君の存在理由(レゾンデートル)は、君自身の中にある。
生まれ変われ! 例え最後の一瞬でも、自分自身に!


[20]

[20.1]

 「お父さん」
「月日子か。もうそんな時間なんだね」

 月哉は立ち上がるとカップを用意し始めた。
 父親の研究室で、寝る前にあたたかいココアを飲むのが、月日子の日課だった。同じ建物内にいるとはいえ、なかなか話す機会に恵まれない親子である。たった数分だが、月日子が安心できる時間だった。

 月哉もまたそうだったのだろう、月日子のために、どんなに忙しい時でも彼女の為にココアを作った。(カップ以外は実験器具を使っていたが、それはそれで面白いと月哉は思っていたし、昔からそうだったので月日子は何の疑問も感じていなかった)。

 膝の上に月日子を座らせ、包むように抱きながら、月哉は
「お願いがあるんだけれど」
 月日子に言う。

「なあに?」
「ダイアナやアレスと、仲良くしてあげて欲しいんだ」
「私、二人と仲良くしているよ? こないだ喧嘩をしたけど、すぐ仲直りしたもん」

 不思議そうに月日子は言い返した。

「うん、ならいいんだよ。このまま、ずっとずっと、大人になっても仲良くしているんだよ」
「もちろん。でもどうしてわざわざ言うの? お父さんに言われなくても、そうするつもりだよ。……やっぱり喧嘩したから?」

 いいや、と月哉は首を振った。

「ダイアナやアレスは、特別な立場だからね。大人になればなるほど、孤独になっていくだろう」
「こどく?」

 月日子は首を傾げて父親を振り返った。

「そうだな、どんな時も独りぼっちで、例えようもないぐらい悲しいことだよ」
「太郎が死んだ時よりも?」

 大きな実験犬に、月日子は太郎と名付けて可愛がっていた。その犬が死んだとき、月日子は亡骸から離れようとせず、泣き疲れた彼女が眠った隙をついて、月哉が片付けたのだ。目覚めた月日子は、呆然としながらただ涙を流すだけだった。

「その時よりもずっと悲しいの?」

 久遠月哉は頷いた。

「もしかしたら、あの二人はずっと哀しい思いをするかもしれない二人なんだよ」
「じゃあ私がずっと二人のそばにいる。大人になっても、おばあちゃんになっても、ずっと一緒にいるの。そうしたら、二人ともきっと悲しくならないわ」
「もし、二人が先に死んでしまったらどうするの、太郎のように?」

 月日子は、その時を想像したのかうつむいてしまったが、やがて再び月哉を振り返った。

「……きっと、太郎の時より悲しいわ。けれども、二人にそんな悲しい思いをさせるぐらいなら、私がした方がいい」

 涙を堪えている娘を、父親は抱き締めた。自分が泣きそうになったからだ。黒髪を優しく撫でる。

「月日子が、こんなに優しい子に育ってくれて、本当に嬉しいよ。とても嬉しいよ……」

 月日子は幸せそうに笑った。

「ダイアナとアレスのことは、安心して私に任せてね。絶対二人をこどくになんてさせないから」



[20.2]

 銃の衝撃をそのままに、アレスと月日子は折り重なって倒れた。山車の花飾りが舞い上がる。
 灼熱の塊が胸を穿っているのに、ずれたなぁ、と久遠は暢気に思っていた。体勢が悪かったからか、彼女の意図していた位置……心臓には、銃弾は当たっていなかった。

 巻き付いていた久遠の腕から、あらがうようにアレスは逃れた。立ち上がろうとするが、身体に力が入らないのだろう、何度も膝をつく。彼もまた急所を撃たれはしなかったのだろう。だが押さえた胸からは、止めどなく血が流れていた。

