『森に学ぼう』
立 松 和 平
みなさんこんにちは。立松です。
受賞者の方、おめでとうございます。読んだかいがありました。
僕は一次選考はやっていないんですが、小笠原先生は一次選考からやられていて、人の原稿を読むというのはけっこう大変だったと思います。書いた人の顔が見られてよかったです。
僕は、今回、土曜日に東京の家を出まして、女満別空港へ行って、知床に行ってから、来ました。知床で、今度の7月2日に観音堂を作るんです。観音様の観音堂なんですけれども、その地鎮祭をやって、今、みんなでトンカン、トンカン、金づちでやっているんです。そこは、開拓地なんですが、僕が山小屋を建てさせてもらって、もう15年くらいになるところですが、5年前にそこの人達が「昔、神社があったんだけども粗末にして消えちゃった。」と言ったんです。「あっという間に森が出てきて、神社が呑み込まれて、なくなってしまった。それで何とか復興したいんだ。」と相談を受けまして、僕に神社を作れと言われたんです。僕は、別に神主でも何でもないただの小説家なんですけれども、「どうして僕に神社を作れって頼むんですか。」って言ったら、「何でもやってくれそうだから。」って、ただそれだけのことだったんです。でも、まあ、一肌脱ぐかってことで、初めて神社というものを作ることに参加したというか。僕が一人で最初動いたんですが、それで、親友に坊さんがいまして、とても親しい坊さんで、彼に相談したら「それはおまえ、寺にしろ。」って言われまして、相談した相手が悪かったんですけれども。「それじゃあ寺にするか。」ってことにしたんです。
しかし、神社を作れって頼まれたんで、いろいろ調べたら、三十番神堂という便利なものがあったんです。三十番神堂というのは、毎月、日本の古い、諏訪明神とかそういう古い神様が毎日日替わりでお守りするというもので、それがいいだろうということで、それは神仏習合の寺のような神社なんですが、それを相談した友達が東京の下谷の法昌寺というお寺で、そこは毘沙門天、七福神の毘沙門天のお寺なんです。それで、毘沙門堂にしたらどうかということになって、毘沙門堂にすることにしたのです。ちょうどその頃、知床の斜里町というところなんですが、斜里川という川が流れてます。その河口を浚渫していたら材木が出てきたんです。昔、どんどん上流で、木材を切って流して、春に木を出していたのですが、その時の沈木だったのです。大正時代くらいに流して沈んでしまった材木が出たので、その材木に毘沙門さんを彫ってそれをご本尊にしたんです。
まあ、こんな話をしてるといつまでも時間が経ってしまうんで、手短に話しますけど、法隆寺というお寺に毎年お正月、業に行きます。小坊主をやってるんです。小坊主をやっている僕が“今度、毘沙門さんを作りますよ。”と言ったら、お坊さん達がえらい感心してくれまして、「日本で一番古い毘沙門さんっていうのはあなたが毎朝小坊主でお堂に入って礼拝する多聞天という四天王のひとつで、多聞天というのは、毘沙門さんなのです。法隆寺の毘沙門さんが一番古い毘沙門さんなのです。」と言うんです。「あなたがこれから作ろうとするのは一番新しい、日本では新しい。」と言うのです。まだ、出来てないですから。新しいのです。そして、毘沙門天、多聞天っていうのは北の守り神なんです。法隆寺では内陣の中で北東の方角にあります。北東の方角から悪いものが来たら、それから仏さんを守るという守護神ですから、日本列島の北東の方角というのは、まさに知床半島なんです。なんか変な符合があって、みんな感心して、毎年、毘沙門祭りをして、お守りにきてくれるのです。法隆寺の人たちが。もう本当にお祭りが湧き上がってしまった。創られてしまったのです。町の人たちもみんな、たくさん来て、山海の珍味が集まるのです。最初、「牛、一頭焼いていいか。」って言うんですよ。屋外パーティですから。「それは殺生だべ。」と僕が言って、お坊さんに聞いたら「皆さんがお楽しみならどうぞ、おやんなさい。」って言われて。しかし、牛一頭っていうのは、デカすぎるんで足一本にしたんですけれども。足一本でも70sあるんです。そうやって、ホタテとかウニとか、オホーツクの珍味も集まり、農家の珍味も集まり、その毘沙門の法要をやってから屋外パーティーをやる。それで、仲間に『宗次郎』というオカリナを吹く人がいて、彼がよく来てくれて吹いてくれたり、東京から落語家が来て知床寄席をやってくれたりしています。
毘沙門堂を作ってから3年後に、法隆寺でどうしても聖徳太子堂を作りたいというので、聖徳太子堂を作りました。杉の丸太のログハウスで作ったのです。そして、今年はどうしてもみんなで観音堂を作りたいというので、6年目なんですけれども今、立派なものが出来てしまい、なんかこう、不思議な気持ちが集まって、みんな敬虔になるというか、熱烈なる仏教徒でもなんでもないんですけども、なんとなくそういうことで楽しみが生まれてきた不思議な感じがしています。それで、知床で土曜日に観音堂を作る地鎮祭をやってきました。そして、今度は今年の7月2日に法隆寺のお坊さん達がたくさん来るんです。延暦寺とか、日本史に出てくるようなお寺の方がどんどんいらっしゃる。今年は金閣寺と銀閣寺と清水寺のお坊さん達がいらっしゃる。