ヒカリは俺と一緒にこの病院にいる子だ。
同じ干支というから十一歳、小学五年のはずだが、もっと小さい感じがしていた。
少し鼻にかかった声と、「ヒカリね、ヒカリね」と自分を名前で呼ぶせいかもしれない。

 俺はヒカリを見たことがない。交通事故で目をやられてしまったからだ。
身体の傷はかなり治って、ぼちぼちリハビリを始める計画をしていたが、
目だけは全然ダメだった。角膜が両方とも深く傷ついてしまったらしい。

 雨の交差点、バイクでコケた俺は横断歩道へ突っ込んでいった。
赤い傘と黄色の傘が、最後に見たものだった。
幸いなことに事故は死人も怪我人も出なかったそうだ。完全に俺の独り舞台ってこと。

 ヒカリと出会ったのは、まだベッドに縛り付けられてた頃だった。
毎晩眠れずにいた。痛みもあったが、それ以上に怖ろしくて仕方がなかった。
目は閉じられたまま、真っ黒なスクリーンにその瞬間が何度もリピートされて、
いつまでも終わらない。

「お兄ちゃん、痛いの?」

 暗闇の向こうから突然聞こえた声は、夢なのか現実なのか最初は分からなかった。
 ただ事故の映像はぱっと消えて無くなった。

「看護婦さん、呼ぶ? どうする?」
「呼ばなくて、いい。怖い夢を見ただけだから」

 返事をした俺の声は現実。カラカラに渇いた喉に痛みが起こったから。
落ち着こうと何度か深呼吸をしたら、不意にほっぺたがひやりとした。

「大きいお兄ちゃんでも、怖い夢を見るのねぇ。大丈夫よ、ヒカリがついていてあげるから」

 冷たい感触は、どうやらその子の掌のようだ。
 包帯の巻かれていない部分の顔をそっと撫でていく。
 お菓子のような甘い香りのする手は、とても心地が良かった。

「今、何時?」
「夜の二時よ」

「君はだれ?」
「ヒカリ」

 俺は二人部屋に入っているが、向かい側のベッドは空いているはずだ。
 だが、この際幽霊でも構わない。繰り返す映像を止めてくれたのだから。

「そうだ、お兄ちゃんがよく眠れるように、ヒカリ、絵本を読んであげるね」

 言ってヒカリはパタパタとスリッパを鳴らして、部屋を出ていったが、すぐにまた戻ってきた。

「じゃあ読むからね。眠たくなったらいつでも寝ていいのよ」

 そしてヒカリは絵本を読み始めた。
 が、棒読みもいいところ、国語の教科書の朗読のようだ。
 その上、猫がひなたぼっこをした話や、何度も死んだり生き返ったりする話、
たい焼きを作る話などなど、とにかく次から次へとヒカリが絵本を読むのだから、
まったく寝るどころじゃなかった。

「猫の絵本ばかりだね。猫が好きなんだ」
「うん! 猫はね、暗い所でも目が見えるんだよ。ヒカリも猫みたいになりたいな」

 はしゃぐような明るい声に、俺の気持ちも少し楽になった。

「お兄ちゃんは、普通のお目々にするの?」
 顔の半分を覆った包帯の上を、ヒカリはそっと撫でながら訊いた。

「どうしようかな。猫の目も楽しそうだけどね」
「猫のお目々にした方がいいわ、そしたら暗いところも自由に歩けるのよ。
お兄ちゃんはきっと虎猫のお目々がいいわ」
「虎猫? 何で?」
「だって髪の毛が金色でそっくり」

 うふふとヒカリは笑い、あははと俺も笑った。
久しぶりの方向に動かした顔の筋肉は、以前より固くなっていたような気がしたが、
それでもとても気持ちよかった。

 その後もヒカリは絵本を何冊も読んだ。
俺は絶対に眠れないと思っていたが、いつの間にか眠ってしまった。
そういえば小さい頃、枕元でおはなしを読んで貰ったなぁと、眠る直前に思い出した。