「何故……ダイアナも、お前も死んでしまう……?」
「そうだ」

 久遠は花立てに寄りかかりながら、吐息混じりに返事をした。

「父は、立派な科学者だったと思う。だが愚かだった。自分の理論を証明したいという欲求に負け、アレス、お前とダイアナを、生み出してしまった」

 けれど、と久遠は静かに続けた。

「父は愚かだった。けれど、私は感謝している、アレスとダイアナに引き合わせてくれたことに」

 久遠の胸を押さえた掌の下から、熱い流れが止めどなく溢れる。指先にひっかかっていた銃を握り直した。

「お前まで死ぬ必要はない、俺と、ダイアナでたくさんだ!」
「いいや……」

 首を左右に振った。

「過去を無かったようにして、生きていくことはできない。私はこの馬鹿げた茶番に始末を付けたいんだ」

 そして、一人にさせないと、誓ったのだし。父と交わした約束は、こういう意味では無かった事を、久遠は百も承知している。

 しかし、彼の孤独が哀れだった。
 そして、重さに耐えきれなかった。

 流れる涙をそのままに、久遠は銃を構えた。

「月日子!」

 アレスの声は震えていた。怒りだった。
 信じられないほど強い力で、アレスは銃を奪うと、久遠の両掌をあっという間に打ち抜いた。
 声も出せずに、久遠はのたうち回る。

「卑怯だな、月日子。一番楽な方法を、お前は選んだ。そんなことは許さない」

 銃を遠くに放り投げる。と、アレスはがくりと膝をついた。

「くそ、俺の方が、もうダメか……」

 ダイアナの体力ではない。彼女をジャックしているアレス自身に、「終わり」が近づいてきていたのだ。

「おい、ガザ。まだその辺をうろついてるんだろう?」

 ニヤリと笑いながら、アレスは虚空へ囁く。瞑想するように目を閉じた。

「7分で作れ。お前を英雄にしてやるよ」

 目を開いたとき、藍色の瞳は、深く澄んでいた。

「月日子、これでお別れだ。アレスは去る。D・Dを連れてな」

 止めろ、久遠がそう叫ぶ間もなく、アレス、いやD・Dの身体が一瞬強ばり、次いで血をごぼりと吐き出した。目からも赤い涙があふれ出す。
 倒れ込む身体を受けとめようと、久遠は両腕を差し出した。落ちかかる重さ、撃たれた両掌に激痛が走る。

「アレス!」

 抱きかかえ、顔を覗き込むと、既に藍色の瞳は茫とし始めていた。

「……D・Dは、今ここで死ぬ。俺も」
「アレス!」
「お前は生きろ。そして忘れるな、何もかも……」

 アレスの声は、次第に声がかすれてゆく。

「何もかも全て覚えて生きてゆけ。それが、お前の成すべき事だ」
「アレス……」

 久遠はただ泣くしかなかった。

「さよならだ、月日子、そしてD・D」
「アレス! D・D!?」

 幾度名を呼んでも、藍色の瞳は靄のかかったままだ。

「D・D……アレス……ダイアナ……」

 誰の名を呼ぶべきか定かではないまま、久遠はただうめくように「彼ら」の名を呼んだ。
 が、その呼びかけに、しかし藍色の瞳が僅かに焦点を定めた。

「……ダイアナ?」

 更に焦点が合う。

「ダイアナ、ダイアナ!」

 抱きかかえる久遠を見上げて、彼女は一言を小さく呟いた。

 久遠は涙が出そうになった。声のか弱さにではない。ダイアナの呼んだ名が、自分のものではなかったからだ。二十年も前に亡くなった男は、まだこんなにも彼女を占めているのか。記憶ならばいつしか良い形に薄れよう。だが「記録」では。いつでもいつまでも鮮明に起こし出せる。

 それでは、と思う。
 それでは今まで過ごしてきた自分とのことはどうなるのだろう。幼い頃の事は構わない。けれど新たに二人が出会ってから、それからのことは彼女の目を醒ますのに必要ではなかったのか。
 D・Dの瞳は宙をさまよった後、再び光を失って静かに閉じようとした。

「月日子だ。私は月日子だよ、ダイアナ……」

 久遠はD・Dを抱き締めた。血にまみれてしまった白いドレスの肩にぽつりぽつりと涙が落ちる。
 路面に咲きこぼれていた夜光花は、蓄えた光を放ち切り、今こそ真の暗闇が火星を支配しようとしていた。

