っているような感触だぞ・・・!?。』ということで、急に怖くなってきたんです。それで、『もう帰ろうか、やっぱりこれはダメかもしれないな。』と思って、ひょいと前を開けてみたら、プッカリ、直径にして1.5メートルぐらいのところが、ちょっと水溜まりになっていて、そこには葦が生えてないんです。『何だろう?。ちょっとした水溜まりがあるじゃないか。』水溜まりの周りには、“サワギキョウ”と呼ばれる紫色のキキョウが、ポツポツと5、6本生えているんです。
 
 『これは何だろう?』と。枯れている葦がその水溜まりをふさいでいるわけですから、“ヒョイ”っと、捕虫網の枝で除けてみたんです。覗いて見てびっくりしました。まるで地獄へ通じているように、ずーっとまさに底なし沼なんですよ。これも後で分かったんですが、こういった葦が堆積していって、湿原現象をつくっていけば、やはり腐敗するわけですから、多分あれはガス抜き穴みたいにできているのかもしれません。『これがおフクロの言ってた底なし沼なのか・・・!』と思ったら、足がガタガタ震えてきて、『これはダメだ!。もう帰ろう!。』と思ってきびすを返して、1歩2歩・・・と、静かに足下を注意しながら、後ろを向いて帰り始めた時に、目の奥になんかチラッと残像が写ったんですね。この水溜まりだと思っていた底なし沼の池の周りに、サワギキョウが生えている。このサワギキョウの周りを、何か赤い物がプンプン飛び交っては止まったりしている。『ハチかな!? アブかな・・・!?』。でも、心配ないんです。ボクは大得意な捕虫網を持っていますから、『よーし、帰りがけの駄賃にコイツを採取してやれ!』、“シュッ”と、一振して、その得体の知れない何かを採取したんです。採取した時にひょいと見たら、何と穴ボコがあっちにもこっちにもあるじゃないですか。『もうヤバイ!!』。すたこら、すたこら来た道へ引き返して、やっとのことでブナの原生林まで辿り着きました。それで、安堵に胸を撫で下ろしながら、『さあ、さっき捕虫網に入れた得体の知れないものは何だろう?。ハチだったら刺されるかもしれないな・・・。』と、思いながら網をすぼめていったら、見てビックリしましたね。なんとすくい上げたそれは、羽を広げても2センチにも満たない、小さなトンボたったんです。このトンボを捕まえた時、ボクは「タカオトンボだ!!」という声を発していたんです。
 
 その頃ボクは、新種のチョウを発見したら、“タカオチョウ”と、名付けようと、傲慢にもこんなふうに考えていたんですね。それはたまたまボクの学校の先生が、「物事には必ず学名というものがある。和名というものがあって、学名というものがある。」チョウの学名なんかを見てみますと、必ず『マキノ』という人がよく出てくるんです。これは日本の昆虫分類学者のマキノ博士が分類したということで、何とその学名の後ろに「・・・マキノ」と自分の名前をつけているんです。例えば、みなさんよくご存知の“イネ”。イネというものの学名は、ラテン語で書かれているんですが、“オリバ・サチバ・リンネ”この『リンネ』と言うのが、世界的な分類学者で、あらゆるところにリンネという名前が出てくるんです。こういうことをボクは5年生の段階で知ったので、『・・・タカオ』というのを付けたかったわけで、あるいは和名「タカオチョウ」とか「タカオトンボ」と付けたかったんですよ。「タカオトンボ」発見なわけです。ボクは大股にそのブナ林を下りて、歓喜を上げながら、まっしぐらに小学校の図書館に入りました。それが、10分後にはうなだれて出てくるわけです。なんと、そのトンボは既に発見されていて、「ハッチョウトンボ」と呼ばれていたということなんですね。
 
 道草は、決して無駄な時間の浪費ではない。現に伊藤先生のやっている教育は、私達が昭和20年代にやっていたことを、今に復活させている!。このように申し上げておきたいと思います。実は今日、「ボクの学校は山と川」はまさに、この現代にふさわしいタイトルだろうと思うんですけれども、これは1988年ぐらいに、ボクが初めて書き下ろしで書いたエッセイ集のタイトルで、この昭和20年代のボクの小学校、中学校時代の山奥の道草体験みたいなものの数々を、あるいは学校生活なんかを綴ったもので、『こんなもの売れるだろうか・・・?』と思ったんですけれども、出版社の人間が「いやー、『釣りキチ三平』見てると、先生の体験そのものを書いてくれた方が、しかも文章で書いてくれた方が、絶対今の子供たちの大切なバイブルになるかもしれないから。」と、そそのかされて書いたんです。
 
