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[14]


[14.1]
 既にカーニバルは明日に迫った。今日は宵祭……前夜祭が行われる。
 どの街区も華やかさを一層増し、ビルの窓を彩る虹色の造花や、街灯からつり下げられる金銀とりどりの吹き流しは、「冬」に設定されている人工太陽の光をキラキラと美しく反射させている。
 まだ昼を過ぎたばかりなのに、早くも仮装をして歩いている集団もいて、熱気は高まるばかり。今日と明日は火星の誰もが役に立たない。そわそわしと仕事や勉強が手につかず、だが誰からも怒られはしなかった。社長も教師も最初から上の空なのだから。みな興奮を胸の中に抑え、夜を待ち望んでいる。

 森林公園を見下ろす展望台に、久遠とラングはいた。エア・レールの駅も兼ねている展望台から、李は一人だけ電車に乗った。メモ帳の電源を入れた彼女は、早々に連盟から呼び出されたのだ。訂正されなかった記憶に首を傾げつつ、李は連盟へ戻っていった。

「今頃どうしてるかなぁ」

 人工樹林の向こうに見える連盟ビルを見て、ラングは呟いた。

「ハゲ次長から大目玉を喰らってるんだろうなぁ。済まねぇなあ」
「えらく殊勝だな、ラング」
「まぁな。大決心を無駄にさせちまったんだ。挙げ句に連盟から呼び出しだろ? 悪ィと思ってるぜ」

 けどな、とラングは続ける。

「あれこれ用を言い付けられている方が、悩まなくて済むかもしれんしな」
「そうかもな」

 うなずいたものの、久遠はそれが李にとって良いか悪いかの判断をつけかねていたが。恐らくラングもそうだろう。先程から煙草を口元に運ぶ回数が少ない。気付くと短くなっている煙草を掃除ロボに捨ててばかりいた。

「何故、李は訂正されなかったのだろう」
「タイミングか、何らかの要素が足りなかったんだろうがなあ」
「……それが何か分かれば、全てが解決するような気がするんだ」
「急いては事をし損じる、さ。いっそ慎重すぎるほど慎重にいこうや」

 煙草のフィルタを噛むように、ラングが唇の端だけで笑う。つられて久遠も小さく微笑んだ。

 ポーン、とチャイムが鳴った。館内の広報TVが一斉にチャンネルを変え、連盟からのニュースを伝え始める。一日七回、10分程度の番組だが、連盟は専用アナウンサーを採用しており、アイドルタレント並みの人気を得ているキャスターもいた。

『……です。またルナ・シティーでは、増加傾向にあるESP能力者の実態を把握するため、専門の研究機関を連盟内部に設置しました。また、既にESP研究を始めているユノ・サテライトからは……』

 ESPねぇ、と呟いてラングは煙を吐いた。
 月や木星では十数年前から未知の特殊な力を持つものが現れ始めていた。犯罪に悪用する者も当然増え、今となっては無視できない状態になっている。

「月とか木星の勤務じゃなくて良かったぜ。わけわからん力を使われたんじゃ、こっちはどうしようもねぇ」
「今に火星もそうなるんじゃないか? まだ噂すら聞いたこともないがな」

 久遠の言葉にヤダヤダ、と億劫そうに首を振ったラングだったが、TV画面を捕らえた目がすっと変わった。同時に久遠も画面を見やり、眉をひそめる。
 画面にはD・Dの顔写真が映っていた。

『先日よりメンテナンスを開始している「電脳」ですが、未だバックアップと調整をしているとのことです。そのため、宵祭には参加できませんが……』

 落胆の声と溜息が外の公園からも聞こえた。恐らく火星中が息を落としたのだろう。

『宵祭には参加できませんが、カーニバル本祭のパレードへの出席が決まりました』

 先程と真逆、わぁっと地響きのように歓声が上がる。通りすがりの者同士でも、笑いあって喜んだ。それから二言三言、連盟のアナウンサーはカーニバルについての諸注意を告げたが、轟く歓声に消されて何も聞こえない。