 こうして俺たちは夜な夜な遊ぶようになった。



 ヒカリは夜にしか遊びに来ない。ずっと俺の病室に居て喋ったり遊んだりするものだから、
俺の生活もすっかり昼夜逆転だ。診察やリハビリの時に、何度も大欠伸をしてしまう。

 まだ少し熱っぽいので、ヒカリの冷たい手はとても気持ちがいい。
何故いつもひんやりしているのかは、ヒカリに訊いても教えてくれなかった。
小学校も高学年になれば、もう冷え性などの症状が出てくるのかもしれないと、
勝手に解釈していた。ミチも冷たい手をしていたから。

 夜のヒカリに、具合の悪そうな所は感じられない。俺しか居ない広い二人部屋を、
まるで運動会のように走り回り、発表会のように大声で絵本を読み、遠足のようにお菓子を広げた。
お陰でヒカリが帰った後は、布団が何だかざらざらしたり、ベタベタしたりする。

「いい年した男の人が、ベッドで隠れておやつを食べるなんて、みっともないですよ」
「俺じゃないッスよ!」

 お陰ですっかり、看護婦に叱られるのが毎朝の日課になってしまった。
まあ、俺じゃないと知っててからかっているのだろうと思うが……そう思いたい。

 看護婦は、ヒカリの事を訊くと途端に忙しくなるらしい。
ナースサンダルをぱたぱた言わせて去ってしまう。本当は足音も立てずに歩けるのに。
だが俺があまりしつこく訊くものだから、とうとう看護婦の一人をキレさせてしまった。

「患者さんのプライバシーに関わることは、病室の番号も含めてお知らせできません!」

 ごもっとも。患者の名前はもちろん、病名なんかもべらべら喋っちまうような医師や看護婦は、
どんなに腕が立ったって信用できやしない。

 けれど知りたかったんだ。ヒカリが本当に居るのか。どうして夜しか現れないのか。
どうして冷たい手をしているのか。

 病気でもケガでも、体の具合を本人に訊くのは気が引けた。
 それに、あんたは笑うかもしれないが、もしヒカリが座敷童子とか
そういった類のものだったりしたら、訊いた途端に消えてしまうんじゃないかと思っていたんだ。
だから周りから情報を仕入れようと思っていたけど、回りくどいことはもう止めることにした。

「ヒカリ、お前、何で病院にいるの?」

 ある晩俺はズバリと訊いた。

「ここは整形外科の病棟だけど、お前もケガ? それとも、どっか別の病棟にいんの?」

 ヒカリは黙ってしまった。もしかしたら、困って泣きべそを描いているかも知れないと思うと、
猛烈に後悔が襲ってきた。恐る恐る声を出す。

「……ヒカリ?」
「ヒカリね、お日様に当たっちゃいけない病気なの。ヒカリはヒカリって名前だけど、
お日様の光で火傷をしてしまうの。だから、夜しか遊べないの」

 あっさり喋るヒカリの答えに拍子抜けする。とはいえ内容は重い。

「じゃあなかなか友だちと遊べないな」
「平気よ、ヒカリにはお兄ちゃんがいるもん」
 言ってヒカリは俺の頬をぺちぺちと叩いた。
「お兄ちゃんと遊べたら、ヒカリはなんにも淋しくないよ!」

 そこまで言われれば、気合いを入れない訳にはいかない。ヒカリが、
「お日様が昇りそうだから帰るね」
 と言うまで、二人で遊び続けた。



 次の日というか、その日の午前は脚のリハビリが入っていたんだけど、正しく爆睡、
気付けば昼飯も下げられてしまっていた。盛大に鳴く腹の虫に、どこからか苦情が来たのだろうか、
看護婦が昼飯に付いたヨーグルトを持ってきてくれた。

