
足が動かないのは生まれつきだった。
それを悔やんだことはないが、外へ出られないことが苦痛だ。
まなにとって、外は塀に囲まれた庭園だけで、空は四角いのだと思っていた。
「ちょっと出かけようか」
そう告げたのは父であり、正に思いもよらない出来事であった。
外へ出てはいけないよ、と何度も繰り返していたのは、父自身であったから。
いいの? と訪ねると父は優しく頷いて「もう一四歳になったからね」。
一四歳だから、という理不尽な理由だが、まなは初めての外界に大いに喜んだ。
「どこへ行くの?」
大地主である父が多忙であるというのに、どこへ連れていってくれるのか。
期待に溢れた瞳で父を見ると、一言「海」とだけ答えてくれた。
海!
それだけで、まなの喜びは倍増した。
なにしろ、写真でしか見たことがない。それに、触れることのできる水は、
庭の池か、風呂だけであったから、果てしなく広がる水たまりとは、
一体どんなものだろう。
本当に塩っ辛いのかしら?
そんなことを考えながらも、器用な手つきでトランクへ荷物を押し込む。
やはりここはワンピースとかがいいのかしら?
白いドレスに白い日傘。その情景を頭に描くが、すぐさまに否定する。
……足を見られるのはいやだわ。
歩けない足は、情けないほどに細く貧弱で、明らかに異質だった。
結局いつも着ている和服に、白地に紺の花模様が散っている浴衣を用意すると、
女中に車椅子を押してもらいながら、父の待つ車へと急いだ。
急な旅なのでだれもが驚いたが、父の「兄の命日が近いから」の一言で納得した。
父には三つ年上の兄がいたらしい。なんでも肺を煩い、療養先で亡くなったらしい。
「墓参りだよ。まなをまだ兄さんに会わせていなかったからね」
笑うと幼くなる父は、そう言って車中いろんな話をしてくれた。
特にまなが興味を持ったのは、人魚の話だった。
七年に一度の繁殖期に、海の住人たちは陸へ上がり、ひとと交わる。
「父さまはご覧になられたの?」
「見たよ。まなのお母さまは人魚だったからね」
ふざけた答えで父は、まなの手を握ると「今日中にはつかないのだから、
少し休みなさい」と肩を貸してくれた。
初めての外……しかも、旅行であるのだから、興奮してなかなか寝つけられず、
結局、仕方なしに父は子守歌を歌うことになってしまったのだった。
目を覚ましたら、見知らぬ天井があった。
車にいたのに、なぜ?
「目を覚ましたかな?」
がちゃりとドアを開けて、父が顔をだした。
よく眠っていたから、そのまま車からおろしたのだと聞いて、ようやく納得する。
「今日はお墓参りにいくのだから、ちゃんと準備をしなさい」
それから大変だった。
時計を見ると10時を回っており、慌てて朝食なのか昼食なのか分からない食事をし、
トランクの中から浅黄色の涼しげな着物を取り出すと、手伝いに着ていた者に頼んで着付けをしてもらう。
ひとに任せるのは厭だったが、動かない足では着付けが思うようにできないのだ。
ようやく終わったら、今度は急いで髪を整える。ブラシだけと思ったが、いかんせん、暑い。
父を待たせるのに申し訳ないと思いながら、肩を幾分過ぎている髪を上にまとめて、
最後に赤い櫛をさした。
からからから………
車椅子の車輪に何度か石を絡ませつつ、父が向かったのは、墓標ではなく、砂浜だった。
「父さま?」
ざりざり音を立てて、ますます車椅子は空回る。
これ以上進むことができない、そんなところで車椅子を止め、今度はまなを背負うと、
ざくざくと砂浜を目指した。
「どこへ行くの?」
流石に不安になり訪ねるが、父はなにも答えてくれない。
しばらく進み、息をついた父は、ご覧、と指をさした。
見ると、見事な浜木綿の群生が一面に広がっている。
なんて見事なんでしょう、と溜め息をつくと、父は悲しそうに呟いたのだ。
「最初は小さかったのだよ。歳を負うごとに広がっていって……
もう、兄さんの足がどこに埋まっているのか、分からなくなってしまった……」
伯父様の、足ですって?
