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伸ばした指の先までが自分のものだった。
歩くことを覚えてからは、どこまでもが自分の世界だと思っていた。
カジャは自嘲する。
なんて傲慢だったのだろう、あの頃の自分は。
失うものなど何一つ無いと笑っていた幼い自分に唾を吐きかけたい、それはもしかしなくとも傲慢だったのだ、と。
「カジャ、何を?」
猫のように足音一つ立てずにやってきたマリア=マリアを無視しながらカジャは閉ざされたカプセルの中から外を見た。
たぷん、とカプセルの中で揺れる水。
どうもこれも最新医療技術の賜物らしいが、そんなことはカジャに関係ない。
肌にまとわりつく水、幼い頃に一度だけ「内緒だよ」と海でも湖でもなく川で泳がせて貰ったことを思い出す。あの時の水はさらりとしていて心地よかったのに、この水はどうしてこんなに粘っこいのだろう。
カジャが発病したのは三年前。
外気嫌悪症という、生きて行くには絶望的なものだった。
酸素から二酸化炭素、受け止めて当然のものを身体が拒否する、挙げ句呼吸するに不可欠な酸素すら拒絶してしまい、人工呼吸もなにもかもがカジャの敵となった。
それを悔やんでも仕方がない、時代は世紀末を超えすぎた。
極ジャンプの後、放射能は容赦なく降り注ぎ陸は崩れ大地は火を噴いた。
カジャの祖父母達は特権階級、怖ろしい災害を避けるべく宇宙へ避難し、宇宙船の中で両親が誕生した。
地上へ戻ったのはカジャの代からだった。
とはいえ、数十年間は冷凍睡眠していたのだから、正しいカレンダーではない、眠っていた間に前代たちが開発したトイズたちが「住むに相応しい場所」を整えてから、カジャは地上へと降りることを許されたのだ。
感動したのを未だ覚えている。
空はどこまでも青く澄んで、頬に感じる風の何と清々しいことか!
育ったのは殆ど無重力な空間、冷凍睡眠の前にレクチャーされた重力下での歩き方、それを実行する時が来たと喜んでいたのは、愚かな自分。
カジャは繊細すぎたのだ。
考えなくとも分かるはずだった、大事に大切にと育てられた空間は確かに地上と同じ設定されていたが、所詮は紛い物、それに依存してきた子どもらに免疫力など望めるはずもない。
そうして現れたのが外気嫌悪症だ。
「カジャ?」
マリア=マリアはカジャの発病を知った祖父が買ってくれたトイズの最高傑作と言われるものだったが、だからそれがどうした。
どうしてお前がそこにいるのに、僕はこんな水の中にいなきゃならないんだよ。
伸ばした指の先、かつんと当たる強化プラスチックの壁、カジャはこの中から出ることは出来ない……粘る水は拘束するだけだ。
……マリアとは聖母だよ、それが二つ並んでいる。慈しみの聖母だ。
そう涙しながらカプセルの中で浮かんでいるカジャに祖父は説明してくれた。その祖父も冷凍睡眠に入って久しい。
両親はとっくに眠ってしまった、一緒に目覚めた仲間達はカジャのことを忘れたのかも知れない、カジャはやり切れなく「M/M」、マリア=マリアを呼んだ。
「はい、カジャ」
カプセルの向こう側、嬉しそうに微笑んで彼女は強化プラスチックに手を押し当てながら「何ですか、マスター」とカジャからの指示を待っている。
トイズとはそういう生き物だ。
人間に仕えることを最大の喜びとし、一度主人と定めた人間には絶対服従、不利となることは決してしない。
それを美徳とるのか犬と罵るのかは自由だ、カジャは後者を選んでいた。
「ここから出せ」
「それは出来ません、カジャ。あなたが損なわれてしまいます」
そしてトイズは人間の「死」を認めることが出来ない。
死を理解出来ない人形は「損なわれてしまいます」と繰り返した。
「じゃあ冷凍睡眠させろ。この中ではふやける」
「それも出来ません。カジャ、あなたはそこの中だからこそ安全なのですよ?」
外気嫌悪症という病名を与えられたのは後にも先にもカジャだけだった。
カジャだけが地上の外気に適応できなかった、脱落者と成り果てた。それでもそれを認めることだけは許されなかった。
カジャはエリートだ。
我が侭な子どもであったが、その頭脳は追随を許さなかった。それは今でも同じで、政府のトップたちはカジャを頼ってくる。
だからこそ、カジャを冷凍睡眠させ治療法が見つかるまで保存することも考えられていたのに。
「カジャ、私のマスター。冷凍睡眠すには外気に晒さなければなりません。あなたはその一瞬すら耐えられることが出来ないのは承知なさっているはずです」
失うことを考えられないほどにカジャは優秀すぎた。そして選ばれた処置はあまりにも残酷すぎ、カジャは「出せ」とマリア=マリアを責め立てる。
絡みつく水、この中に紛れ込まされたのは成長抑制剤、延命水、その他諸々の化学薬品だった。
その甲斐があってカジャは三年前から一六歳のままだ。
髪と爪ばかりが伸びるだけで、カジャは成長することすら許されない存在と成り下がった。
「…M/M。僕は外に出たい」
頬に受けた風、あの時の感動は日に日に薄れてゆく、目の前に取り付けられた電子ファイルが早くしろ、と電子音を響かせる。
僕の世界はこんなにも狭いのか?