 空腹は最高の調味料というが、そのヨーグルトの美味いことといったら!
 あんまり美味くて涙が出そうだった。

 食べ終わった後、何気ない調子を装いながら俺は看護婦に切り出した。

「日光、っていうか、紫外線を浴びられない病気って、この病院で治療できんの?」
「うちじゃあちょっと無理ですね。わぁ、意外と純粋なんですねぇ」
「純粋!?」
「昨日テレビに入った映画を見た……っていうか、聞いてたんでしょ?
私は前に映画館で見たんですけど、あれって主人公が紫外線を浴びられない病気なんですよね。
テレビ室で見てた人全員号泣して大変だったって、昨日の当番が言ってましたから」

 純粋、純粋、と看護婦はくすくす笑いながら出ていった。
 ヒカリに一杯喰わされた、と気付いたのは、それから10分も経ってからだった。
よくよく考えれば、すぐにわかったことなのに。

 その晩、遊びに来たヒカリに俺は、まだ騙されてる振りをした。
いつ本当のことを言って驚かせてやろうと内心わくわくしていたが、
いつまでもきっかけを掴めずにとうとうその日はヒカリをびっくりさせられなかった。

 後から思えば、この時に無理矢理でも話題を持っていかなくて良かった。
誰のためでもない、他ならぬヒカリのために。



 腕と脚のリハビリが本格的に始まると、その後にサンルームでぼんやりするのが、
俺の日中の日課になっていた。夜は相変わらずヒカリが遊びに来ていたし、
訓練が終わるといい具合に疲れているので、温かい場所でうとうとするのはとても気持ちよかった。

 今日は小雨が降っているようで、サンルームは思ったほど温かくはなかった。
窓が開いているのか、さらさらという雨音が意外とはっきり聞こえていた。

 ふと甘い香りが鼻をくすぐった。風に乗ってきた匂いに覚えがある。
もっとよく嗅ごうと顔を上げたとき、あっと小さく息を飲む声がして、それで俺は確信した。

「ミチ?」

「コウ……」
 サンダルかミュールか、カツカツと踵をならしてミチがそばにやってきた。
包帯が取れたばかりの左腕をとる。冷房が効いているのに、ミチの掌は熱かった。

「何しに来たんだよ」
「コウが事故ったって聞いて、それであたし、心配して……」

 俺は鼻で笑った。

「心配なんていらねぇよ。ホントに何しに来たんだ? 俺の間抜けヅラを見物しに来たのか?」
「違う、違うよコウ!」

 ミチの手が更に熱くなった。

「あたしはホントに心配して来たの、本当に……!」
「そうかい、ありがとよ」

 俺はミチの手を乱暴に振り払って立ち上がった。
勘を頼りに病室に帰ろうとしたが、すぐ椅子か何かに躓いてばったりと転んだ。
「コウ!」

 カツカツとミチが駆け寄り、俺を起こそうと抱きかかえた。
「触るな!」

 叫ぶとミチの身体は大きく震えた。押しのけるようにして立ち上がると、
手すりを探ってしっかり握った。ミチに手を上げないように。

「帰れよミチ。お前、もう別の男とつきあってんだろ? 見舞いに来る意味ないじゃん」
「コウ、話を聞いてよ!」
「ヒカリ!」

 ミチの声を遮って、思い切り怒鳴った。

「ヒカリ来いよ、病室に連れてってくれ! ケガだらけで目が見えない俺を連れてってくれよ!
女に振られたショックで事故っちまった間抜けな男を、可哀相に思うなら、
ヒカリ、起きて連れてってくれ」

