泥で固まった髪を蓮(れん)はそっとほぐした。
 少し湿った泥のかけらが、煌(こう)の頬にぱらと落ちる。だが幼い弟は何も気付かず、彼女の膝の上で穏やかな寝息を立てていた。
 煌の衣服を見、次いで自分のを見る。真っ黒だった。肘も膝も破れている。もとは豪奢な刺繍がしてあったというのに。
 重沙海(ちょうさかい)を渡る風は、古えの詩の通りに心地よい。だが薄暗い小屋にいては、ふつふつと汗が浮かぶ。

 蓮も眠ってしまいたかった。飲まず食わずの逃避行が十日になる。蓮も煌も飢えというものを初めて知った。未知の感覚は、重沙の岸辺で一気に二人へ襲いかかった。
 わらの筵に(むしろ)腰を下ろすと、煌はすぐ寝息を立てた。蓮は弟を起こさぬようにしつつ、何度も唇を噛み、頬をつねった。
 じっと息を殺していると、辺りに散らばる網やびくがぐるぐると歪み始めた。蓮は慌てて、視線をすき間から漏れる陽光へと向ける。だが、夏の光はどんどん白く鈍く輝きだし、蓮の意識を浸食していった。眠気に震える唇で、蓮は呪文を唱える。
「私は煌を、耀国(ようこく)の王を守る。煌を守れるのは、私しかいない」
 しかし効果は数回で消えた。今の蓮にはもう呪文を唱えているのか、唱えている夢を見ているのかさえ、定かではなくなってきた。

 もう一度呪文を唱えようとした時、どこからか鳥が啼いた。はっと蓮は顔を上げ、小屋の入り口を見る。
「朱摩(しゅま)?」
 煌も気付いて身を起こした。汚れた手で、まだ眠そうな眼をこする。
 それには答えず蓮は立ち上がると、半分より動かぬ扉の間から外へ出た。途端に陽射しが目を刺し、目眩(めまい)が起きる。どうにか堪えて、蓮は砂丘を駆け上がった。
 だが、そこには誰もいなかった。浜へ続く林の間にも、人の気配は感じられなかった。
「姉上、朱摩が来たのですか?」
 嬉しそうに煌が尋ねた。待ち人の姿をいち早く認めようと、しきりと背伸びをする。遠くを見ようと額に当てた手には、砂浜を駆けてくる際に転びでもしたか、うっすらと血がにじんでいた。
 蓮はその血を拭おうと煌の手を取ったが、手拭いを失せていた事を思い出した。ただ小さな掌をそっと握りしめる。
「あれは鳥じゃ。朱摩なら、私達にもわかる口笛を吹くはずじゃろう」
 煌はうなだれて砂浜に座り込んだ。
 蓮も隣に腰を下ろし、自身の落胆を悟られぬよう、努めて普通に話を続けた。
「朱摩なら大丈夫じゃ。可国(かこく)の斥候なぞすぐにやっつけてくるぞ」
「はい……程(てい)将軍も無事だといいのですが」
 煌が不安げに呟く。
 将軍の事は確かに蓮も気がかりであった。だが、先に口にされてしまった事と、気弱な弟に少々うんざりして、蓮は黙って海を見つめた。

 鏡のような光景だった。
 打ち寄せる波も、砂粒も、蓮と煌が隠れていた薄汚れた小屋さえも、注ぐ陽光を互いに反射しあっているようで、蓮は思わず眼を細める。
 ふと一瞬、影が砂浜に落ちた。
 空を見上げると、大きな鳥が一羽、二人の遥か頭上で弧を描いている。
「綺麗な空ですね。海と同じ色ですよ」
 うっとりと煌が話す。こんな時に何を言っているのだろうと、蓮は一層苛々してきた。
「戻るぞ。ここで見つかったら、朱摩の苦労も水の泡じゃ」
 煌は素直に返事をすると、砂丘を駆け下りていった。
 小屋の暗がりにまた座り込むと、蓮のまぶたが再び重くなってきた。
「今度は姉上が眠って下さい」
 むしろを整えて、煌が元気よく言う。
「私はいらぬ」
「さあ遠慮なさらずに」
 煌は思いのほか強い力で蓮をぐいと引き寄せた。
 横になり、わらの匂いを嗅ぐと、抗おうとする意志は簡単に消えてしまった。蓮は諦めて目を閉じた。
「以前、叔父上が仰っていました。空と海は、人の計る事ができないほど遠くで一つにつながっているのだそうです。いつかそのつなぎ目を見てみたいものですね」
 煌の言葉を聞きながら、蓮は深い眠りに落ちていった。



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