父の呟きに、一体どういうことなのか、と詰め寄りたいのだが、
あまりにも悲しそうにうつむいている
父に、なにも言えることはできなかった。
父の祖父が道楽で建てたという洋館は、ひんやりとして気持ちが良かった。
まなが宛われたのは、一階の奥にある洋間だった。
車椅子で、どこにでも移動できるようにと父が配慮してくれた。
日中、整理ができなかったの荷物を片づけながら、まなはぼんやりと考える。
そう言えば、伯父がいると知ったのは、昨日が初めてだった。
そればかりか、母のこともなにも知らない。
今でこそ、後妻を貰い、異母弟が二人いるが、父はまなの実の母親のことは、
なにも語らなかった。
本家の雇われ者に聞いたことが一度あるが、その者の話によると、一四年前、
いきなりまなを抱いて帰ってきたのだ言う。母がどんな人物であったのかも、
なにも語らず、娘だということを告げたらしい。
義母は、決して悪い人ではない。
自分のことを「お嬢様」と呼び、あれこれと気を遣ってくれるが、
まなが求めている愛情には答えて答えてくれないだけのことだ。
いつか話してくれるときがくる。
そう信じて再びトランクの中身を確かめていると、こん、となにかが窓ガラスに当たった。
風で石でもとばされたのかしら、車椅子を操って、振り向くと、そこには少年が立っていた。
「こんばんわ」
にっこりと微笑む少年は、物怖じもせずにまなを手招く。
「ここを開けてくれないの?」
「まあ! どうやってここまで来たの?」
敷地を囲むようにして高い塀が巡らせているというのに、どこから忍び込んだというのだろうか?
しかも、開けて、とねだるとは。
「開けてよ、まな」
「わたしの名前まで知っているの?」
ずいぶんと図々しい少年だと思いつつも、好奇心には勝てず、まなはそっと窓を開けた。
するり、猫のようなしなやかさで音も立てずに、少年は中へ入り込む。
「……ずっと、君を捜していたんだよ」
少年はすがるように、まなの手を握ると祈るようにして、抱きしめる。
まなはいきなりのことで、拒絶することもできなかった。
「僕は草一」
「わたしはあなたを知らないわ」
一方的に知られているのは、なぜか気持ちが良くない。ここで、ようやくまなは警戒した。
なにしろ、大地主の父だ。営利目的の拐かしかもしれない、まなは、さり気なく、ドアへと向かう。
「14歳になったんだろう? 迎えに来たんだよ」
「どういうことなの? 変なことをしたらひとを呼ぶから」
じりじりと少年との距離を置きながら、まなは父のいる二階を見つめる。
だが、少年はにこりと微笑むと「お父さんならでかけているよ」。
「僕はね、君をずっと待っていた。君を迎えるために、一生懸命、待っていたんだ」
「……どういうこと?」
少年はドアとまなの間に立つと、ゆっくりした動作でまなを抱きしめる。
「ずっと会いたかった。僕はね、君の片割れ。お母さんが生んだのは、双子だったんだよ」
その声は、なぜか遠くから聞こえた。
「あの子を連れてきてくれたのね、ありがとう、千尋」
男は浜辺に立ちながら、声の主と対峙していた。
その顔は苦痛に歪み、今にも泣き出しそうだった。
「違うよ……君に聞きたいことがあっただけだ。まなは渡さない」
女は腰まで水に浸かりながら、なだらかな肩を揺らして大きく笑った。
「なにを聞きたいの? 足を動かせるようにさせる方法? そんなのないわ」
「あの子は人間として育てる。そう約束したじゃないか!」
男……千尋は叫んだ。
14年前、そういう約束で生まれた二人の子どもを分けた。
「ひとりは海にかえした! 君は僕から娘を取り上げる気か?」
「じゃあ、なぜ連れてきたの?」
女は海水をすくい上げて、それを空へ放る。それを繰り返し繰り返し、
まるで幼子のようにはしゃいでいる。
「言ったでしょう? 陸に生まれた者はいずれ海に還る。あたしもそうだったでしょう?」
「まお子……頼むから止めてくれ。まなはなにも知らない。このままそっとしておいてくれ」
いよいよ千尋は泣き出した。
慈しんできた14年間。いつも怯えていた。
21年前、兄の草一が死んだとき、まお子は「千尋の子どもを生む」と言った。
その意味が分からず、14年前にここを訪れ……人外の者だったということを、初めて知った。
……海からきてね、海へ還るの。
それを口癖にしていた少女は、やはり車椅子だった。
正直なところ、千尋は諦めもしていた。
生まれつき足の不自由なまなを見て、ああ、この子もいずれ海へと還るのだろう、
そんなことを思ったりもした。だが、14年間だ。愛しているのだ、娘を。
「頼む……あの子はを諦めてくれ……足を動かせるようにしてやってくれ……」
嗚咽が喉に絡まる。
こんなことで失いたくないのだ。
あの娘は、ひととしての一生を送らせる。そのためだったら、この命をくれてやる。
だから、頼む。
「……残念ね、千尋。あの子に迎えをやらせたわ。千尋、あたしたちみたいな存在は、
人間とは相容れないのよ」
女はそう言うと、くるりと背中を向ける。暗い沖へと。
残された男は、ただひたすら号泣するばかり。
呆然としながら、車椅子に揺られながら、どこへ連れて行かれるのかと考える。
草一と名乗った少年は嬉しそうに車椅子を押している。
……僕は君の片割れ。
……お母さんが生んだのは、双子だったんだよ。
それがぐるぐると頭の中で回っている。
じゃあ、この子はわたしの弟か兄なのだわ。でも、どうして父さまは黙っているの?