 コウ、と呟くミチの声が震えていた。ざまあみろ。傷つけばいい。
恥をかけばいいんだ。俺はもう傷だらけだし、恥ずかしくも何ともない。

「ヒカリはここにいるよ」

 手すりを固く握っていた拳に、ひやりとした感触が訪れる。
ヒカリの小さな手を俺は握りかえした。

「悪いな、起こして」
「ちょうど起きたところだったから……お姉ちゃんはお兄ちゃんの友だち?」

 首を傾げたのだろう、ヒカリの髪が腕に触れる。

「……この子、なに? どうしたの?」
 うろたえた様子のミチの声に、俺は内心ほくそ笑んだ。

「ヒカリさ。俺の新しい恋人だよ、可愛いだろう?」
「本気なの?」
「さあね。ヒカリ、このお姉ちゃんに俺は振られたんだ。それで事故ってこのザマさ。
なぁミチ、お前ひょっとして新しい男と一緒に来てンのか? まあいいけどよ、
俺、見えねぇから。丁度よかった、俺、お前なんてもう見たくもないんだ」

 ヒカリが何か言いたそうに俺の手に触ったが、俺は構わずに思いっきり嘲笑った。
止まらないし、止めるつもりもなかった。更に罵声を浴びせようとしたとき、

「……お兄ちゃん、お姉ちゃん帰っちゃったよ」

 小さな声でヒカリが言った。そういえば香水の匂いがしない。
俺はようやく笑うのを止めて、大きく息を吐いた。ヒカリは俺に手を添えて、
黙って病室へ誘導しはじめた。俺も黙ったままでいた。

「お兄ちゃん……」

 ベッドに腰掛けたとき、ヒカリがようやく口を開いた。

「あのね、あのお姉ちゃん、一人だったよ。一人でお兄ちゃんのお見舞いに来ていたのよ」
「そうかよ」

 俺はいらいらと舌打ちをした。

「ちゃんとお姉ちゃんに謝らないと。お姉ちゃん、泣きながら帰ってっちゃったよ」
「うるせぇ、ガキに何が分かるんだよ! 部屋に帰れ!」

 ヒカリは黙った。スリッパの音が力無く遠ざかって行く。

 呼び付けておいて八つ当たりをして、バカの極みだ。けれどいらいらが治まらない。
ミチの香水を嗅いだ頃から、闇のスクリーンには、同じ場面がリピートされていた。

 バイクで走る俺。駅前で見つけた空色の傘、ミチ。笑顔で誰かに手を振っている。それは俺じゃない。黒い傘がするするとやってくる。知らない男。知らない顔のミチ。重なる空色の傘と黒い傘。ミュールの細い踵が、地面から二センチ浮いた。クラクションを鳴らす俺。傘は離れ、ミチの大きな眼が更に大きくなる。薄暗い雨の中、空色の傘ばかりが鮮やかだった。

 思い出したくなくても、見たくなくても、見えないこの目の裏側には、映像が繰り返される。
こんな嫌なものは見たくない。

 ヒカリに絵本を読んで貰いたかった。頬を撫でて欲しかった。
そうすればこの嫌な映像は、きっと消えて無くなるだろう。
見えないのだから、暗い部屋は苦痛じゃない。
リピートする映像も、ヒカリが消してくれると思えば我慢できた。

 ごろごろと雷鳴が遠くから聞こえ、窓に雨粒が当たり始めた。
俺はずっと起きていた。
ヒカリのスリッパの音を聞き逃さないように、じっと耳を澄ましていた。

 けれどヒカリは現れなかった。



 次の日も、その次の日も、ヒカリは姿を見せず、俺は謝ることの出来ないまま、
いらいらが募るばかりだった。思い切って看護婦に訊いたところ、ヒカリは転院したという。
ならば現れるはずがない。

 ひどく後悔した。ヒカリへの八つ当たりも、ミチへの態度も。
そもそも俺がもっと大人だったら、ミチは別の男に目を向けたりしなかっただろうし、
俺は入院なんてすることはなかった。けれど、入院したことでヒカリと出会ったことを考えれば、
どこからどこまで後悔すればいいのだろう。