「ツ・キ・ヒ・コ……」

 小さな声。
 一つ、電球が点った。小さなちいさな赤い光だ。

「ツキヒコ……?」

 また一つ電球が点る。
 藍色の瞳がゆるゆると開き、白い手が静かに持ち上がった。

「ああ、私ったら、駄目ねぇ。あなたを、ドクターと、間違うなんて。全然、似てないのにねぇ。ごめんなさいね……」

 涙に濡れた久遠の頬を、D・Dは優しく撫でる。だが久遠は首を振った。涙は落ち続け、白い手はそれを拭い続けた。

「泣かないで、月日子」
「死ぬな、死なないでダイアナ、お願いだ……」

 久遠はD・Dの手を取ろうとしたが、震えて触れることすら出来ない。反対にD・Dが優しく包み込む。

「大丈夫、もうすぐ応援が来るから。怖くないわ、大丈夫よ」

 諭すようにあやすように、D・Dは笑った。そして誰へともなく呟く。

「少しだけ待って。まだ仕事が残っているから、もう少しだけ……」

 言うとD・Dは目を瞑った。
 ヴゥン、と小さな唸りが、足元で鳴った。チカチカと小さな電球が点滅を始め、やがて点灯に変わる。小さな光は星のように四方から煌めき始め、やがてそれは大きな天河となっていった。
 藍色の瞳は久遠を見上げ、美しく微笑んだ。

「火星ネットワークの修復は完了したわ。5分後に全てのラインが立ち上がり、同時に人々も目を醒ますはずよ」

 それから、と続ける。

「あなたの中に入ります」

 D・Dの手は、意外なほど強い力で久遠の頭を包んだ。強制侵入の方法は、アレスのやり方が記憶に残っている。それを確かめて、D・Dは心の中で感謝した。

 ありがとうアレス、と。

 これで月日子は死なずに済むわ。



[20.3]

 目覚めた人々は、見つけた。
 天にも届かん巨大な山車、燦然と輝くイルミネーション。洪水のような光にまみれ、火星の女神が黒服の女を抱きしめていた。二人の足元には太古の火星のように、赤い水が溢れ流れていた。
 女神の口元には、満足げな笑みが浮かんでいた。



[20.4]
 ジャッキー・ウォンは、再び『ザ・エージェント』のメインレポーターに返り咲いた。カーニバルの直前に取り付けておいたカメラが、この事件の一部始終を映しており、それが公表されてのことだった。

 ウォン自身は、映像を公開するのをかたくなに拒否したのだが、当事者が……久遠が希望したことで、マーズTVの電波に乗った。

 大停電のあの夜の出来事に、火星は混乱を隠せなかった。特に、久遠の出自と彼女の取った行動に、論議が集中した。
 結果、久遠は捜査官を罷免された。
 火星の至宝である『電脳』を傷つけたが為である。誰もが彼女の罪を問う気は無かったが、捜査官であるが故に、例外は認められなかった。
 久遠の罷免は、彼女がまだ意識を取り戻さないうちに決定し、執行された。

 久遠は生きていた。あの時、D・Dは久遠に侵入し、彼女を仮死状態にしたのだ。救急が駆けつけたとき、心臓の鼓動は寸前までに押さえられており、失血死寸前だった久遠は一命を取り留めのだった。

 ポール・ビアスは久遠の治療と同時に、電脳システムの解除を進めた。前もってD・Dが作っていたものを立ち上げるだけだったが、膨大なデータとその流通経路が完璧に作動するまで、五日を擁した。

 「電脳」をジャック、「久遠」と対決し、火星をパニックに陥れた「アレス」は、地下ネットで英雄と讃えられている。しかし彼の足取りはふっつりと消えた。接触した者は誰もいない。

 連盟は「アレス」の捜査を三日ほどで取りやめになった。指揮を任されたホクト・ラング捜査官の、

「死体が見つかると思うか? 火星じゃ毎日ン百人と死んでるんだぜ? それに屍街(モルグ)の捜査は、俺ァ嫌だネ」

 の言葉に、捜査員も頷いてしまったのだ。故に、彼の死体は確認されぬまま、事件は終結を迎えた。

 そして……。



[20.5]

 目覚めた久遠が最初に見たのは、白い手だった。
 ダイアナ、と喉声で問いかけると、額の冷却シートを替えようとしていたらしいその手は、喜びの声を上げた。

「月日子さん!!」

 きゃぁきゃぁと叫びながら、李美銀は部屋の外に呼び掛ける。彼女の声を聞きつけて、次々と部屋には人が入ってきた。
 ビアスがベッドの傍らにある計器を調べ、安堵したように頷く。