 ボクは文章なんて綴り方ですから、辞書で引くのが面倒くさい。『えいっ! カナで書け!』なんていう程度で書くんですけど、書いたらスゴイことに、これがバカ当たりすることになるんです。発売して1週間も経たないうちに、NHKのラジオ番組の「私の本棚」という番組で、あっ、ここからは秋田県人の自慢コ話が始まりますからね。ラジオから「『私の本棚』という番組で朗読させて下さい」という話が舞い込んできまして、朗読放送が始まるわけです。もうそれよりもちょっと早めに、発売して1週間もしないうちに、ボクのところにジリンと、電話が鳴って、「実は私どもは、教科書を出版している会社の編集のものですが、いやー、今回の『ボクの学校は山と川』おもしろかったです、良かったです、大感動しました。つい読みふけって山手線を一周しました・・・。実はこの本の中の一文を、昭和65年つまりは平成3年度の改訂版の我が社の中学1年の国語の教科書に採択したい。ぜひご許可をお願いします。」 あー、たまげましたねー。もうせいぜいラブレター程度の文才しかない、ボクの書いた素人の文章を、文部省の国語の教科書に載せたいという御人がいらっしゃる。“ツラが見たい”。やがてそのツラが、我がアトリエにやってきました。「もう先生、句読点が怪しいのなんのなんて言わないで下さい。大丈夫です。ちょっと先生の文章が教科書に載ったら、こんな感じになるってことをつかんで頂きたくて、教科書台に打って参りました。」なるほど、6、7ページに渡って教科書台に打ってきたボクの文章を見て、「カジカの夜突き」というタイトルなんですが、下には作者の名前「矢口高雄」と書いてあって、書き出しもボクが書いた文章なんです。でも、あの教科書台というのは、不思議な魔力があるんですね。夏目漱石が書いた文章かと思いましたよ。もうすっかり気分良くなって、ギャラもくれるって言いますから、もうボクは30分後にはハンコを押していたんですけれどもね。それで、ハンコを押して、『帰るかなー・・・?』と思っていたら、採択書をアタッシュケースにスッとしまいこんで、ツラが「あっ、実は先生、もう一つお願いがあるんです。これは先生の書いた文章です。しかも先生はイラストもプロです。ぜひ子供達のためにイラストを描いて下さい、お願いします。」ということなんです。この言葉を聞いた時ボクは、一気に中学生の頃にフィールドバックしました。 中学生のボク。もう小学校3年の時から、「大きくなったら手塚治虫になりたい!」と夢を持ったマンガ少年だったわけです。そんなマンガ少年の考えることですよ。『この世の中に本という本は数々あるんだけれども、学校の教科書ほどおもしろくない本はあったもんじゃない!!・・・』。マンガ少年の考えることですよ。『これが全部マンガでできてたら、どんなに勉強が楽しいことだろう・・・』。まず、教科書が全部マンガになったならば、この世から「予習」という言葉はなくなるんです。だってそうでしょう。一学期分全部教科書が渡ったんだけれども、生徒は2日もあれば全部読んじゃう。さらに「復習」という言葉も、死語になっちゃうかもしれない。『あっ、あの矢口先生の描いたところ、おもしろかった、もう一回読んでみよう』。二度も三度も読み返す。さぁ、そんなことを夢見ていたボクの“夢”が、今、目の前にあるじゃないですか。ボクは思わずオクターブ声が上がっていましたよ。「ボクに真っ白い1ページを下さい。その1ページに、ボクの得意のマンガでやらせて下さい!」「・・・マンガですか?」と、途端にツラがボクを哀れんだような顔をするんです。「そうですよ!これは、マンガの教科書というのは、ボクの中学生の時からの夢だったんです。もし、できないと言うんだったら、あなたの本が日本で最初にやって下さい」「帰って、編集長と相談してみます・・・」なんかトーンダウンしてるんですね。それで、3、4日ぐらいしたら、ジリリと、また電話がかかってきて、向こうの方が2オクターブ上がっているんですね。「先生通りました!。編集長も編集委員も全員が大賛成です!。ぜひ、先生の大得意なマンガでやって下さい!。真っ白い1ページもあげましょう。さらに、3分の2ページぐらいのカットも描いてもらいます。
 