昨年は、僕の友人の高橋伴明という監督がいまして、彼の奥さんが高橋恵子という女優なのですが、彼女も来てくれて、今年も来てくれます。どうぞ彼女の顔が見たい人は誰でも来てください。7月2日の日曜日です。やりますから。そういうわけで、今日僕は、知床経由、札幌に出て、秋田に飛行機で降りて、東能代へ電車でやってきました。今日ここに参りました。やはり、北海道の緑というのは今、とてもいいです。あの、広葉樹の緑。カラマツもきれいなんです。見た目は非常にきれいです。本当に、緑が日に日に、若葉というよりも、どんどん夏の緑になってきていますけれども。日、一日と緑が変る姿が生きている証というか。季節がよくも毎年巡ってきて、生命が沸騰するようなそういう季節がよくやって来るなぁというふうに感動を覚えるそういうこの頃の時季です。
今年は白神へ冬に入りました。スノーモービルで入って怒られるかもしれなかったですが、峠の雪道は車では絶対に入れませんから、車の変わりにスノーモービルで入ったんです。冬の白神もいいです。あの大きな“マザーツリー”、“母なる木”と誰かが名づけたようなのですけれど、あれは、本当に大きな木ではなくて、まだまだ大きな木はいくらでもあると言われています。ただ、本当に道路縁にあるので、簡単に見られるわけです。今頃だったら本当に簡単に車で近くまで行けるんですが、冬はもう誰も行けません。僕らの仲間だけがいて、もちろん、スノーモービルのエンジンは走ってるときだけしかかけませんので、止まって、大きな木を、天気がよくて、今日のような本当に良い、風もないような日にマザーツリーと大きなブナと向き合ってきました。この木の命というのは、本当に人間を超えた、こちらを小さく見せるすごいものがあると思いました。
僕は栃木県の宇都宮市で生まれましたが、毎年4月の終わりくらいに、その僕の故郷、栃木県の山に木を毎年植えています。足尾というところです。足尾銅山の足尾です。足尾鉱毒事件という教科書にも載っています。日本の公害の第一号といわれているところです。そこに毎年、僕らの仲間と木を植えつづけています。例えば、白神という山があってこれは世界遺産に登録された、すばらしい、誰が見てもすばらしい山々であります。これと対極にあるのが、僕は、おそらく、山としては足尾の山々だと思います。みなさんもし、機会があったら足尾の山を見てください。自然破壊の極限の山がそこにあります。山がです。要するに表土までなくなった山です。破壊のために。
それはどうしてかというと、銅山開発が明治の10年くらいから盛んになって行きました。日露戦争の鉄砲の弾というのは、ほとんど足尾銅山の銅なんですよ。僕は、昨年と一昨年と、二〇三高地という場所に行って来ましたけれども、今でも散乱した歩兵銃の弾丸がたくさん出るのです。土の中から。乃木大将が指揮、総司令官ですか。ロシア軍が占領していたその山に日本兵を次々と突撃させていって、本当にもう、屍を乗り越えて、乗り越えて、要するに鉄砲の弾の様に人間を使っていったわけです。日本の近代史というのは、だいたい、まあ、そういう戦争が出発点だというか、アイデンティティだというのはよくわかるのですけれど。その旅順というところに行くと、これは、もう、向こうは、補給路がないものですから、人間は無尽蔵にいるから、とにかく突っ込ませて、死んだ人の上を乗り越えて、突っ込んでいけばいつかは戦争に勝つという、凄まじいやり方の戦争でした。その日本が国際社会で立ち上がって行くためには、富国強兵、兵隊が強くなって国が富まなくてはいけない、金持ちにならなくてはいけない。それで、工業を起こしていったわけです。そのひとつの牽引車とでもいうのでしょうか、それが足尾銅山でした。もうひとつは、八幡製鉄所でした。
その足尾の銅山を開発していって坑道を掘っていった。ぼくの母方は足尾の金堀さんです。鉱夫です。その前は、兵庫県の生野銀山という所から渡ってきて、そこで住み着いた子孫なんです。それらの銅山を開発していくためには木がたくさんいるわけです。坑道を掘ったときには、柱を立てて板をかわなければ坑道はできません。それで、木がたくさんいる。それから、鉱石を精錬にするためには木炭が必要でした。最初は、木炭でやった。そのうち、コークスになりましたけれども。木炭を作るのが間に合わなくて、足尾もそうなんですが、木を先に切ってから、県庁に書類を出すという事後承諾でもそれはOKになるんです。国策的な鉱山ですから。それも間に合わないからと、生木を切って、穴を掘って、その生木を入れて、火をつけて、そして生煮えというか、中途に燃えている所に土を入れて、蒸し焼きにして炭を作っていくという乱暴なやり方でやって、生産を上げていったわけです。とにかくもう木を切っていったわけです。そしてやがて、木を切って切り尽くしました。その次にコークスになったわけです。石炭を燃やす。コークスを燃やすと今度は亜硫酸ガスが出るんです。それで、ガスが出て、ますます植物を枯らしていったわけです。そして、最終的に今はもう廃村になって、本当に石のお地蔵さんくらいしか残っていないところがあるんですが、足尾の山の上に三つの村があった。これは地上から消えた村です。三つあるんです。