 目の裏の暗闇には、昼も夜も映らない。起きている、そう思っているのは実は違って、
本当はずっと夢を見ているんじゃないかとさえ思う。黒いスクリーンに映し出された、
この上なくリアルな夢を。

 その日、俺は真っ黒で何も無い中に、ただぼんやりと立っていた。遠くに光がある。
小さいが美しい光を、おれは手に入れようと必死に走った。もう少しで掴めると思ったとき、
看護婦に揺り動かされて目が醒めた。

「角膜の提供者が見つかりました。これからすぐ手術に入ります」

 後で訊いたら、それは正に日の出の時だったという。俺は、光を取り戻す。



 包帯を取る毎に、一段また一段とスクリーンの黒さが曖昧になっていく。
光の世界に歩んでいく、そんな感覚が身体中にみなぎる。
瞼はまだしっかり閉じているのに、眩しくて眩しくて仕方なかった。

「ゆっくり、目を開けて下さい」

 暗幕の裾から、朝陽のように世界が広がっていく。
白い部屋が、光を反射してきらきらと輝いているようだった。

 正面に、眼鏡をかけた白衣のオッサンがいた。その左右に看護婦が一人ずつ。
茶髪のおさげと黒髪のショートヘア。俺の視線を受けると、二人ともにっこり笑った。

「うん、目を開けてすぐに看護婦に目がいくようなら、手術は大成功だ。おめでとう」

 オッサン先生は俺の手をぎゅっと握った。そう言われると、俺も嬉しくなってきて、
笑ってその手を握り返した。途端に涙がぼろぼろとこぼれ始めた。

「うわ、何だ俺?!」
「きっと目がまだ明るさに慣れないんだよ。涙は目を綺麗にするから、泣いていて構わないよ」

 オッサン先生が笑って言うし、看護婦もまるで気にしていないようだが、
美人を二人も前にしてはさすがに恥ずかしい。

「そういえば、角膜を提供してくれた人……ええとドナーっていうんですよね。
その人のご家族に会えたりとか、できるんですか? ぜひお礼が言いたいんですけど……」

 するとオッサン先生は、今までとは違う静かな笑顔で俺を見た。
こうしているとちゃんと医師に見える。

「残念だろうけど、ドナーのご家族に会う事はできないんだよ。
ドナーとレシピエント、両方のプライバシーを守るためにね」
「そうなんですか……」
「ただし、名前を伏せてならお礼の手紙を渡すことができる。書いてみるかい?」
「はい!」

 喜んで頷いた。

 診察の後、早速購買で便箋を買いに行った。
あいにくちゃんとしたものは売り切れで、使えそうなのは空の写真のついた便箋しかない。
悪くはないが、二十歳を過ぎた男が使うには可愛らしすぎる。
それでも花柄やキャラクター便箋に比べればまだマシと思って、それを買った。
案の定レジのおばちゃんは不思議そうな顔をした。

 病室に戻るとすぐに手紙を書き始めた。とはいえ、「はいけい」のはいの字の横棒が
三本だったか四本だったか思い出せず、そこだけで一時間も筆がうろちょろしていた。
すぐに目が疲れてまた涙が止まらなくなったが、俺が再び得た光に、どうしても感謝したかった。

 書いては書き直しを繰り返し、文字通り泣きながら書いた手紙は、
何日もかかってようやく完成した。十二枚入りの便箋はギリギリで間に合った。
漢字に自信は無かったが、気持ちだ気持ち、と自分に言い聞かせて封をした。

 お願いします、と差し出した夏空写真の封筒は、

「……ガラじゃないねぇ」

 案の定オッサン先生に笑われた。
おっさんの後ろで器材の整理をしていた看護婦の肩も、小刻みに震えていた。

「ちゃんとドナーのご家族に、渡しておくからね」
「手紙の中にも書いたんですけど、便箋、購買にそれしかいいのが無くて使ったんだって
ちゃんと言って貰えます? 変な奴じゃないからって言ってくださいね!」
「わかったわかった」