僕に与えられた空間はこんな場所だけなのか、カジャ=シーオンというあろう者が!
カジャはやり切れない。
色んなことを考えて、数えるのも馬鹿らしいほどの貢献を政府へしてきたというのに、たった一つの願いすら聞き届けて貰えない。
決して広くない世界に集う人間の数は、それでも少なくはない。人口規制するための方法としてカジャが政府に与えたのは、脳へ直接刺激を与えるヴィジ・プログラムだった。
人間が本能的に持っている欲望総てを、ボタン一つで解消できるもの。それはいつしかテロリストを抑える道具にもなっていた。
……僕はこんなに尽くしてきたじゃないか!
それなのに。
一度でいい。
それで死んだとしても構わない、どうか僕を此処から出してくれ。
「私を困らせないで、カジャ」
トイズのマリア=マリアは非道く辛そうな表情で、いつもの癇癪だとカジャを宥める。
「愛しい私のカジャ。私が出来る範囲のことでしたら何でもします。だけどそれだけは出来ません」
「もういい、行けよ」
もしこの水の中に何か投げつけられる物があったとしたら遠慮なくそれをぶつけていただろう、カジャは水の中で背を向けた。
どうして誰も彼もが。
カジャは素晴らしい、そう言うばかりで実は何も分かっていないのだろう。
悔しさから、非道く子供じみた仕草でカジャは水に溶ける涙を拭った。
その姿は精密なプログラミングをされたマリア=マリアの母性を刺激するだけだというのが分かっていても止めることが出来ない。
カジャは成長出来ない。
正しい時間を刻めなかったのだから、とこぞって大人達はカジャを子どものままにしておくことを強制した。
時々届くかつての友人達のメールにははとっくに成人したと誇らしげに笑うフォログラフィまで添付されているというのに。
総てがコンプレックスだ。
ふわふわと綿帽子みたいに浮かぶ白金色の髪も、中途半端な長さで止まった四肢も。
マリア=マリアだけでなく、彼女の指示で動くサブ・ヒューマンですら成熟した姿を持っているというのに!
「……では後ほど。カジャ、仕事に専念してください。あなたは世界に必要とされています」
深々と頭を下げる亜人種を見送ることはしなかった。
ガリガリとプラスチックの壁に爪を立てる。
僕を出せ、もういい、もう終わらせてくれ。
こんな目に合うために生まれてきたんじゃない、こんなことをされるために僕は賢いんじゃない、もう沢山だ!
外気嫌悪症。
世界でたった一人の患者。
カプセルと言う名の水槽の中でカジャは泣いた。
どうか綺麗な水を僕にくれ。
光合成が低下している、なんとかしろ、という依頼書を削除してカジャは泣いた。
泣くことだけが自由だった。
ティム・ティムリーは組んだ腕をそのままに銜え煙草でそのビルを眺めた。
綺麗に剃れ、と文句を言われた無精髭の顎を擦りながら、どうしてくれよう、と。
「どうしようかねぇ、ドロシーちゃん?」
「どうもこうも……ティムが決めてよ」
傍らに立つのはミドルティーンの少女、ゴシックロリータと呼ばれるドレスを着こなした美少女は厚底のブーツでティムが落とした灰を踏みにじる。
「駄目よ、罰金取られちゃう」
「すまんね、おじちゃん気が回らなかったよ」
あははーと笑うティムに溜息を落としながらドロシーは「これだから」と肩を竦めた。
「取り敢えず、爆発させる?」
古ぼけたコートのポケットの中から物騒な物を取り出したのはレトロな爆弾だったが、外見を裏切る最新技術を施されたものだ。
「野蛮ねー、耳塞いで口開いて……っと」
「ヴィジなんて開発してくれたヤツぁお仕置きが必要ってことさね」
どこまでも呑気な二人組であったが、やることは物騒だった。
抑制された本能の中に破壊活動がある。
ヴィジ・プログラムの開発者は立派にテロリストから狙われている。
そして。
ティム・ティムリーこそがその台頭者。
テロリスト集団「ビビデ・バビデ・ヴー」を率いる猛者。
爆音を轟かせて砕け散るコンクリートの破片を器用に避けながらティムはドロシーに指示を出す。
「さて一仕事だ、ドロシーちゃん。さあ走って行ってらっしゃい、囚われの悪の王子さまを強奪しておいで」
「人使いが荒いんだから、もぉ」
文句を零しつつ特攻隊長を名乗る少女は厚底ブーツを苦にもしないでまっしぐらに走っていった。
素晴らしいほどに優秀だという悪の王子さまを奪い、出来れば洗脳させて味方にする、実に安易な、そして最も難しいとされた作戦をティムは選んだ。
「世紀末は終わったのにねぇ、世知辛い世の中だよ」
降り注ぐコンクリート片を拳で砕いてティムは歯を見せて笑った。
そして。
出会う。
悪の王子さまと正義の王様が。
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