歴史から抹殺された村。そのひとつに松木村という村がありました。だいたいどこでも山村は野焼きをするんです。牛の草を作るために、いい草を作るために、冬の終わり頃、春の初めくらいに、野に、草に火をつける。今でも阿蘇とかあちこちでやっています。ここでは寒風山が有名です。その松木村は、その火が移り広がって、山はほとんど死んだ山だったけれども、最終的な致命傷というか、それが最終通告のようなもので、まったく木が無くなった。
そうした場合にどうなるかというと、雨が降ると、山にまったく保水力が無くなる。そして表土が流れてしまう。表土が流れると川に落ちて下流に運ばれるわけです。ところがその表土は鉱毒という、亜硫酸ガスやいろんな毒、精錬したガスが染みついているわけです。それともう一つ、地下から掘ってきた鉱石のカス、これをずりといいます。それから精錬した後のカスをからみといいますが、そういうのが一気に流れていったわけです。重金属のカドミウムとか水銀とか怖いものがたくさん含まれているものが全部流れていってしまって、そして地域一帯にそれが広がった。
昔の農業というのは、完全な有機農業ですから、明治あたりの農業は化学肥料なんか使いませんで、山からの非常に肥料分の濃い豊かな水が流れてきて、その水が田んぼに入ると最低三年は肥料いらずで、むしろ水を呼び込んだわけです。田んぼの中に。そして出来たら稲刈りの後に水が入って欲しいんですが、なかなかそうコントロールすることができない。でも、3年に一度、4年に一度の洪水はしかたがないという農業のやり方です。そうしないと肥料分がなくて作物が出来ない。入ってきた泥、水が入ってきて、引いていくといつも何センチか泥が積もってるわけです。それが肥料分になっていた。
ところが、そのかつての肥料分だったのが、毒だったわけです。そのために作物の一切実らない田んぼや畑になった。そうしたら、川の中に魚がいなくなってくる。川の中に魚がいなくなって、岸辺にいた鳥も虫も亀もいなくなり、川原にあった草も枯れていく。ヨシキリがいなくなってくる。そうした生物がどんどん、どんどん死滅していく様子の記録が残っています。農民の日記が残っています。詳しいことを知りたい人は僕の書いた“毒”という作品という作品を読んでください。3年前に、毎日出版文化賞というのをもらったんですけども。そういう事件がありました。この発端は山であります。
それでそこに渡良瀬川という川がありまして、渡良瀬川は利根川の支流です。利根川はすごいパワーのある川で、今の首都圏の水瓶になってる川ですから利根川の水嵩は高いんです。そのため渡良瀬川の水は吸収されないで、逆流してしまうのです。そこで、その逆流を防ぐために、合流地点に遊水地を作るというふうに政府が計画したわけです。でも、どこにもそんな土地ないのです。そこに、谷中村というひとつの村があった。その谷中村を廃村にして、村を潰して、遊水地にした。今でも、渡良瀬遊水地には谷中村の跡がそっくり残っています。興味のある方はいつでも、僕が行けなくても仲間がいっぱいいますから案内します。そのとき、そこに遊水地を作るのに反対したのが、田中正造です。田中正造は帝国議会で『徳川時代は、これでもかというほどに木を植え続けたけれども、明治になってから、切ってばかりいる。』という、大演説を何度も何度も帝国議会でやっている。その記録はそっくり残っています。
それから、あらまし100年後ですか。僕らは、木を植えようとみんなで相談しました。実は20年くらい前から活動してまして、映画を作ったり、いろいろやってきたのですが、できることをやろうということになりまして、先ほど発表された方、CCCという、自然文化創造会。これには僕も加盟してるんですが、最初そのCCCと、あと、僕らのローカルなグループと一緒に始めて、今はちょっとローカルなグループだけでやっています。
そこまで荒れた、つまり、表土が全部ない。土がないんです。その土がないところに木を植えるというのは一体どういうことかといえば、土を持っていかなくてはならない。岩の、硬い岩で、もちろん木を植えられない。ボロボロになってるわけです。それはもう本当に、スコップで掘れるくらいボロボロなんです。そして、見渡す限りのハゲ山なのです。営林署と建設省が緑化事業をやって、もう20年以上になっているのですが、ものすごいお金を何百億だか知らないけど、膨大なお金を投資しています。それなりに僕は子供の頃から足尾は知ってますから、その頃に比べるとかなり緑は回復してきたけれども、まだ、表土がないところは緑が回復しようがない。草を回復して、それから木を回復してくのが順序なんですが、そんなに簡単に土は出来るわけがないんです。それと、やたらどこでも植林が出来ない、なぜなら山崩れであっというまに崩れてしまうんです。ある程度土留めをしたところ、工事したところでないと出来ないんです。建設省の工事が済んだところに植林させてもらったりということに現実的にはなってるんですが、今年で6年経ちました。