 雷鳴のような周囲の騒ぎを余所に、久遠とラングは顔を見合わせて眉をひそめた。
 アナウンサーがさらりとした口調で告げた言葉。
 バックアップ。

「まさかたぁ思うが……」

 ラングの額にぷつぷつと脂汗が浮かぶ。
 別の機体へのデータ移行は、D・Dの容量からして連盟のホストコンピュータでもきついはずだ。何よりBDB(ブレイン・データ・ベース)システムを構築するきっかけがそれだったというのに。

 では、適合者が見つかったのか。グラウエンが「消える」前に情報局へ依頼した、対ハッカーのおとり役の人材が?
 答えは、否、だろう。

 ラングが呻く。久遠もその「まさか」を考えたくはなかったのだが。
 適合者はその痕跡を消される、D・Dのように。それが記憶の訂正。
 ならば。
 今、訂正が行われてる情報は、「死んだ」のは、誰だ?
 思い至った途端、ぞくり、久遠の血は凍った。

「馬鹿な! あいつが、グラウエンが適合者だっていうのか! 出来過ぎてる、ふざけるな!!」



[14.2]
 名を告げる前に、扉の向こうから入りなさい、と声をかけられた。穏やかな声だったが、油断はできない。いつ雷が落ちてくるか。
 李美銀は、深呼吸をして病室の扉を開けた。

「捜査官の李です。この度の処分を伺いに参りました」

 敬礼をしようとする李を制して、ウォルト・スペクターはベッドから身を起こした。まだまだ本調子ではないらしい。何しろアタマにツヤがないもの、と李はこころ密かに思う。
 細かいところまではまだ知らないが、昨日『電脳』が『アレス』にハッキングされた際、その煽りを喰らって次長も倒れたという。

「お身体の具合は……?」
「何ともない。状況が状況だったから、周りが騒ぎすぎただけだ」

 とはいえその額には、大きなガーゼがテープで止められている。倒れたときにぶつけたらしいが、そこと肌の色以外には目立って悪いような所は見えない。

「今回、君がしたことを君自身はどう思っているかね?」

 思わぬスペクターの質問に、李は一瞬黙り込んだ。久遠やラングがいつも受けているような「お小言」を散々言われると思っていたのに、静かな静かな言葉と口調だったのだ。

「捜査官は、自らを律しまた全てを明らかにすることで以て、忠誠の証としている。メモ帳の携帯はその一つだ。これは分かるな?」

 李は頷いた。研修生時代に叩き込まれた基本である。

「では忠誠を誓う相手は誰だ? 連盟か? 違う。火星の人々だ。彼らはその証だけを拠り所に、我々を信頼し、数々の特権を許してくれる。彼らの信頼を得て初めて我らは捜査官足り得るのだ」

 スペクターは言葉を切った。李はスペクターの顔を見つめ続けている。話を聞くとき相手の顔をまじまじと見てしまうのは李の癖だったが、今はスペクターから眼を離すことができなくなっていた。

「李くん。ルーキーの君がメモ帳をシャットダウンしたことは、もう火星中の噂になっている。しばらくの間は、さすがラングのパートナー、思い切ったことをする、と好意的に評されるだろう。だが三年、五年……君が捜査官を続けて行くにあたって、この件が君の足枷となっていくかもしれない。君には久遠やラングに匹敵する才能がある。だが人々から彼らのように心酔にも似た信頼を勝ち得るには、君は人一倍苦労するだろう」

 李の背を汗が伝い落ちた。淡々と告げられる言葉の重さに眩暈がする。

「……と脅かすのはこれぐらいにしよう。李美銀への処分は以上だ」
「…………はい…………?」
「聞いていなかったかね? 君への処分は訓告のみだ」

 もっと厳しい処分かと思っていた李は、目を丸くした。しかし今現在の処分は軽くとも、これからの自分の人生に置いて、重い石を抱いたような、「処分」とも言えよう。すぐにそれを悟り、李はただはいと頷いた。



[14.3]
 男の子がいた。やせていて小柄で、自分よりも年下のような感じだ。とても色の薄い金の髪を短く短く刈り込んでいる。
 その子はドクターに肩車をして貰っていた。

 途端にひどく悲しくなった。
 あたしは肩車なんてして貰ったことがない。ツキヒコのように頭を撫でられたり抱き締められたり、そんなことも一度もない。ツキヒコはドクターの子どもだからそうして貰えるのだと思っていたから、羨ましくても悲しいなんて思わなかったけれど、この子は違う。ドクターの子どもじゃないのに。