「おはよう、月日子。ぐっすりだったわね」
「ああ、よく寝たよ」

 久遠はゆっくりと微笑みを返した。起きるか、と尋ねたラングに背を起こして貰う。さっきまで吸っていたのだろう、身体から煙草の香りがし、早速喉の奥がむずむずしてくる。

「月日子さん、月日子さぁん!!!」

 待ちかまえたように李が抱き付いて泣きだした。

「もう起きなかったらどうしようって、ずっとずっとずっと……!」
「済まない……」
「心配、したんですから……」

 頭を撫でると、李は鼻をすすりながら顔を上げた。ビアスがハンカチを差し出す。

「……アレスは?」

 久遠の問いに、ラングは首を振った。

「考えつく所は全て探したがな。後は屍街だけだ。公式捜査は打ち切ってるが、どうしてもというなら、探してやってもいいぜ」

 今度は久遠が首を振った。

「いい。きっと望んでないだろうから」

 首を傾げる李の頭をもう一度撫でると、久遠は思い切って尋ねた。

「D・Dは……いや、ダイアナは、どこに?」

 目覚めたときから訊きたかった事。ひっきりなしに人が出入りする病室に、彼女の姿がない。金色の髪と白い手の彼女だけが。

「ダイアナは生きているんだろう?」

 一瞬の沈黙の後、ビアスが静かに告げる。

「確かに彼女は生きているわ。大怪我をしてるけど、命に別状はないし。けれど、もう会えないのよ、月日子」

 久遠の目が大きく見開かれる。

「電脳システムは解除されて、別機に置き換えている最中よ。彼女はね……」
「何故!? みんな終わったんだ! なのにどうしてダイアナが帰ってこない?! どこにいるんだ、教えてくれ!」
「月日子、例えあなたでも覆せないわ。それが彼女の望みでもあるから」

 彼女はね、とビアスは掴みかかった久遠の手を外しながら、優しく告げる。

「彼女はね、一人きりになってようやく『自分』になろうとしているの。それを邪魔する権利は、誰にもないわ」

 うなだれる久遠に一同がかける言葉を見つけられずにいたとき、

「暗いなぁ、どうしちゃったんですか? 月日子が起きたっていうから、急いで来たのに……」

 きゅるきゅると車輪を軋ませて入ってきたのは、グラウエンだった。

「グラウエン……!」
「月日子、ほらほら見てください」

 じゃーん、と口効果音をつけて、彼が高々と差し上げたのは、IDカードである。そこには、彼の顔写真と名前がタイプされていた。

「死亡届、ちゃんと訂正して貰いましたよ。ようやく生き返りました!」

 ニコニコと見せびらかすカードを取り上げ、ラングは窓の光にかざしてみせる。

「お、ちゃんと本物だ」
「ヒドイなぁ。でも一瞬考えたんですけどね、そっちの方が早いから……って、そんな目をしないで下さいよ、ちゃんと正式なIDなんです、いいじゃないですか……あれ?」

 きょとんとした目を久遠に向ける。

「どうしたんですか、月日子? どこか痛いんですか?」

 久遠は泣いていた。
 自分はこうでいいのだろうか。アレスは死に、ダイアナは誰とも交わらぬ自身の道を選んだ。自分だけが、元の場所にいる。
 果たしてこれが幸福なのかは分からない。きっとそれは、後の自分が決めるのだろう。死んでいればよかったと思うかもしれない。

 けれど、例えようもなく嬉しかった。
 生きていることが。
 この上なく幸せだった。
 仲間がそばにいることが。

 過去を無かったことにして、生きていくことはできない。過去の重さに負け、久遠は死のうとした。けれど今は違う。
 受けとめたい、と久遠は思っていた。全て受けとめて、背負って。それこそが、『今』であり、『未来』なのだと。
 全ては、自分の中にあるのだ。

 顔を覆う手を、涙はあたたかく濡らした。



[20.6]

 空港で、久遠は長い間たたずんでいた。ガラス窓に見えるシャトルの発着を、ずっと眺めている。彼女の手には、青い通常の渡航証と共に、白い身分証が握られていた。
 隣には、グラウエンが車椅子で座っていた。珍しく何も喋らない。彼の膝の上にも、白い身分証があった。

 今日、二人は火星を経つ。

 しかしもう何本もシャトルをやり過ごしていた。今日火星を離陸する便は、月行き、木星行き共に残り一便ずつになっていた。

 カーニバルから五日ほどで久遠は退院し、そのまま連盟も退いた。残務整理とファンレターの取り扱いに数日かかったが、それも全て終わった。
 そして、どういうつもりなのか、グラウエンもまた連盟を退職した。月日子がいないとつまんないもん、というのが彼の弁だが、果たしてどこまで本気なのか。