本当にきびしい植林なんです。呼びかけて僕らの仲間が20人くらいいるんですが、最初は「自分達でやんなきゃいけないかなぁ。」と思いました。もちろん、僕らは主催者として、いろいろ用意はするんです。基本的に、苗も、土も、道具もです。でも、呼びかけは、『苗を持ってきてください。土持ってきてください。スコップ持ってきてください。雨具も必要です。それから、お弁当もいります。あと、事務経費1,000円置いていってください。』という、かなり乱暴な呼びかけなんですが、300人くらいの人が来てくれますので、もう、4月の終わりくらいの定例の行事になってきました。昨年は、大雨にあたりました。半端な雨ではなかった。渡良瀬渓谷鉄道という、かつて足尾線といっていたんですが、国鉄合理化で廃線になるところを、第3セクターでかろうじて残ったというその足尾渡良瀬渓谷鉄道も止まってしまった。それで、鉄砲水が出ないか心配でした。そこは地形的には出ないところなんですが、メガネをかけては植林できないぐらいなんでした。ものすごい降り方で、ひどい状態だったんですが、やっぱり350人くらい人が来てくれて『ああ、本当にみんなそういう気持ちが強いんだな。』と思ったのです。今年は600人くらい来てくれました。苗は3,000本用意しました。これらの苗は主に広葉樹、周りの森と一緒のものです。“山桜あるといいね”って、山桜を植えたり、“ウド食べたいね”って、ウドを植えたり、タラの芽をやったり、それから主にナラとか、クヌギとか、そういう広葉樹の森を再現しようとしてるんです。
しかし、非常に困難を極めて、勾配のきつい斜面のところで、600人も植樹したら非常に危険があります。上から落石もあるし、子供もいっぱいきているんです。かなり緊張してやったんですが。無事に植林は終わったわけです。また、来年の計画もすでに始まりましたけれども、いつもながら思うのですが、木を植えるというのは、ほんとに並大抵のことじゃないんです。そこは特別ひどいんですよ。土がない。それと傾斜地で草も無いという。ただ木があるというところは本当は木が育たないです。難しいのです。それとシカが増えました。ものすごく増えました。カモシカも増えました。僕らが植えてるとシカがいるんです。それで、シカが、早くおまえら向こうへ行けっていってるんです。それは、シカは殺したくない気持ちは強いです。顔みたら殺したくないんだけれども、今でも殺したくない。殺そうと思ってはいないんだけれども、植林した木を守らなくてはいけないのです。向こうはサラダかなんか作ってるふうに思うでしょう。僕らが行った瞬間に食べてますよ。だからどうすればいいか。それなりに知恵を使っています。いろんなことを研究して、売り込みに来る人もいます。最初ヘキサチウムという樹脂の袋、筒ですが、これは土に返るもので、苗に、ヘキサチューブをかぶせて植えるんです。頭で考えると『ああ、これはいいや。もう大きくなったら少しぐらい食べられても平気だし、シカも届かないし』と思ったんだけれど、シカだって、必死になるから、その筒の中に頭をにゅーっと通せますから、そのチューブを引っ張っちゃうんです。結局、全然ダメでした。最終的に昔ながらのネットで囲むやり方が一番いいということに結論が付きました。ただネットを張ると、これは、下手すると植林するよりそっちの方が大変なんです。でも、半分植林してもネットを張らなければならなくなります。それで、今年もそれをやって600人からの人で3,000本くらい植えたのです。どんどん続けていると、賛同者があって、どっかのスーパーが賛助金くれたり、いろんな人が賛助金をくれるようになったんです。ゴルファーズ、緑のなんていったか忘れましたけれども。ゴルファーが1プレイすると、1ラウンドすると5円づつ積み立てる。そういう機構もあるんです。ちょっと知り合ったので、ちょっと出しなさいって要請したら出してくれました。30万円も出してくれたり、そういう意味で経済的には楽になったんです。でも、広い山で、山というのは大きいです。
僕は明日また、白神に入るのを楽しみにしています。白神は本当に大きい。それから見ると、600人来て、植林したところの全体は、背中にバンドエイドを貼ったのよりも小さいです。100年かかって壊れたから100年かなって思ってたんですけど、100年ではない。このやり方だと、4,000年位かかります。それは単純計算で、きっとそれくらいかかるような感じなんです。それでも、僕はやり続けていこうと思います。昨年も仲間達みんなと植え終わってから、対岸に行って、植えた跡を見ました。そうしたら、本当に狭いわずかばかりの植林地だけれども、「これは“貧者の一灯”だ」と、昨年みんなと話したんです。ちょっとまた仏教的になってしまいますけれども、要するに仏教説話にこういう話があるんです。『お釈迦様がいて、お釈迦様にみんないろんなものを聞きに来たいわけです。国王はお寺や土地を寄進する。大金持ちは、一万灯のお灯明を寄附してお釈迦様を照らし出す。そんなことをするわけです。ところが、貧乏なおばあさん、心からお釈迦様を慕ってるおばあさんは何もない、貧乏で、何もないけど、一つだけお灯明を心からあげました。』っていう話です。これが『貧者の、貧しい者のひとつの灯火』ということです。『それで、その晩、風が吹いて大金持の寄進した万灯は消えました。ところが貧しいおばあさんが心から“どうぞ”といってあげたひとつの灯火だけがついていました。』という仏教説話があるわけです。我々は本当に貧者の一灯です。だから一気に何かやろうと思ったらいけません。100年というのは我々にとって、とても、とてつもない時間ですが、単純計算してこの5年間植えた木を100倍して、100倍したところで600年になってしまうんだけれども、ぜんぜん間に合いませんよ。だけど、「それでも貧者の一灯でやって行くしかないかな。」というふうに思って、僕自身の年中行事としてやり続けていこうと思っています。貧者の一灯をやり続けて行こうと思っています。そして、わずかなことしかできないんですけれども、貧者の一灯だからやれることをやって行こうと僕は自分に課しております。