 それでもあたしは、

「こんにちは、あたしはダイアナ」

 笑って挨拶した。あたしの方が年上だし、ドクターがいたもの。

「さあ君も挨拶して」

 肩車から下りた男の子はしばらくもじもじしていたけど、ようやく決心したように、大きな声で言った。

「ぼく、アレス。よろしくねダイアナ」

 それから男の子は仔犬のようにあたしの後をついてくるようになった。
 研究所は大人だらけ。年の近い友達はツキヒコだけだったから、男の子とはいえ楽しく過ごせた。最初の内は。

 一日中、寝ている間に見る夢さえも、あたしとアレスは比べられ、いちいちカルテに書き込まれていくんだもの。イヤでも意識する。ちょっと良い数字をアレスが出すと、露骨に得意そうな表情をするし。
 子どもだから。分かっているんだけど。

 うんざり。

 このままいったら、どう転んでもあの子は研究所に残ることになる。例え実施体に選ばれるのがあたしだとしても、研究者として。
 そんなのは絶対にイヤだ。
 もう顔も見たくないんだから。



[14.4]
 久遠はコートを羽織ると、エア・レールの改札へ向けて猛然と歩き始めた。道行く人は熱気に浮かされてほとんど彼女に気付かない。久遠と肩がぶつかった者も何人もいたが、思考回路は既に歓楽へ繋がっており、嬌声ばかりが上がる。

「待て、待てってばよ月日子!」
 慌ててラングは彼女を追いかけ、大きな手で久遠の腕を掴んだ。

「本部に行くのかよ」
「決まってる!」
「行ったところでどうにもならねぇぞ。とっつかまって、コトが済むまで取調室で謹慎だ」
「だけど……!!」

 久遠はラングの腕をふりほどこうともがいた。

「こんなのはもう嫌だ。得体の知れないヤツが連盟を崩そうそしている。連盟も訳の分からないコトになってる。D・Dは私の友だちだ。グラウエンは私のパートナーだ。大事なものが壊されていくのに、隠れているなんてできない!」

 大きく見開いた黒い瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。だが久遠は自分が泣いている事に気付かぬ様子で、ラングを睨み付けていた。
 ち、と舌打ちをして、ラングは久遠の手を離した。

「しょうがねぇなぁ」

 ラングはドレッド頭をばりばり掻いた。こんな久遠は見たことがなかった。

「もうちょっとだけ待て。お前が楽に行けるようにしてやっから」

 そう言った途端。涙に濡れた頬まま、安心と信頼を浮かべた久遠の表情に、またラングは頭を掻いた。
 女の涙に弱いよなぁ、と。



[14.5]
 ドクターが廊下を走っている。
 背中にはツキヒコを背負っている。

 あたしは天地がひっくり返るほど驚いて、ぺたんと床に座り込んだ。ドクターの青い顔を初めて見たのは勿論だけど、ツキヒコの顔の真っ白な顔といったら! 口から泡も吹いてるし、手も足も暴れるようにけいれんしている。

 ドクターは、ガラガラと猛烈な速さで走ってきたストレッチャーにツキヒコを横たえると、シャツの腕をまくりながら叫んだ。

「処置室の準備は?! アレを喰ったらしい!!」
「あれ?? 何なんですかドクター!? 分からなければ治療できません!」
「例の新薬だよ! くそっ、何だってこんなことに!」

 目の前が真っ暗になった。

 何で?
 何でそれをツキヒコが食べたの?

 混乱しているあたしの前を、助手達に手を引かれてアレスが歩いていった。びーびー泣いていた。

 ……何でこいつじゃないの? 薬入りを食べるのは、アレスのはずだったのに。

 薬の存在をあたしが知らない訳がない。ブレイン・データ・ベースと一緒に研究が進められているもう一つのシステムに、必要な薬だもの。

 けれどまだ劇薬の域を出ない、未完成の薬。
 だからこそ使ったのに。憎らしいアレスが食べるよう、好物のチョコに混ぜて。綺麗な水色の紙に包んで。

 目の前は一向に明るくならない。誰か、あたしの行為をリセットして欲しい。ツキヒコを傷つけるつもりなんてこれっぽっちもなかったのよ。

 あの薬を飲もうか。百倍にでも薄めたら、この胸の痛みは消えるだろうか。忘れられるだろうか。研究所の全員に飲ませたら、これはなかったことになるだろうか。
 新薬の名は、ネバーランド。
 子ども達の楽園の名前。