 ともあれ銃と『メモ帳』を返納した際、スペクター次長が二人に手渡したのが、白い身分証だった。捜査官ほど超法規的ではないが、かなり近い待遇を保証する「民間協力官」ものである。連盟も、二人をただでは下野させなかったのだ。

「月日子、月と木星、どっちに行きます?」

 静かにグラウエンが尋ねる。

「お前は?」
「月には後輩がいるんでしょう? 木星には僕の同期がいますよ。どうしましょうねえ」

 空港に来てからというもの、繰り返している問答をまたひとくさり、再び二人は黙ってしまった。

 グラウエンは、あのカーニバルの晩、最後に作ったプログラムを思い出していた。
 アレスに攻撃を返されてからも、グラウエンは機をうかがっていた。そこへ逆にアレスから交信があったのだ。
 このプログラムを作れ、と。
 彼の告げる公式と語句を元に、プログラムは2分とかからずにできた。それ程大きくはない。だがひどく精密だった。デバッグに倍以上の時間をかけた。
 今考えても、あの状況でああいうものを組めたことが、奇跡のように思える。
 彼が作ったのは、D・Dの仮死プログラムであった。
 あの時D・Dへ流し込んだそれは、死神の手より早く彼女を生へつなぎ止めた。

 久遠は、グラウエンがプログラムを作った事は知っていたが、それを指示したのがアレスだとは知らないだろう。彼もも言うつもりはなかった。

 D・Dは電脳という職を解かれ、今は火星の外れで暮らしているらしい。だがそこがどこかは、久遠は知らなかった。

「元気でいるだろうか……」

 久遠が小さく呟く。電脳ではない、ということは、生まれてきた殆どの意味を失ってしまったということだ。幼い月日子が、自らの出自を知った時のように。

「大丈夫ですよ」

 しかしグラウエンは頷いた。

「彼女はとても強い。あなたのようにね」

 ポーン、とチャイムが鳴って、木星行き最終シャトルの登場案内がアナウンスされる。次いで、月行きの最終も。
 渡航証の表紙を指で弾き、グラウエンは、

「さあ、月日子、どっちに行きます? どこへでも行けますよ。何てったって、僕らは最強ですから」

 笑った。



[エピローグ]
 小さなドームの中は、花々で埋め尽くされていた。甘やかな香りの中に、彼女が立っている。金色の髪はすっきりと短くなって細い首が露わになっている。以前の姿を知る者が見ればずいぶんと寒そうに見えるだろうが、彼女自身は満足しているようだ。冴え渡る夜空のような深い藍色の瞳を細めながら、咲き誇る花々を一つ一つ愛でていく。

 彼女はまた名前を失った。ドームの外でスタッフは皆彼女を「she」と呼ぶ。そのことを彼女自身知っているが、気にも止めていなかった。ようやく「自分」を、誰のものでもない自分を取り戻したからだ。

 花園の奥で、もうすぐ新種が咲く。無秩序に植えた花同士が受粉を繰り返し、新たな命が芽ばえている。球形に小さな蕾をたくさんつけたその花は、今にもぽんと弾けそうに膨らんでいた。

 いつもより空が明るいので、彼女は顔を上げた。ここには人工空の映像は映らない。火星の赤い空が沁みるように広がっている。

「あ、月」

 呟いた空のまん中に、白い月が浮かんでいた。
 満月だった。
 銀盆へ向かって、一隻の星間船が飛んでいく。
 彼女は微笑むと目を戻した。
 ちょうど花が咲き始めた。
 鮮やかな月光を受けながら、虹色の花弁は次々と、まるでカーニバルのように咲き広がっていった。




[the end]



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長い間、ほんとうに長い間、おつきあいしていただいて、
本当にほんとうにありがとうございます。

やはりというか何というか、未消化な部分がたくさんあります。
「あそこは伏線じゃなかったの?」というお声もたくさんあるでしょう(汗)。
気が付いた所は、どうぞお寄せください。いつか書くであろう改訂版にむけて
精進させていただきます。(ばれてない人の為に、どうかメールで・・・(笑))

この小説を読んでいてくだったみなさんが、ほんのわずかな時間でも、
月日子やグラウエンといっしょに居ることができたのなら、この上ない喜びです。

ほんとうにありがとうございました!

(02/03/12)

華天。


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