スズノネ。
 その日男は超級の称号を得た。

 特殊な能力はこれといって無く、真面目だけが取り柄の青年である。
 風水師としての経験は豊富であったが、しかし取りたてて評されるべき仕事はしていない。

 だが誰一人なぜ、とは言わなかった。

 男の仕事は細々とした依頼が多かったが、どれも依頼人に親身になり丁寧に正確に仕上げていた。
 故に彼を名指しする客も少なくはない。同僚からの信も厚い。文句など出ようも無かった。

 超級の号を得て驚いたのは、何より本人であった。

 婚約者へ昇進を告げた後、口をついた言葉が「どうしよう」である。

 超級の称号を持つ風水師は、彼を含めても十指に満たない。そのほとんどが名家の出身である。
 彼らの持つ「血」の力が、風水師としての能力に何らかのインスピレーションを与えているのは間違いない。
 それ故に超級風水師たちの仕事には、国を根幹から支えているものが多くあるのである。

 ごく普通の家に生まれごく普通に育った男が、不安と驚きを感じるのも無理はなかった。

 しっかりなさい、と叱咤してから、女は男を抱きしめてもう一言告げた。

「だいじょうぶ。これからこの街はもっともっと素晴らしくなるわ」

 その囁きに、男はより強く愛する女を抱きしめた。

 

 翌日。

 さっそく第一の仕事が舞い込んだ。しかも、会議の長老から直々に、である。

 滅多に目通り叶わぬ、いや一度も会ったことのない会議の上層部である。
 男は緊張しながら重々しい扉を開いた。

 陰界。

 噂でしか聞いたことの無かった「空間」が存在するという。
 そこへ赴き、風水を正すこと。それが初仕事と言い渡された。

 男は頷いたものの、内心の不安を隠せない。

 超級に成り立ての自分より、もっと他に適任者がいるのでないか。

 だが会議の決定は絶対である。

 男は一礼し、風水スコープを受け取ると部屋を出た。

 

 今晩行く、と告げると、婚約者は酷く寂しそうな顔をしたが、いってらっしゃい、とすぐにいつもの笑顔を見せた。

「初仕事の成功を祈っているわ」

 そして引き出しを開け、小箱から何かを取り出した。

 女が差し出したのは小さな鈴であった。

「綺麗な音のするものは、魔除けになるから」

 男は白い手のひらから鈴を拾い上げ、ちりんとならした。
 その音に微笑んで、小さな鈴に、次いで女に口づけする。

「ありがとう。いってくる」

 

 けばけばしいネオンが輝いているかと思えば、薄暗く猥雑とした路地がすぐ下にある。
 どの言葉を信じて良いやら、誰も彼もが胡散臭い。

 数少ない手がかりを頼りに、陰界の風水を正さねばならない苦労は、想像を絶した。

 そんな中、男の心のより所は、婚約者へのメールと、彼に良くしてくれる者たちとのおしゃべりだった。

 今までの調査から、神獣として見立てられるべき物が、近くにあるかと分かった日の晩、
男は酒場で杯を傾けた。

「寂しいねえ、一人とは」

 隻眼のマスターが笑う。

「いいや、いつでも一緒さ」

 男は胸ポケットにしまった鈴を取り出し、ちりんと鳴らす。

 はいはい、と隻眼は呆れたように肩をすくめた。男がここへ来るときは、
決まって婚約者へのメールを送るときだ。最初はからかっていたが、敵もさるもの、
近頃では大声で自慢するようになってしまった。

「明日その『神獣』ってヤツを見立てるのかい?」

「ああ。場所しか分からないが、きっと大丈夫だ。成功を祈っててくれよ」

 マスターはニヤリと笑うと、男のグラスに酒を注いだ。

「前祝いだよ」

 

 胡同の奥に行くに従うほど、龍脈の強い力を男は感じた。大丈夫、こっちで間違いない。

 見立てられるものは、果たしてどんなものだろう。
 陽界では山や川、建物だったりと様々である。陰界では一体何が?

 鬼律の攻撃をかわしていくたび、どんどん力が近づいてくる。

 角を曲がり鬼律を倒すと、一気に胡同の空気が晴れた。今のが最後の鬼律だったらしい。

 神獣が近くにある。

 風水スコープを外し、羅板を取り出すと男は駆け出した。

 

 だが。

 

 確かに全ての手がかりは、ここを指している。胡同の奥のこの場所を。この「もの」を。

 

 だが。

 

 半ば石と化した男が、壁に眠っている。年の頃は自分と同じぐらい。秀麗な顔立ちの男だ。


 これが、神獣!? 人間じゃないか!!

 

 不意に、ゆっくりと石の男は目を開けた。

 静かな静かな光をたたえ、石の男はこちらを見つめる。唇が小さく動いた。

 まっていたよ、と。

 

 男は羅板を取り落とした。ガラガラと耳障りな音だけが胡同に響く。

 人、を? 神獣、に?

 そんなことが出来るわけがない。

 神として永遠であることが、人として生きているということではない。

 家族は? 友だちは? 恋人は?

 この男が神となったら、彼らはどうするのだ?

 この男の「人生」を終わらせるのか?

 だが陰界の風水は正さねばならない。

 引導を渡すのか。自分が?

 しなければならない。

 できない。

 しなくては。

 できるはずがない。

 数々の手がかりはこの男を指している。

 それが全て間違いでは?

 そんなはずはない。


   (集中しなければ!)


 人を、見立てるなどできない。

 家族や恋人に何と言えばいい?

 あなたの大切な人は、神様になりました、とでも!?


   (集中しなければ邪気が来る!)


 自分が彼の立場だったら?

 残される者だったら?


   (現実に集中しなければ!)

 

だが遅い。

一度途切れた集中力は、二度と回復しなかった。

 

 

 男が最後に思ったのは、

 

 

 

 ちりん

 

 

 

 バーのカウンターで、隻眼の男はふとグラスを拭く手を止めて入り口を見た。

 アパートの一室で、女は待ちかねた笑顔で台所からドアへと飛び出した。

 だがバーに客は訪れず、アパートの玄関にも誰の姿も見えなかった。

 

 石の男は、その優しい涙を流した。
 もう彼の前には誰もいない。
 ただ、小さな鈴が一つ。

 

 

 球を見つめていた老人たちは、一斉にため息をついた。

「あれもかなりの者であったのに」

「仕方あるまい、所詮は捨て駒」

「資料は無事だろうな?」

「自宅の機械へ送っているようだ。後で取りに行かせよう。婚約者が居るようだが構うまい」

「さて、次は誰を?」

「やれやれ、もう何人目だ?」

「あれの資料次第だが……この分ではやはりあの者しか居らぬやもしれん」

「あの厄介者か」

「適任じゃろう。これ以上超級風水師を減らしたくはない」

 老人たちは頷きあうと、秘書を部屋に呼び入れた。

 

 男が送った数々の「資料」と婚約者の行方は、杳として知れない。

 小さな鈴は、まだ胡同のどこかにある。




華天作。
本編の超級風水師の、前任者の話です。
陰界へ派遣するって、結構な賭だったと思うので、会議の上層はかなり「実験」をしたんじゃないかなぁ、と
意地悪な考えをベースにして書きました。
ちょっち分かりづらい気が……。

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