[14.6]
 病室を出ようとした李は、スペクターに呼び止められた。

「聞きたいことがあったんじゃないのかね?」

 今まさにドアノブにかけられた手は、ぴたりと止まった。何故分かったのだろう。次長とは数回しか直接顔を会わせたことはない。今だって自分は普段と変わりない所作をしていたのに。

「何を聞いても構わんよ。この部屋には何も無い」

 スペクターの言葉に李は息を吸い込むと、ジャケットの内側からメモ帳を取り出した。

「次長は、この人物をご存じですか?」

 一枚の画像を読み込んで、スペクターへと差し出す。
 彼はしばらく画面を眺めた後、

「知らん男だな。グラウエンによく似ているが、別人だろう」

 ぱっと李の顔が明るくなる。

「じゃあ……」

 しかし彼はメモ帳を李へ戻しながら首を振ってこう続けた。

「そう言えば、お前は喜ぶだろうがね。嘘はつけん」

 引きつった李の顔を真っ直ぐに見ながら、彼は続けた。

「今現在、この写真の男がリチャード・グラウエンだ。間違いない」

 その言葉に、李の手からメモ帳が落ち、かたんと乾いた音を立てた。画面には『グラウエン』の写真がにこにこと笑っている。

「君が記憶の訂正から免れたのは、恐らく徹夜続きで眠らなかったためだろうね。訂正の情報は連盟の上層には必ず流れることになっている。今回の『グラウエン』の事もそうだ」
「じゃあ……それじゃあ、これは全部計画の内なんですか? 本当にグラウエンさんが立てた計画なんですか?」
「そうだ。……いや、正確に言うとそのはずなんだが……」

 スペクターは鋭い目を陰らせた。

「少々予定が違っている。グラウエンには裏側から捜査して貰うはずだったが、奴が死ぬことも、火星全土に記憶の訂正をかける事も予定にはなかった。訂正の方法もおかしすぎる」

 スペクター曰く、通常は一般市民や連盟の初級職員から訂正が始まるという。部局長クラスへの訂正はかなり後になる、と。訂正によって起きる大小さまざまな被害を防止しなければならないからだ。

 部下の尻拭いも上司の仕事だが、こればかりはどんな事が起きるか皆目検討もつかないし、どれ程大変な事が起きても部下にはフォローして貰えん、とスペクターは顔をしかめた。
 だから、と李を見やる。

「できる限り久遠を助けてやって欲しい。メモ帳のシャットダウンにネバーランド所持容疑と来れば、連盟としては久遠にしてやれることは何もない。君のできる範囲で構わない、久遠を助けてやってくれ」

 頷こうとした李を制し、スペクターはニヤリと笑って付け加えた。

「ただし、バレないように、だ」



[14.7]
 陽が傾きかけてきた。街の喧騒もだんだんと高まってきて、連盟ビルの中にまでざわめきが時折聞こえてくる。

 連盟の正面入口は、カーニバルの飾り付けによって普段よりも何倍も華やかにになっていた。甘い香りが一層雰囲気を盛り上げている。
 デコレーションの中心となっているのは、夜光花である。昼間蓄えた光を暗闇で発光する花で、白い「ムーンシャイナー」と、青い「ブルーアース」の二種類があったが、今年新たに「マーズルビー」が加わった。その赤い花をメインに据え、ガラス張りのロビーから真夜中でも光が溢れるように、受付係総出で飾り付けたのだった。

 その溢れる花の花瓶のそばに。
 ドレッド頭の大男が一人。

「ねぇ、ちょっと……」

 受付嬢の一人が、同僚に囁く。

「私、あの人、エージェントのラングさんに見えるんだけどね……?」
「……私も、なんだけど……」
「やっぱり?」
「うん、やっぱり……」
「……」
「……」
「……確か、メモ帳の電源を切ったとか……」
「こんなとこに来たら、大目玉じゃないかしら……?」

