| 瓶 覗 き の 青 | ||
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人魚を手に入れた。
もともと負けず嫌いなたちである。ネットオークションに洒落で入札したら、ついつい落札してしまった。 数日後、大きな段ボールがアパートに届いた。フタを開けるとおがくずがびっしり詰まっていた。木のいい香りがする。慎重にかき分けていくと、いきなりおがくずが飛び散った。 尾が見えた。しかし水のない箱の中で余程疲れていたのだろう、さっきの一撃で静かになってしまった。慌てて尾を掴んで取り出した。 半人半魚、本当の人魚だった。逆さに持ち上げられながら、薄目を開けてキィと小さく鳴いた。小さな口からは鮫のような歯が見えた。ひとまず風呂に放り込んだ。今日はまだ焚いてないし、入浴剤は入れてないから大丈夫だろう。人魚は正しく水を得た魚、風呂桶の中をくるくると泳ぎ始めた。下半身の鱗も、小さく隆起した胸も、水に流れ落ちる髪も、深海魚のような色をしている。しばらく眺めていたが、人魚は一向に愛想を向けずに泳ぎつづけていたので、金魚と同じだなと思った。 段ボールとおがくずを片付けようと部屋に戻る。よく見るとおがくずの間に注意書きが一枚入っていた。A4版でワープロ打ち、十数行のそっけないものだった。 水の交換は週に一回。なるべく日光に当ててカルキを抜いたものにすること。 視力が弱いのんで暗い場所を好む。水槽は暗所に置くか黒い紙で覆うなどすること。 空気ポンプは必要なし。 水槽を移し替えるときは必ず尾を持つこと。 最低温度は摂氏十度、最高温度は摂氏十八度とすること。 他の魚とは混在させないこと。 水槽内には砂利や疑似海草などは入れないこと。 餌は金魚餌か麩のみ。他の餌は絶対に与えないこと。 最後の餌の項目だけ、ゴチック体で書かれていた。生憎と金魚餌も麩もないので、あとで買いに行かねばならない。おがくずをゴミ袋に入れ、段ボールを崩して紙紐で縛る。掃除機をかけて飛び散った分をきれいに片付けた。 風呂場の様子を見ると、相変わらず人魚はぐるぐると泳いでいる。しかしこのままここで飼うわけにもいかない。とりあえず水道水のカルキを抜こうと、洗面器ややかんに水を溜めた。コップも目に付いたがそれじゃあ幾つあっても間に合わない。ゴミ箱にスーパーのビニール手提げを入れて、その中に水をいれてベランダに置いた。 それからおがくずの入ったゴミ袋と段ボールの束を持ってゴミ置き場へ出た。ゴミの日は明日だから本当は出してはいけないのだが、他にも燃えるゴミ、燃えないゴミ、資源ゴミなどがたくさん出されていた。一応種類別に積まれているようで、それに習って袋と束を置いた。 粗大ゴミの山の隣りに、大きなかめがあった。茶色くところどころ煤けていて、口の辺りは何カ所か欠けていた。人魚の水槽に丁度いいと思って、そのかめを担いで部屋へ戻った。 ベランダにかめを置き、日にさらしていた水を入れる。準備していた分では全く足りなかったので、やかんを持って流しとベランダを何度も往復した。かめの三分の二が満たされるころには、もうへとへとだった。 風呂場からキィキィと鳴き声が聞こえてきた。よろよろとそちらへ向かったが、人魚はなんでもないようにぐるぐると泳ぎ続けていた。今日はこのまま風呂場に置いて、明日あのかめに移し替えることにした。 夜、夢を見た。人魚が水を吸って膨張し、人間の大きさになる夢だ。美しい女は魚のような丸い目でこちらを見つめながら、水掻きのついた細い手で俺の手を掴むと、自らの胸にゆっくり導いていった。胸はひやりと冷たく井守に似た艶やかさを持っていた。