 オッサン先生は丁寧に引き出しにしまってくれた。

 その日の夜、俺は久しぶりに夢を見た。見た、というのは当たっていないかもしれない。
なにせ真っ暗だったから。移植前の時の夢、というのが正しい。

 光を知ってしまってからは、暗い世界はただただ怖ろしかった。
よく耐えられたと自分を褒めたかった。

 頬に冷たい感触がして、ああヒカリだ、と思ったときに目が醒めた。
朝陽が昇って来た頃だった。光が部屋に少しずつ満ちてくる。

 頬に手を当てると濡れていた。ヒカリではなかった。
 また少し泣いたのは、目が痛くなったせいだと思う。



 それから何日か経って、退院できることになった。
通院とリハビリはまだまだ必要だが、家に帰れるのはやはり嬉しい。
姉貴が車で迎えに来てくれた。薄いピンク色の低公害車だ。
あまりスピードの出ないそれは、今の俺にとって痛いところをつんつん突っつく。
もちろん姉貴のせいじゃないが。

 朝から雨が降っていたが、天気予報によるとそろそろ止むらしい。

 荷物を積み終わり、最後に挨拶をしてこようとオッサン先生を探しに行く。
丁度診察室から出てきたところを見かけ、声をかけようとしたが、止めた。
オッサン先生の手に、あの、夏を切り取ったような封筒が握られていたからだ。

 オッサン先生はサンルームの方へ進んでいく。
俺は看護婦にも見つからないように、オッサン先生の後をつけていった。

 サンルームには、女の人が一人いた。オッサン先生はその人に挨拶をする。
三十代の後半ぐらいだろうか。
そんなに美人じゃないが、笑ったら明るくてキレイな顔をするだろうなと思う。

 不倫か、とは茶化せなかった。オッサン先生が、夏空写真の封筒をその人に渡したから。

 二言三言、二人は話をして、オッサン先生はまた礼をしてサンルームを出ていった。
俺は見つからないように柱の陰に隠れたが、オッサン先生は脇目もふらず歩いていったので、
あんまり意味はなかったかもしれない。

 女の人は、椅子に腰掛けると手紙を読み始めた。
俺のへたくそな字が読まれているかと思うと心底恥ずかしかったが、そのうち女の人は
泣き始めてしまった。手紙をぎゅっと胸に抱いて。

 静かに泣くその姿に、俺は堪らなくなってサンルームに入った。

「あの、大丈夫ですか?」
 女の人はびっくりして俺を見ると、慌てて涙を拭った。急いで手紙を折り畳む。

「大丈夫です、ごめんなさい……お手紙を読んでいたら、何だか泣けてきちゃって」
 白いハンカチを出して涙を拭う。

「これね、亡くなった娘が、角膜を提供した人からのお手紙なんです。
手術が成功して、またものが見えるようになった、ありがとうって……」
「そうなんですか……」

 俺は知らない振りをした。ドナーの家族とレシピエントは、本当は会っちゃいけない。
院内で手紙を渡したのは、俺がもう帰ったと思ったオッサン先生の判断ミスだろうけど。

 けれど俺の好奇心は押さえつけようもないほど膨らんでしまっていた。

「どんな方だったんですか?」
 禁じられた質問を、俺は女の人にぶつけた。

「娘はついこの間亡くなったんです」

 意外にも女の人は、ゆっくりと口を開いた。
もしかしたら、悲しみを誰かに話してしまいたいのかもしれない、と勝手に考えた。

「娘は、火傷の治療をしていたんです。この病院で友だちを見つけたようで、
お見舞いに行くとその人の話ばかりしていました。たまたまかかった風邪を
こじらせてしまって、それが元で……」