以前、米代川をニュースステーションという番組でずっとやったことがあります。そのときの体験から、破壊されつくした山と、白神の山と比べるとまったく違うわけですね。例えば歩きごこちというのもまったくちがうわけです。水源涵養林といわれているところを歩いて行くともう、びちゃびちゃ、びちゃびちゃして、今日なんかも多分そうでしょう。もうスポンジの上を歩いているようです。水が滲んで来て。ほんとうに柔らかな世界。特にブナ林はそうです。僕は、ちっちゃい子供達と山に入るのが好きです。自分の子供が大きくなったので、もう、ダメなんで、よその子を連れていったりしながら山に入って、天然林でも、雑木林でもなんでもいいんですが、山を見ようって言います。山はどうやって出来ているか、見えるところの範囲で、まず、土の上にコケが生えています。そして、草が生えています。どんぐりが落ちてこの芽が出る。だいたいそれは育たない木です。そして、灌木あり、中くらいの木あり、うんと大きな木が茂っているわけです。そして、見えないところの地面、土の中には土壌菌がいて、微生物がいて、これもまた複雑な世界があるんですけれども、見える範囲の中でも多種多様の生き物が生きている。植物が生きている。そして、どれひとつとして、独り占めをしていません。ただ、うんと大きな木が茂っていて、条件が良くて茂ってくると日陰を作ります。日陰を作ると太陽が当たらなくなります。すると、他の木を抑圧してしまう。他の木は抑圧されて大きくなることが出来ない。しかし、うまくしたことに、日陰を好む植物がいます。シダとかキノコ類です。つまり、シダとかキノコ類にとっては、大きい植物というのは日陰を作ってくれる。植物というのは本当に、恵みの、実にありがたい存在であります。
要するに自然というのはどんな一点を取っても無駄ではない。無駄な場所なんていうのはないんです。必ず意味があってその場所あるんです。僕は石ころひとつ、なにかの意味があってそこにあるのだと思っています。どんな草でも虫でもです。そこに意味があって生きている。人間でもそうです。もちろん、人間も必ず意味があって生きている。ただ、我々は自然のことを全部知っていないから、そのことを認識できないことがあまりにも多いのです。しかしそれは、我々が認識できないだけの話です。
例えば僕がしょっちゅう行ってる、阿寒、阿寒湖の阿寒です。あそこに前田一歩園財団という大きな森林財団があって、森を作りながら切っているというところがある。そこに、この間行って、山を作る人と話したんですけども、『大きいミズナラの木が一本あったとします。これを大きな区画で、12区画くらいに分けて、大きな木を12年後に切ろうというふうに決めるんだそうです。そうして、その木の周りに同じミズナラの苗を植えるんだそうです。すると、そのミズナラの苗は日陰に入ってしまうから大きく育たない。しかし、しっかりと根を育てる。下半身のガシッとしたいい木に育つんだそうです。12年間で。切るのは雪の時になる。まわりの植物を傷めませんから。そして、12年後に切って、大きな水ナラがなくなると、どんどん若い木は時機到来とばかりに育っていい木になる』という話を聞きました。また、その前田一歩園で草原になっているところで、傷んだ森林のあとに木を植えていったら、川が出てきたんだそうです。川が沸いてきたんだそうです。水が。それで、「うわあ、すごいなあ。」と思ってみんなで見て、よく見たら砂があって、そこの砂の上を水が流れていく。そこの上だけを流れていく。よくよく見ればかつてそこに川が流れていたらしい。つまり放牧地にするんで木を切ってしまって、牧場にした跡だったんです。それで、森にすると水が生まれてくる。いろんなものが生まれてくるのです。
多様性というか、多種多様な生物、植物がいるということ。これはブナの森では典型的なのですけれども。植物はいろんな種類があって、コケがあり、草があり、大きな木があって、大きな木も何種類もある。根っこの形がそれぞれに違います。杉はごぼう根といって、大ざっぱにいうと、縦にごぼうのように根が生える。それから広葉樹の、例えばケヤキはケヤキの走り根といって、5mも6mも横にビューっと根っこが生えています。それから、紅葉なんかは、今日、秋田のお城の周りで植木市をやっていて、うわあいいなあ思ってほしいなと思ったんですけど、買うの自制しましたが、紅葉の木というのは岩の土もないような所に、ネットをかけたようにしがみつきます。つまり、木はあっちこっちに、いろんな種類の木が多様に根っこを張るわけです。これは山にとっては非常に強い。山が抜けない状態になってる。そして、根っこがあっちこっちに張るとその山の表面がスポンジのような状態になるんです。根っこと根っこの間に隙間ができて非常に風通しの良い空間、スポンジのようになる。そこに水が溜まってくる。そして、水はスポンジに吸われるように溜まっていく。山の保水力であります。保水力というのは多様性がもたらすものです。