そこは静かに上下をしていたが、果たして人魚は肺呼吸なのだろうか。どこかに鰓がついているのではないか、そう思って首筋に手を伸ばしたとき、人魚の口から、いや鼻や目や耳からも薄青い水が溢れだし、部屋を街を満たしていった。人魚は俺の手を離すと、悠々と泳いでどこかへ消えた。 叫ぶような声で目が覚めた。人魚はまだ風呂桶にいた。丸い目でこちらを見上げ、鮫歯をかちかち鳴らしている。腹が減ったのかもしれない。インスタント味噌汁があったことを思い出した。具の袋から麩を取り出して人魚にやった。幸いなことに人魚は食べるのが非常に遅く、小さな一つの麩を何度も噛んでいる。この間にコンビニで麩を買ってきた。十分ほどかかったのだが、風呂にはまだ幾つも麩が浮いていた。小さな口に生えた鮫のような歯は、本当は麩や金魚餌みたいな生温いものではなく、魚や貝などもっと別のものを食べるためにあるんじゃないだろうか。にちゃにちゃと咀嚼する音を聞きながらそう考えた。 麩を二つ残して人魚は食事を終えた。満足したのかゆっくりと風呂桶の中を泳ぎ始める。その尾を掴まえて引き上げると、ベランダの瓶の中へ入れた。夜の間に水はとても冷えていたらしく、さすがの人魚も驚いたのか薄青い尾で大きく何度も水を叩いた。顔をしかめながら濡れたTシャツを脱ぐ俺を、人魚は水の中から丸い目で見上げていた。 朝と晩、麩を与えるのが日課になった。幸か不幸かベランダは北向きだったから日光にはあまり頓着しないで済んだ。瓶の中を覗くと薄青い尾ひれがゆらり、揺れる。時折水面に浮かんではこちらを見上げ、だがすぐに潜ってしまう。底の暗がりに鱗だけが淡く光っていた。 ある朝、麩を与えようと蓋代わりの段ボールを寄せると、欠けていた瓶の縁で手を切った。ぷつんと浮かび上がる血を舐めながら麩を水に落とす。人魚は両手で麩を持って囓っていたが、何かを見つけたかのように顔を上げて俺を見た。水から薄青い手を延べる。麩がもっと欲しいのかと袋ごと差し出した。 腕を掴まれた。棒切れのような手が信じられない程強い力でぐいぐいと腕を引っ張る。不意を突かれてつんのめり瓶の縁に胸が当たった。水面に麩が散った。 人魚は指を、さっき切った血の滲む指を、鮫歯の小さな口にくわえ一心不乱に吸っていた。そう、血を吸っていたのだ。吸引の勢いは激しく、ほんの少しの傷だったのに身体中の全てが人魚に吸い込まれていくようだった。目の前が白くなっていく。瓶にもたれ掛かると、中の人魚は薄青い肌に赤味が差し、鱗の輝きが増しているように思えた。 人魚は次第に大きくなり、瓶から尾がはみ出した。いや尾ではない。脚だ。俺の指をくわえたまま人魚は脚をばたつかせ、瓶を倒して割った。身体にかかる水が心地よくて泣きそうになった。声を出したらキィという音がした。 消え入りそうな意識の下で、人魚は人間の女になり、俺をそっと抱きかかえた。一番大きな瓶の欠片に残った水に、俺を放した。まだ色の付いていない水ような薄青い目をこちらに向けて、一度だけキィと鳴いた。 その晩、ネットオークションに人魚が出品された。
終
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※あとがき※
ホラーのようなそうでないような、曖昧な話です。
小説企画「池袋テキストゲートパーク」参加作品。
ITGPは伝統色をテーマにした作品を募っているものです。
瓶覗き、という色は藍染めの色の一つで、一度だけ藍の液につけた薄い薄い藍色を言いますが、
テーマにはあまり沿わなかったなぁとちょっと反省しているところです。(03/08/10)
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