「そうなんですか……」
 俺が相づちを打つと、奥さんは微笑むような泣きだしそうな、ひどく曖昧な表情をした。
奥さんの年齢からすると、小学生か中学生の子どもだろうか。
俺の目は、そんな小さな子の目だったのかと思うと、申し訳ないような気にもなり、
また絶対に大切にしようと改めて思った。

「あの子は、火傷を気にしてあまり外に出たがりませんでした。学校にも行ってません。
世界は広く、楽しく、美しいものだと知らずにいたんです……でもあの子はただ死んだのではなく、
あの子の目が誰かの目になって、世界中を見て回ることができるようになったんだ……そう考えれば、
きっとあの子は幸せなのだと、思えるような気がするんです」

「そうなんですか……」
 俺はまた同じことを言った。もう少し何かいいことを言えないかと、必死で頭を働かせた。

「あの、奥さん、きっとその角膜を貰った人も、絶対大事にしようって思ってると思いますよ。
いっぱいいろんなものを見ようって、思うと思いますよ。何せ、ほら、俺の……じゃない、
自分の目とその人の目と、二人分の目ですから。きっと大事にしてくれます」

 たいして気が利いてるとは思えなかったが、俺の今の気持ちを精一杯告げた。
すると奥さんは赤くした目のままでにっこり笑った。

「ありがとうございます」

 予想通りチャーミングな笑顔だった。おれもにっこりと笑顔を返す。

「ありがとうございます。娘も、光梨もきっと喜びます」

 俺の笑顔はそのまま固まったのだろう。
だから奥さんは少しも怪しまずにじゃあ、と礼をして去っていったのだ。

 ヒカリ、と言った。

 この角膜の持ち主、火傷で入院して、風邪をこじらせて死んでしまった、あの女の人の娘の名前。
俺にはどうしてもあのヒカリしか思い当たらない。

 火傷の跡がなかなか消えない年頃の少女は、夜にだけ、目を覆った俺の前にだけ姿を現して、遊んだ。

 なら、俺はあの時、ミチに嫌な思いをさせるためだけにヒカリを呼んだあの時、
ヒカリはどれ程辛かったろう。それでもヒカリは来てくれたのに、俺は八つ当たりして追い返した。
確か雨が降っていた。看護婦がヒカリは転院した、と言ったのは、きっと丁度、
風邪をこじらせていた頃だったんだろう

 自己嫌悪と後悔が激しく襲う。唇を噛んだがもう遅い。涙は次々と溢れてくる。
本当に痛い場所は、目でも腕でも脚でもなかった。

 ヒカリは来た。来てくれた。

 そして俺に光をくれた。



 車に乗り込むと、腫れぼったい目をした弟に驚いたのか、姉貴が片眉をちょっとつりあげた。
が、何も言わずにアクセルを踏む。俺は名残を惜しむ振りをして、窓の外ばかりを見ていた。

 ウィンドウを下ろすと、風が一気に入り込んできた。
伸びきった髪の毛がばさばさなびく。

 雨上がりの街は、汚れがすっかり流されている。
街路樹の葉の先に留まる水滴や路面の水たまりが空を映して、景色はいっそう眩しいように思えた。

「虹、出てる?」

 姉貴の言葉に空を見た。虹はない。

 だが、

「光……」

 遠くに残った雲の切れ間から幾筋もの陽の光が降りて、まだ所々に陰の残る街を
きららかに照らしていた。そこには、天から美しいものがやってくるような気がした。

 鮮やかなこの光を、俺はヒカリと一緒に見ていこうと思う。

 世界は、本当に美しかった。







あとがき。

久々に、ひとつの言葉を書くためだけに書いた小説です。

私は入院したことはないので、病院内の様子はTVや映画やマンガに出てくる断片を
つないで書いています。角膜移植については、ほとんど間違った知識だろうと思います。
が、読んでいる間は気にならなければいいな、と思っていますがいかがでしたでしょうか。

よろしければ、感想・批評などを掲示板にお寄せ下さいませ。

華天

2002.6.19.

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