そして、僕の田舎の日光の方ではですね、ある種のアゲハ蝶は、例えばキハダという木しか食べません。別の種類の蝶々は、例えばですよ、カラタチしか食べないという。数種類しか食べないわけです。ものすごい偏食をしているわけです。人間だったらたちまち教育的指導が入るですよ。ところがキハダしか食べないっていうのはどういうことかというと山は全部キハダなんてことはないんです。多様性のもう、いろんな植物、ガチャガチャいろんな種類が生えてる中のたった一種類です。キハダなんて。それしか食べないっていうことは、実に心細い状態で生きてるわけです。これは何を意味するかというと、いろんな虫がそうやって食べる木を選んでるわけです。それは棲み分けであります。『我々は、これキハダしか食べませんから、他のみなさんは別のものを食べてちょうだい』と言って、この多様性がなければ棲み分けは出来ないのです。ただ、中にはアメリカシロヒトリのように、何でもかんでも食べてしまって、食べるものがなくなる。食べ尽くしてしまって自分も滅んでしまう。というのがあるけれども、大体はもう、生まれながら棲み分けをするようなっているのです。すべての生き物はそうなんです。
有名になってしまったけれども諫早湾、今はもう草原になってしまったようですけど。諫早湾は、僕が大好きなところで、あそこは食い物がうまいところで、今年の7月になったら行くんですけれども。あそこは干満の差が6mあるんです。ある時、僕は最初知らなくて、船で遊んでいて、ラーメン食べに行こうと思って岸辺の棒杭に船をつないでいって、食べて帰ったら、船が首吊りしてしまっていたんです。差が6mあるんですから。怒られましてね。船の主に。そういうことがあるんです。あそこはガタというんですけども、泥です。非常に栄養に富んだ有機腐敗物なんです。デトリタスというものなんですが、ガタが出てくると、珪藻、カビの一種がパーっと生えるんです。緑色のカビが。これをガタ花が咲くといいます。漁師はフナトって呼ばれて、かっこいいんです。このフナトがガタ花が咲くっていうとなんか、かっこいいんです。要するにカビが生えるんですけれども、その緑色のガタ花をムツゴロウとかトビハゼとかが食べるんです。そしてまた、水が来るとそのガタ花は消える。水が引くとまた生えるという永遠の繰り返しです。食物は永遠に減らないんです。そしてそこで、僕は鳥を見ていました。シギという鳥は首が長くて、足が長い、ぐちゃぐちゃの田んぼの泥みたいなところをゆっくりと潜らないで、潜っても足が長いから平気です。そして、長いクチバシをガタ、泥にグーッと指してイソメとかゴカイとかをとって食べています。ゆっくりと。シギという鳥の形がそれをできるわけです。長いクチバシと長い足。一方では、忙しくガタの表面を走り回ってる鳥がいます。これはチドリという鳥で。チドリ足というと、酔っ払いが酔っ払ってフラァフラァーッと歩く歩き方で、倒れそうになっても倒れないで、ギューッと立ち直るのをいうでしょう。チドリもチドリ足なんです。あれは、こう行くと見せかけて、ヒューと立ち上がってこっちへ来るんです。フェイントをかけて。そうするとこっち行くぞと思ってたカニが安心するんです。すると、突然方向が変わって食べられるという。チドリ足がフェイントをかけているんです。それは、あの丈夫そうな足と、すばしっこい体と短いクチバシだからその生き方ができるんです。例えば、スズメとか、この辺にいる小鳥の形は、林の中に入っていって飛んで虫を食べれる形です。あれがツルみたいなクチバシだったら邪魔で、翼もバサバサしてひっかかってしまいます。鳥の姿を見ると良く分かる。生き方が決定されるのです。それで、チドリはああいう姿でガタの表面にいるトビハゼとかカニとかを食べている。
そういうふうに、生き物というのはすべて調和が取れていて、そして棲み分けをしているのです。それが自然の秘密であります。そしてその秘密は、そのまま森にも当てはまっていきます。高さで棲み分けをしている。高さで空間を分け合って生きている。また、多様な植物が入っているということで、虫が生きられる。虫が生きられるってことは鳥が生きられるってことでしょう。蝶は幼虫の時はエサですからね。そうやって鳥が生きられる、鳥が生きられればもっと大きな鳥も生きられるとか、食物連鎖が広がっていく。最終的に人間が生きられるという構造になっている。多様性が必要なんです。そうすれば根っこもいろいろ向いて強いのです。でも、それを切って来たのは我々の文化なのです。きれいに切って一種類だけを植えてきたんです。スギやヒノキを植えてきたんです。この多様性というのが、今の世の中、とっても弱くなってると思っています。スギの木は根っこが一定でしょう。そして、スギを育てるためには下草刈りをしなければならない。間伐をしなければならない。その間伐がだんだんできなくなって日本の森林が荒れてる。スギというのは、スギ一種類しかない空間を作ってるんですよ。人間は木を使わなければ生きて行けないんです。こういう建物や家具は木がなければダメ。これはもうバランスが必要なんだと思います。けれども、スギやヒノキを単林にしていくとほんとに一種類の植物しかいない空間でしょう。下草が生えてなければ鳥も生きられないような空間です。そうすると、やっぱり根っこも一つの方向しか向かないので、弱い。山が抜けたりというのは大体そういう単林が多いのです。