 それから、もう1点。今、国語の教科書は最初の7、8ページぐらいにカラーグラビアがついているんです。これはどういうことかと言いますと、例えば“緑したたるアマゾンのジャングルは・・・”という記述があれば、そのアマゾンの空撮写真を載せたり、“地球は青かった”という宇宙飛行士の記述があれば、宇宙船から見た青い地球のカラー写真など、載せているんですよね。これは、どういうことかというと、文章というのは、情景描写に非常に苦手なものを持っているんです。「どういうことか?」。例えば、今まだ3人か4人くらいいますね、オウム心理教の逃走犯人。あれの手配ポスターというのが、フロ屋の番台だったり、警察の掲示板だったりに貼ってあるでしょ。あのポスターの写真を除いて文章に書いたら、分かる人いますか?。分からないでしょう。文章というのは、そういう情景描写ができないんです。そこに『絵』というのは、すごくビジュアルだし、人に、誰にでも分かる説得力があるんです。ついでに言いましょう。文章はもちろん、氏名や人名を表記してみたり、歴史や会議の議事録を書き留めてみたり、という機能を持っているんだけれども、同時に文章ならではの機能というのもあるわけなんです。これは我々の心理描写。内なるもの。これ、心の中だから形がない。形がないものは、絵にも表すことができないわけで、文章が最適なんですね。
 昔、ボクたちは、手塚治虫先生を始めとして、「マンガは下らないものだ」と言われ続けてきたんです。“小説を読みなさい”この中にもいるんじゃないですか?。「マンガばっかり読んでるとバカになるぞ」という親たち。それで、自分の子供が“世界名作全集”なんて読んでいると、ホッとするような親いませんか?。なんか、小説を読めば非常にいい子になってくれるんじゃないか。小説とマンガというのは比べられないんですよ。マンガを低く見てきた方、よーく考えて下さい。小説とマンガというのは比べられない、次元が違うものなんです。牛と馬を比べるようなものなんです。牛乳がとれる。ついでにバターやチーズなどの乳製品も作れる。馬がこんなことできるか?。モンゴル辺りの遊牧民族は“馬乳酒”というものを飲んでいるらしいけど、馬のオッパイを利用するということは、これ以外聞いたことがない。牛の勝ちです。今はもう暖かくなってきたから、もう、そのシーズンではないけれども、すき焼きあるいはステーキ。東京の両国辺りに行けば、桜ナベと言って馬を食べますけれども、やっぱり牛肉ということで牛の勝ち。でも、東京競馬場で、何十億稼ぐ馬がいるんだ・・・。
 機能が違うんです。機能が全然違う。つまり、今言ったように情景描写に優れている絵。心理描写に優れている文章。ということで考えてみればいいわけです。しかし、この情景描写に優れている絵と、心理描写に優れている文章を合体させたのが、マンガなんだよ。そうすると、この“マンガ”っていうのがいかに優れているジャンルであるかっていうのを、ボクはマンガ家になって今年で33年になるんだけれども、ひたすら信じてマンガを書いてきたんです。こうやって絵と文章の機能の違いということでやってきましたけれども、教科書にカラーグラビアがついているということは、文部省は分かっているわけです。文章は、情景描写に適していない。それを補うために、カラー写真だとか、絵とか、グラビアを載せているんです。「そのグラビアもぜひお願いします。先生の思い入れているマンガを、思いの丈に描いて下さい。」
 いやー、描きましたよ。そして、それが現在使われているんですね、全国で。日本の教育史上、初めてのマンガ入りの教科書がでたわけです。なお、『ボクの学校は山と川』『ボクの先生は山と川』のエッセイ集の中から、その他に高校1年の国語の教科書に1編、高校1年の英語の教科書に2編、更に小中学校の道徳の復読本に7編も採択されたんですね。この『ボクの学校は山と川』が。まるでこのタイトルは、平成の日本の教育界で大フィーバーしたんだね。
 
 秋田県は、自慢コ話が好きだと言います。とうとう最後まで秋田県の自慢コ話に終始しましたけれども、最後にみなさんにお願いがあります。出口の所で、私の『釣りキチ三平』の平成版が1、2巻ございまして、1冊560円ぐらいなんですけれども、今日は1冊500円、2冊で1,000円で結構でございます。しかし、あの中には私のサインが全て入っております。1巻の“地底湖のキノシリマス”は、田沢湖にかつて、いたという、幻のクニマスをテーマにした物語。2巻の“天狗森の巨大魚”はまさにこの白神山地をイメージしながら、ブナの原生林に挑んでいく三平くんの姿を描いております。この2つの作品を紹介して終わりたいと思います。ありがとうごさいました。