それよりも、父さまは、わたしを置いてどこへ出かけたの?
じゃりじゃりと、耳障りな音を上げて車椅子は進む。
『7年に一度、繁殖期があってね。陸に上がって人間と交わるんだ』
『陸に生まれた者は14年間人間として、海に生まれた者はそのまま海に』
14年間!
そう、わたしは14歳になったのだわ。
父さまも「14歳になったからね」と仰っていたわ。
わたし……父さまに捨てられてしまうの……?
そう考えれば、なにもかも辻褄があうように思えてならない。
いきなり外へ連れ出した。今まで出ることを許さなかったのに。
今だって、いない。きっとこの子がわたしを迎えにくるのを承知で留守にしたのだわ。
涙が溢れた。
信頼していた。愛していたのに、父さまはわたしがお嫌いなのだわ、歩けないから。
「どうしたの? どこか痛いの?」
はらはらと涙をこぼしたまなに、草一は慌てる。
「泣かないで? 僕がずっと一緒にいてあげるから」
欲しかったのは、ぬくもり。
いつも抱きしめていてくれた大きな手。
それがない今、少年の差し出された手だけが、支えだった。
行き着いたのは、灯台のある崖だった。
絶壁の手前に車椅子を捨て、草一はまなを抱き上げる。
見ると、赤い三日月が口を開けて笑っている。なんとも不快な色合いだ。
「ほら、海だよ」
「黒いわ」
「夜だからね。明るいともっときれいだよ」
言いながら、一歩一歩、断崖へと足を進める少年に、まなはしがみついた。
「あぶないわ。落ちてしまう!」
「大丈夫だよ。これは儀式みたいなものだから」
砂浜をとぼとぼ歩いていると、月明かりで遠くの崖がよく見える。
千尋はそこに人影を認めた。
「あぶないわ、やめて!」
まなは叫ぶ。草一はどこ吹く風、聞く耳を持たない。
下から風が煽って、今にもバランスを崩しそうになる。
しがみつく腕に、いっそう力がこもった。
人影。目を凝らすと、どうやら子どものようだ。
千尋はさらに足を進める。
厭な予感がした。
「草一……怖いわ、止めてちょうだい」
「大丈夫だってば。これから還るんだからね」
「風、風が!」
かすかに声が風に乗って聞こえた。
「まな!」
千尋は走った。
間に合わないかもしれない、そう思うと足はいっそう砂にもつれる。
「まな。君の名前はね、愛娘のまなじゃない」
「やめて……いやよ……それ以上進まないで!」
「君の名前はね、まな………真魚、だよ」
支えていた腕が、消えた。
落下していく影を見つめて、千尋は走る。
そんなはずがない、あれがまなであるはずがない。
「まなああああああっっ!!」
……海から来てね、海へ還るんだよ。
三日月だけが、空で笑っていた。
ナギタ&華天のお友達、恵潤が書いてくれました。
以前に書いた話の続編だそうです。
人魚は好きなモチーフなので、いつか別のアプローチで恵潤に挑戦したいですね(笑)。
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