 明るい笑みを崩すことなく囁かれる会話を知ってか知らずか、ドレッド頭はデコレーションを眺めながらとてとてと歩き、とうとう受付までたどり着いてしまった。

「お仕事ごくろうさま。ところで、ここの親方を呼んで欲しいんだけど?」

 カウンターに肘をつき、男は尊大に尋ねた。受付嬢が可愛らしいのが嬉しいのか、しきりとにこにこ笑顔を振りまいている。

 二人の受付嬢はとっさに応えられなかった。捜査官ならば受付を通して面会する必要はない。ここで面会を申し込もうとする男の本意が分からなかった。
 まさかそっくりさん? カーニバルでは、お気に入りの捜査官の格好を真似する人々もいる。だが体格も態度も本人としか思えない。

「……身分証を拝見したいのですが」
「あ、悪ィ悪ィ」

 男はジャケットの内側に手を入れた。カウンターの中で二人は、万が一に備えて警報ボタンに手を添える。
 果たして、取り出したのはメモ帳だった。無造作に電源ボタンを入れる。

「ホクト・ラング、捜査官です」

 画面を見せニッコリ笑う。

 途端に受付の内線がジャンと鳴った。反射的に一人が取ると、受話器からは怒鳴り声が溢れだした。

『ラングのマーカーがいきなりそっちで出たぞ。どうなってるんだ! 奴が来てるのか! おい!!』

 辺りが皆こちらを振り返るほどの怒鳴り声だった。しかし受付嬢はまるで耳に入っていないように、呆然とラングと彼の身分証を見つめていた。



 同じ頃、誰もいない白い廊下を、久遠は静かに歩いていた。

 自分が戻っている隙に行けばいい、というラングの言葉に久遠は乗った。宵祭の仮装行列の中、ラングは連盟の正面へ行き、久遠は幾つもある「裏口」の一つへ向かった。

 今久遠が歩いている場所は連盟ビルの地階、情報局の管理棟である。コンピュータの開発と展開に使用され、同じ連盟職員でも司法局の人間は、普段立ち入ることは滅多にない。

 久遠も例外ではなかった。最初は勘のままに歩いていたが、進むうちにある形が見え始めてきた。いや見えるというより思い出してきた、と言った方が正しいか。

 幼い頃に父と暮らしていた研究所は、恐らくここだったのだろう。地下に行けば行くほど、廊下のカーブや並ぶドアを覚えている自分に気が付く。では、いつからの記憶が、あいまいになったのだろう。

 久遠は頭を振って思考の霧を振り払うと、目の前の扉を見上げた。ほかのドアと変わらないような、白い重たげな扉である。
 ここが彼女の父、久遠月哉の研究室だった場所だ。
 間違いない、と久遠は思う。網膜感知のドアロックが当時のまま付いている。小さかったツキヒコのために、以前は踏み台が置かれていたが、さすがに今はない。
 ドアの隙間に手をかけてみたが、びくともしない。昔のままなら、手動では内側からしか開かない。

 久遠はシステムの前に立つと、両眼でグレイのパネルを見つめた。ピッと小さく鳴って、システムはスタンバイ状態から立ち上がった。感知センサーがパネルに映る久遠の瞳を計測する。
 正直、久遠は驚いていた。もう何年も前にこの部屋の主は亡くなっているというのに、まだロックが生きているとは。

 しかも、彼女の網膜パターンがまだ登録されたままだったとは。

 [come in,dear my little ....]

 パネルに文字が流れ、かちりとロックが解除された。白い扉がゆっくりと左右に開く。

 溢れてきたのは、唸り。機械に電気が通う、鼓動とも言える幽かなノイズ。そして光。室内のコンピュータ類はすべて稼働しているようだった。暗い部屋の中でディスプレイの青白い光だけが皓々としている。

 そして中央の椅子が振り返った。
 久遠はその顔を見て息を飲んだ。

 座っていたのは、ポール・ビアス、だった。




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読んでくださってありがとうございます。14話・改訂版です。
前半はあまり手を加えてませんが、「D・Dの夢2」の後ろの方がちょっと違っています。
長ェ長ェ。その上これからカーニバル本祭が控えています(爆)。
すいませーん、ついてきてくださーい!(←最低やがな)


華天。



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