僕は人間の社会も似てると思うんです。学校で、35人くらいの子供を教育するのにみんな同じ方向ばかり向く、偏差値の高い、なんかそういう子供ばかり教育する。そして、右向け右ってカメラの方が言って“ばっ”とみんな右向くとするじゃないですか、でも、一人くらい右向け右って言ったら左にぐっと向く子がいた方が僕はいいと思うんです。この子は制裁されるでしょう。いろんな意味で大変でしょう。でも、例えば、右向け右でみんなこっちを向いてたら、こっちから悪い人がくるとみんなバカバカやられちゃうじゃないですか。一人こっち向いてるとあー悪い人来たよって言えるんですよ。これは抽象的にいってるんですけれども。みんな同じ方向ばかり向くというの非常に危険な社会であり、また、山がそうです。多様性というそういうものがあった山がどんどんと多様性がなくなるというのは、山がそうであり、人間の社会にもそういう感覚がフィードバックされてきてしまうようで仕方がない。白神山地というのはそういう多様性のある山ですよ。今まで当然、人間が木を利用して作ってきたし、僕はこの白神自然文化賞の中でも、多様性を重んじています。やっぱりどこか人工林の話も必要だなと、僕自身思ってるんです。だから、守る、守るって言うだけではどうやって家建てるんだって問題になってしまうので、その調和というか、バランスは絶対に、僕は必要だと思っているのです。ですから、だんだんと現実的な作品が寄せられてきたので、その点はいいなというふうに思ってるんです。けれども、やっぱり我々も連続の中で、調和の中で、どこかに生きる場所を作っておかないとならない。森とともに生きるということは、その森の多様性の中の僕は一部だというふうに思っております。色んな“生きる”という、我々社会の中の調和のあるモデルケース、多様性のあるモデルケースは僕は森だと思うんです。自然のものというのはみんな多様性があります。ひとつのもので統一されていることはないです。いろんな生き物がその中に居られるようになっている。 そのひとつの宇宙というのか。渾然たる宇宙の中に法則がある、その法則がなかなか人間にはわかりにくいんですけれども、人間がわからないといっていないわけではない。全部あるんだという。すでに全部が我々の目の前にあるんだという。僕は今、道元禅師を書いてるんですが、禅の社会世界観というのは、『全部この目の前にあるんだ。すべてが。ただそれが見えないだけだという。』世界観があるんです。あの木というものを我々は本当に真剣に考えたいと思うんです。
僕が最初にチラッと言いましたが、毎年、法隆寺に行っています。1月7日から15日間、小坊主をやっています。小坊主はお坊さんよりも厳しいんです。頭を坊主にするんですよ。本当に坊主にして坊主の格好をしてるんです。一見、お坊さんです。袈裟はつけてないです。お坊さんになれなれって、行けば言われるんですけれど、僕は俗世間の中で毒にまみれて小説を書きたいので、このままでいいんですけれども。それで、朝5時くらいに金堂というところへ入ります。金堂は国宝がたくさんある所です。僕の最初の仕事は何をするかというと、真っ暗ですから多聞天、毘沙門天に礼拝してから、火をつけて、燃やすわけじゃないです。御灯明を点けるんです。1,500年のお寺ですから、火打石かなんかでカチカチッとつけると思ったらチャッカマンです。カチャッとつけるだけなんですけれども。小さなお皿に菜種油が入っていて、燈芯を入れてある。お寺ではそうやってつけるんです。そこで一週間古いお経、声明を読むんですが僕はその片隅で行をさせてもらう。今年で1,233回目の行なんですが。そのうちの6回を僕もやっている。何を祈っているかというと、まず、祈ってくるのは、地味、増長という言葉なんです。『土地の力をください。地味。土の味です。味を増長。増やす。土地の力をください』というふうに叫ぶんです。声明ですから、歌うんです。その次は、五穀成就、『食べ物をたくさんください。五穀を実らせてください』と祈るわけです。3番目が万民部落、『人々が幸せになりますように。』4番目が、仏教なので、神語国家という、『国が安泰であるように』という流れになるんですけれども。元々、根本は地味増長。土地の力をください。という祈りなんです。そして、このお寺というのは1,400年です。ヒノキで出来ています。でも、今でもガタガタしてるわけではない。しっかりと建っている。木というのは、1,000年生きた木はまた1,000年生きる。1,400年も生きる、という証明があるわけです。何であんなに生きて来たか。持ってきたか。といえば、メンテナンスです。雨が降って漏ったりなんかすると、パッとそこだけ切って取り換える。そういう一団の職人の集団があるんです。
それで、僕はこのを話すると、いつも思い出すんですけれど、日本で一番古い木は縄文杉です。今のところ。秋田の杉もあるけどちょっと年数は問題にならない。一説によると7,200年とも言われている縄文杉。これはわからない。中が空洞ですから。生きてる木はわかりません。でもどんなに少なく見積もっても3,000年は生きてるだろうと言われてます。4,000年説、5,000年説、いろいろあるんですけれども。最低で3,000年説。それも3,000年が2本集まった。3本集まった。と言われている。僕はある時、屋久島に登ってきました。そこの松本さんという、営林署に勤めた方と一緒に登って行ったんです。だけど、雨が多くて、杉というのは雨の多いところ、そして、日当たりのよくないところによく育つんです。まさに屋久島はそうなんです。1月に35日雨が降るっていわれているんですから。屋久島は。計算合わないんですけど。そう言われてるんですから、しようがないんです。ほとんど合羽を着て登ります。それで、いろんな話をして登りました。松本さんと。まわりはいい森ですから、今、残っている屋久杉は材木にならないために残ってる。秋田杉もそういう傾向がありますけれど。1,000年経たないと屋久杉って言わないんです。小杉と言うんです。“1,000年経たないと小僧っこ”という世界です。
それで、いろんな木の話をして、僕は、途中で、法隆寺の木の話をしたんです。職人集団で有名な大工さんが一人いました西岡常一棟梁という、亡くなられましたけども、非常に有名な棟梁です。この方はこうおっしゃっていました。お寺を造るときには森を変えなさい。北向きに生きてきた木は北の備え、北風が吹いてそういうものに備えがいいから、お寺のときも北に使いなさい。南向きは暖かい日当たりのいい、南向きに育ってきたから、お寺も南向きに使いなさいと。非常に理にかなった考えで、僕はこれを本で読んだ知識でその話をしたんです。そうしたら松本さんが立ち止まりまして、「僕はそうは思わないなあ」って、言うんです。それで、僕も座り込んで話しをしてしまった。松本さんはこうおっしゃっいました。屋久島というのは、日本列島の縮図でして、北は、北風が非常に寒い。刺すように寒い。南側は沖縄からのふわふわした風が吹いて来る。暖かいところなんです。それで、日本列島の本当に縮図です。それで、松本さんは「屋久杉と呼ばれる立派な木は、全部天然木ですから、1,000年前には人間が植林してませんでしたから。北向きに1,000年生きてきて、風雪に耐え、厳しさに耐えて1,000年生きてきた木をまたちゃんと使えばお寺にすれば1,000年生きるでしょう。その木を、また、北向きに使うのか」というんですよ。『1,000年も厳しさに耐えて生きてきた木をまた、1,000年生きなおすときに北向きに使うのはかわいそうだ』と言うんです。『南向きに使え』と言うのです。『生き物にとってそういうふうにしないといかん』というわけです。「南向きに1,000年も生きてきてちょっと楽にして来た木は、西日をずっと見て朝日も見たいでしょうから東に植える。東に生きた木は西に植えるというふうにしてタイヤを交換するみたいな感じなんだけれども、生き物は平等にすべての生きとし生けるものは平等に生きなくてはいけない。人間は、何もできない人間だけれども、もし、手を貸すことができることがあれば、それはやるべきである」と、松本さんは考えです。西岡棟梁の考えは別に間違ってるわけではない。松本さんは相続人として、実に誠実な、すばらしい考えを持たれている。しかしそれは、まるっきり反対のことを言ってるわけです。営林署を松本さんは定年退職して、今まで切ってきたから、これからは植えることだけをしようと言ってる人です。心優しい人です。本当に正反対のことを言っていながらどっちも正しいという考えです。松本さんの考えもいいです。生き物として木を見てるということです。
生きとし生けるという意味では、我々は何も変わらない同じ物であります。山の木というのはね、人のことを色々思考させるというんでしょうか。詩人にしたり、哲学者にしたりするんです。それで、山というのは、山を歩くというのは、僕は瞑想してることだと思います。一歩一歩、歩きながら、色んなこと考えるそれがいいんです。みなさんの故郷は白神を抱えたところですから。「いいな」と思います。色々考えてください。また、簡単に、忙しいでしょうからすべての結論を出さない方がいいと思うんです。僕は、実はここに来る前に、知床で大議論をやらかして来てしまって…。熊をどうするかという問題なんですけど。あんまり急いで結論を出さないほうがいい。ゆっくりゆっくりと僕らの寿命が尽きた後までも議論するようなことをしていき、その間にやっぱり白神は守られているというのが一番いいのじゃないかと僕は思っています。またいろいろ議論しましょう。そして、いいものは守っていき、その中で我々も生活させてもらうということを少し考えていき、幸福な生活が出来ればいい、と思います。そして故郷を愛して、こういう会を作ってくださったことを感謝し、尊敬いたします。
どうも今日はありがとうございました。
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